9. 盗賊に襲われる
ぱからぱからと馬に乗って北上する。
後ろには白獅子ハクシャマルもお供についてきていた。
シアランはカスィームの前に跨って揺られている。一つに髪をまとめているが、ちょっと散歩に行くようないつも通りの軽装だ。日に負けそうな白肌に、カスィームは
無言に過ぎる時間をシアランは一向に気にしていないようだ。口を開いても兄たちのように楽しませられないだろう、と思うとよく連れ出す勇気をもてたものだ。
ただ覚えられてるかも分からなかった名前が呼ばれた時――何者も敵にならないほどの力が漲った。
『初めて見た時から、』
魔人の力が言わせたのか――その言葉に偽りがあったと思えない。不可解だった、と思いたい。持ち歩くのに多量の金貨は旧宮殿に納めようとしたものだ。自分が持っていても持ち腐れ、母を含む旧王妃たちの手向けになればと。身寄りない少女や奴隷を見かけたからといって買い付けの任でもないのに後宮に入れようとするはずがない。普段ならば。
揺れる赤いポニーテールを見る。
後ろめたさがあった。立場の変わった今さらに態度を変えるのもさることながら、一方的に身を買い上げ献上しようとした傲慢を忘れてはいない。
「はに?」
シアランが唐突に振り向きぎょっとした。しかも棒付き飴を咥えている。
「いや――疲れはないか」
「ほくには」
ちゅぱちゅぱと飴を口の中で転がしている。体から力は抜けているがぐらつきはなく体幹が崩れない。長旅に向く省力的な姿勢だった。
自堕落で享楽的で、自然体。高級なものに興味なく競争心もない。こんな娘は見たことない――というのは後宮の女ほどしか見たことがないからだろうか。ただそれだけの理由なら、これほど強烈に惹かれるのはやはり魔人の力なのだろう。
「シアラン、」
きょとんとする娘に気が緩んでふ、と笑う。
「危ないから飴を舐めながら馬に乗るな」
「えー……」
しぶしぶながらもシアランははい、と飴を渡す。「は?」ちゅぽんと口から抜かれた飴はてらりと濡れて、照られて甘い液がしたたりそうである。
「別に――ほしいわけじゃない。近くで降りよう」
慌ててそれから目を逸らしカスィームは言った。
岩場の冷たい水を汲んで渡す。こくりこくりと飲んで喉を潤すと革袋を返してよこした。半ばも残したそれをカスィームも飲み干す。
シアランはとなりでぼーっと岩にもたれかかっていた。木影の下、目も虚ろに見えて首筋には汗が滲んでいる。心配になるが思い返すと割といつもの状態のような気もした。
「カスィームも私のこと好きなんだね」
そのまま何気ない調子でシアランはつぶやいた。
「話しかけられないから、もう解けちゃったかなと思った」
「そんなことはない」
なんと答えていいか分からないうちに強い否定の言葉は出た。
「おかしくなるくらい、君が好きだ」
一度出てしまった言葉に続いて曝け出すように告白する。
「じゃあここ入れて……」シアランはするりと脚の間に入ると胸に背をもたれた。
「こうするのすきなの」
華奢な体が己の内に入り込み心臓が飛び跳ねんばかりだった。灼熱の血が全身を駆け巡り触感覚が奪われる。今斬られても数秒気づかないだろう。
しわしわと水の音が聴こえるほど静かになると、複雑な思いも滲み出た。
――十中八九、他の兄弟にも抱かせているだろう。
何も当然のことだ。シアランの
「禁欲月でよかった……」
そうでなければとうとう壊れてしまいそうだった。カスィームは恐ろしかった。禁欲的で忠実だと、自分すら疑わなかったのに、まさか上位の兄を睨み獰猛な思いを一瞬でも抱くとは。それはあってはならない亀裂だった。
「なんかみんな苦しそうな顔するよね……愛ってやっぱり大変そう」
『恋人ごっこならしてくれる』
そんな言葉が思い出されたが、やはりそれもこれまで快活な兄からは想像できない自棄な面持ち、皮肉めいた言葉だった。
ハールーンを王に、それに従い支える。
信じて疑わなかった未来が、確実に軋んでいる。突如現れた一人の娘によって。伝聞に残る悪女も、存外こんな無垢な小娘の姿をしていたのではないか。はたして狂わせた者が悪いか、狂った者が悪いか――
「シアラン、あの時は勝手なことをして悪かった。君の意思を無視して後宮に連れていこうとしたことを、悔やんでいる。ただ話しかける資格もないと思っていた」
「えー? ちょっと真面目過ぎるなぁ……。私は払ってもらった上で逃げたけど? そういえばあのお金はシンドバッドが増やして返してくれるって。だからもういいよね?」
「もういい、か」
自然笑って頭を撫でた。なんだか気の抜けていく。内にこもる思いもこうして触れれば地に流されていくようだ。そうするとあとは穏やかな愛おしさが残った。
白獅子が追い立て、飛び出した獲物を鷹が仕留める。獅子は当てずっぽうに突っ込みお世辞にも狩りの才があるとは言えなかったが、そもそも使い魔であって、獅子の形をしたなにかであるのかもしれない。目的としては近づくものの殺傷ができればよいのだから。
〜・〜・〜☽〜
薄焼けの赤い空の下、砂塵を舞い上げ馬が走る。時を忘れて遅くなってしまった。
