第四十一話【単独探索⑤】
◆
──驚いたな
片倉の貫手が早見に迫った瞬間、彼女の掌が軽やかに掲げられる。
それと同時に周囲の空気の粘度が一気に増し、片倉の貫手拳はまるで濃密な水の中を通るかのように勢いを削がれた。
「おっと」
それでも早見は完全には受け流せず、頬に鋭い一閃が走る。
細く滲む血が白い肌を伝い落ちる中、片倉の鼻孔を甘い香りが刺激した。
ハチミツのように芳醇で、心を惑わすかのような甘さ──だが、その甘美さの正体は死の予感そのものだった。
片倉は
数瞬後、彼が立っていた場所の空気が奇妙に振動し、瞬く間に塵や微粒子が一点に収束していく。
次の瞬間、何もかもが凝縮され──爆縮が発生した。
圧縮された空間が突然内側へと収束し、凄まじいエネルギーが一点に集中して炸裂する。
力の拡散が爆発なら、集中が爆縮だ。
その力はただの爆発とは異なり、周囲の物体や空気さえも一気に内側へ引き込む特性を持つ。
これに巻き込まれれば、身体の外皮から筋肉、そして骨に至るまで瞬時に潰され、破裂することは必至である。
片倉は僅かな差で致命的な一撃を避けたものの、その激しい圧力により皮膚がひりつく痛みを感じる。
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やすりで肌を擦りあげられたような痛みは、片倉にまざまざと死を予感させるものだった。
しかし、これが良いんだと片倉は思う。
片倉という男は精神か肉体か、あるいはその両方の痛みを悦ぶ気質があるのだ。
ただ、これをマゾヒズムだと見做すのは憚られるものがある。
組む相手組む相手、ましてや恋人さえも失ってしまえば自罰的にもなるであろう。
死は恐ろしいものなのか、それとも待ち望むべきものなのか。
片倉本人にもそれは判然としないが、彼にとって苦境は臨むところであった。
肉体の痛みや死の脅威は、そのままではただの苦痛に過ぎない。
だがそれが自らへの罰であると思うとき、片倉はそこに深い救いを見出すのだ。
戦いの中で肌が裂け、骨が軋むその瞬間を重ねる事が贖罪になると思っている。
「……君も良い性格をしているね。闘争がそこまで楽しいものなのかな」
早見が片倉の口元に浮かぶ笑みを見て、さげすむ様にいう。
勿論これは片倉の気質を見通したゆえの言葉ではないが、早見が誤解するのも無理はなかった。
歯を剥き、口角を引き上げて早見に襲い掛かる片倉は、血に酔いしれる根っからの闘争者の様にしか見えないからだ。
◆
理性が暗渠の中へどこまでも落ちていく。
普段なら冷徹に機械のような精度で敵を狩る片倉が、今は牙を剥き出し、理性を手放し──まるで獲物を前にした野獣そのものだった。
動きは直線的で荒々しく、しかし鋭い。
「力強いね。だけど分かりやすすぎるな」
早見は再び手を掲げ、空気の粘度を高めてその動きを阻もうとする。
粘りつくような空間に拳が沈み込む感覚──早見は既に片倉に追撃を入れるべく、致命的なPSI能力起動の為の精神集中を開始していた。
だがその瞬間、片倉の全身が鋭く反応する。
片倉の直感が死の香りを捉えていた。
誰しも相手に死の一撃を加えようとする時、そこにはわずかだが決定的な隙が生まれる。
相手が攻撃を完全に仕留めようとするがゆえに、その意識が一点に集中してしまう瞬間──片倉はその「死の気配」を感じ取り、逆撃を加える事ができる。
「……何ッ!?」
早見が驚愕する。
片倉の拳は空気の粘度が薄い部分を
早見は瞬時に身を引こうとするが、片倉の拳の方が速い。
片倉の拳が早見の顔面を捉え、骨が砕ける鈍い音が響き渡った。
次いで、べちゃりという柔らかいものが床に落ちた音──早見の眼球が衝撃によって彼女の眼窩から飛び出したのだ。
しかし早見は白く細やかな手をすばやく伸ばし、片倉の右腕を掴んだ。
直接接触をトリガーとするPSI能力の起動である。
早見は片倉との肌接触を通じて、精神毒ともいうべき有害な思念を注ぎ込む。
これは精神をどうこうしようというものではなく、肉体そのものに "死に向かっている"と誤認させる類のもので、 早見に触れられた箇所は急速に壊死していった。
肌は見る間に潤いを失い、ドス黒く色を変じていく。
──仕方ないか
ついには腐臭のようなものが片倉の鼻孔を捉えるに至って、片倉はあっさりと決断をした。
左手で腰に佩いたナイフを引きぬき、迷いなく自分の右腕を斬り落としたのだ。
切断面から迸る血は、筋肉の収縮とアドレナリンの分泌によって見る間に勢いを減じている。
そして斬り下ろしたナイフをそのまま早見の腹部へ突き刺し、刃先を抉りこむように手首を捻った。
「痛覚は切ってるけれど、君も容赦がないなあ」
早見は自身の腹に突き刺さったナイフを見て、まるで他人事の様に言った。
鼻は潰れ、眼球は一つ外れ、ついでに腹も突き刺されてなおも平然としているのは、彼女がもう人間以外の何かになってしまったからだろう。
片倉は早見の言葉を無視してナイフの刃を逆天に斬り上げた。
刃が肉を裂き、重要臓器を通り過ぎ、そのまま一気に頭頂部まで。
そして──
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・
・
──声が、聞こえないな
そう、あの声が聞こえないのだ。
山を越えたというあの啓示が。
とはいえ、片倉は納得もしていた。
なぜなら、探索者としての勘が "ここの探索はまで終わっていない" と告げていたからだ。
しかし。
「……ここまで、だな」
急速に力を失っていく体を押して、片倉は元来た道を引き返し始めた。
余力から見てこれ以上の探索は不可能だった。
「くそ……」
片倉は毒づく。
早見の最期のあがきは、既に片倉の肉体へ僅かなりとも浸透してしまっているらしい。
──ここでモンスターと遭遇したらヤバいな
なるべく物音を立てないように、陰から陰へと移動し、引き返していく。
そうしてついに出口へ辿りついた頃には、走る事もままならない程に疲弊しきっていた。
──あと、は、
腕からの流血も量を増し、そのままでは失血死してしまうだろうというのに、片倉の思考はまとまらない。
ダンジョン入口で倒れ伏す片倉だが。
──「おいおい、せっかく人がさあ稼ぐぞって時に目の前で死にかけてるんじゃあねえよ」
薄れゆく意識の最中、そんな声を聞いたのだった。
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