第三十一話【霧、晴れる】
◆
ダンジョンの中でも雨が降ることがある。
全天型のダンジョンならもちろんの事だ。しかし閉鎖空間などでも降る。
ただ、後者の場合普通の雨ではない。
それは──
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片倉は頬についた
ぬるりとしたその液体は、片倉がよく知る匂いを放っていた。
片倉は大きく息を吸い込みその匂いを肺一杯に取り込む。
そして何を思ったか、親指に付着するそれを舌で舐めとった。
なぜそんなことしたのか、片倉自身にもよくわからない。
しかし
鼻を抜けていく生臭い匂いにはわずかに"生"の残滓がある。
片倉は上半身が酸鼻に堪えないミンチ肉の様になってしまった瑞樹の遺骸を横目で見ながら、重い溜息をついた。
「俺達は知り合ったばかりで。こんな風に庇ってもらういわれはない筈なんですが」
言いながら片倉は突き出した左腕に力を込める。
びきり、びきりと音がして、澪の似姿を取ったモンスターが苦悶の呻き声をあげた。
瑞樹が
だからこそ誘う。
だからこそ騙す。
だからこそ
この悪辣なモンスターは過去に
「俺が殺したようなものか」
片倉が無感情に呟く。
しかしその掌で握りこむモンスターの
「俺が馬鹿で、お前なんかを澪だと一瞬でも思い込んでしまったからこうなった」
片倉の声は低く、暗い。
「本当なら、沖島さんには俺の馬鹿さ加減を死んで詫びなきゃならないのかもしれないが、俺にはやる事があるんだ。だからまずお前が先に逝って詫びておいてくれ」
ぐちゃりという音の後、ごろんと何かが転がった。
澪の面影を残すモンスターの首だ。
片倉はそれを見もせず、周囲を見渡した。
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トー横ダンジョンに立ち込めていた黒い霧が、ゆっくりと薄れていく。
まるで長い夜が明けるかのように、闇は徐々にほどけていった。
陽の光だろうか──淡い光が辺りを照らし始めると、湿ったアスファルトの路面、周囲の建物がその姿を現していく。
周囲には普段のトー横エリアと変わらない景色が広がっていた。
雑多な看板やポスターが貼られたビルの壁面、無機質なコンクリートのビル群。
しかし、人影はどこにも見当たらない。
喧騒に溢れていたはずの通りは静寂に包まれていた。
ここは依然ダンジョンなのだ。
普段と違う点は、人が不在である事以外にももう一点あった。
俗に言うトー横エリアと呼ばれる空間が、白い霧の帯で覆われている。
「境界線、か?」
霧は静かに揺らめいているが、片倉はそれを危険なものではないと感じた。
根拠はない、ただの勘である。
赤い街灯が急速に朽ち果てていく様が片倉の目に入った。
ポールにみるみる錆が広がり、怪しい赤光はもう放たれていない。
「ボスだったか」
片倉がぼそりと呟いた。
"ボス"とはそのダンジョン領域を象徴する強力なモンスターの事を指す。
遭遇すれば基本的に犠牲なしには撃退出来ないが、多くのダンジョンには出現条件のようなものがあり、それを満たさなければ顕れる事はない。
探索者の中には、好んでボスモンスターと交戦して多くの実入りを得ようとする者もいる。
◆
片倉は瑞樹の遺骸の前に立ち尽くしていた。彼女の上半身は無残にも破壊されている。
正視に堪えないその姿を片倉は無表情のまま見つめていたが、ふと瑞樹の眼鏡が地面に落ちているのに気付いた。
片方のグラスは粉々に砕け、残る方もひび割れて、フレームは歪んで使い物になりそうもない。
しかし片倉はかがみ込んでその眼鏡を拾って、懐へとしまう。
「あとは、これか」
瑞樹の端末も回収した。
回収は義務ではないが、推奨されている。
そうしてゆっくりと周囲を取り囲む白い帯状への霧へ向けて歩いて行った。
あの霧が出口だという予感があったのだ。
根拠があるわけではないが、少なくとも片倉の探索者としての本能は
・
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霧を抜ける時、頭のどこかで声が聞こえた。
──『山を超えた』
その声は
「随分と高い山だ。勘弁してくれよ」
片倉は思わずそう呟かざるを得なかった。
率直に言って悔しく、そして悲しかったのだ。
こんな事を後何度繰り返す必要があるのだろうか?
そんな事を思うと、胸の奥から重苦しい溜息が際限なく湧き出してくる。
「先は長いな、糞ッ……」
片倉は舌打ちして、ついに霧を抜けた。
視界の先には、いつもの新宿の光景が広がっている。
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・
・
沖島瑞樹は死んだ。
本来はカイトたちを同様に、その体と心を変容させられてモンスターと化す筈だったが。
しかし、死んだ。
それは瑞樹には
瑞樹にはすがるべき
過去に戻りたいなんて欠片も思っていなかった。
だからこそ干渉に影響されずに片倉を救う事が出来たし、だからこそ彼女だけが殺される羽目になった。
まあ、冷たい言い方をすれば瑞樹の死は必要経費だと言えるだろう。
仮に瑞樹にすがるべき
そうして結局二人ともダンジョンから戻る事はなかっただろう。
瑞樹の死だけで済んで良かったと思うべきなのだ。
片倉もその理屈は何となくわかってはいた。
しかし、これっぽっちも嬉しくはなかった。
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