シアランは背中にしがみついている。その速度でも獅子はぴたりと併走していて、余分な気持ちを紛らわせてくれた。
もし撒けたら、このまま砂漠の彼方に連れ去ったかもしれない。シアランはそれを拒まなそうな怖さがある。もし――と手綱をだんだん緩めて減速し、止まった。
王宮へ戻らず、東方へ向かったら? 傭兵でもなんでもして不自由なく食べさせる自信はある。かしずかれ宝飾品に囲まれるような生活を望むなら別だが、彼女の欲するものといえば一日中ごろごろできる寝床と珈琲くらいではないか。
「どうしたの?」
後ろからの声にハッとして手綱をまたしっかりと握った。
一体何を考えている、国王を
「いや……なんでもない。俺は東方の血が混じっているというから、少し思い馳せた」
「このまま行っちゃう?」
どきりとした。やはりだ。無垢なのに誘いは甘やかで、悪魔のささやきのようだ。その破滅さをきっと微塵もわかっていない。
「君が全て捨てて俺の妻になってくれるなら」
「捨てるっていうか元々なにも持ってないし……カスィームは義務感で養ってくれそうだし、暴力振るわなそうだから娶ってもらうのもありかなー」
「それに関しては自信がある。例え魔人が失せようと、一度立てた誓いを反故にすることはない」
カスィームは馬を降りシアランを見上げた。
「本当に奪ってしまおうか。君に触れた男を――実の兄達を弑してしまうのではないかと苛む夜が来る前に。君が愛を知らなくてもいい。千夜を越えても分からせよう」
夕日が沈む砂漠は朱い。赤銅の瞳はそれより熱を持って真っ直ぐだった。
「生涯君一人を愛すると誓う。シアラン、俺と結婚してくれないか」
「はたらかなくても?」
「いい」
彼の口元は緩むが瞳は揺るがなかった。シアランは口を開きかける。
その時だった。
ハクシャマルが低い唸り声をあげる。馬の足元に弓矢が射られた。馬は驚いてヒヒンといななく。カスィームが目を眇めると数十人の武装集団が馬に乗りこちらに向かってきていた。そのバラついた武器や身なり統制からみると、
「盗賊か……?」
「カスィーム、早く乗って」
シアランは急かして手を伸ばす。直前の危機本能は持ち合わせている。
「取るに足らない。――頼んだぞ、エル、シル」
そう言って馬の尻を打ち鷹を放すと、馬は応えるようにカツカツと前脚を上げ駆け出した。追いかけて鷹も低空を併走する。
「や、ちょっと⁉︎ そういうのいいから――――!」
シアランの叫びは虚しく砂漠に消えていく。弓が一斉に引かれて矢の雨が降った。
カスィームは逆光に剣を翳す。
〜・ـف・〜・〜
「あわわわ、どうしよう、どうしよう」
馬上でシアランは手綱を持つが引けども馬はびくともせず、道知るように砂埃を切って進む。王宮に向かっているのを知るともう助けを呼ぶしかないと悟った。せめて
「お願いハク、ハクシャマル、カスィームのところへ行って」
そう訴えても彼も素知らぬふりだ。改めて、彼は「王」に仕える魔物であって自分の言うことをきくわけではないということを思い知った。
・・・
「ああ〜? カスィーム? 放っとけ」
宮殿に辿り着き駆け込むとアルマラルはこんな調子で寝そべったままだった。
「アルマラル、願いが叶うまで私が主人でしょう」シアランは珍しくはっきりした口調で魔人を叱る。「まだ三つ目が残ってる」
「はぁ〜〜〜?」
魔人は心底呆れたようにため息をつき、手のひらを広げるとそこに小さな砂竜巻を現した。それがぶわりと広がって、砂嵐の中にカスィームの姿を映し出す。血まみれであるが精悍な顔つきで馬を駆け、返り血であるようだった。
へなり、とシアランは膝をつく。
「どーしちまったんだよ、シアラン。まさかそんなつまらないことを願おうとしたんじゃないよなぁ? 他人のために失うなんてみじめな人生から抜け出したっていうのに」
「そんな重いエピソードある風に言われてもないけど? なんにも変わってないよ、私は……流されてるだけ。最初からどうでもいい」
「じゃあ、どうでもいーだろ」
アルマラルは砂嵐をしゅるりと掌に収めた。
「お前が奴隷以下の生活を送りどこで野垂れ死のうと、こいつらの知ったことじゃなかっただろ? “世界一富んだ都市” イス・パルファン――その掃き溜めで石を投げられ葉クズをあさっていた鼠に、帝国の至宝たる王子達がかしづき狂わされていく喜劇は中々愉快だ……興を醒ますなよ、シアラン。操り人形にしたのはお前だぜ?」
「アルマラルの興だってどうでもいい……ランプに戻って、アル・マ・ラル」
その声に感傷はなく淡々としていて、瞳には初めから光は宿っていない。魔人アルマラルはにんまり笑って消えていく。霞に映した影をみていたかのように跡形なく、語り部のように声だけを残して。
「シアラン・アッ=ラシード……お前は人と虫ケラの区別を知らない、『王の器』だ」
〜・〜・〜☽〜
月は満ちて欠け始める。
シアランは独りぼうっと天蓋のベッドで仰向けていた。何も考えていない。そうしていかにごちゃごちゃと色々のものが頭の中でぶつかり合い散らばり訳のわからなくなっているかを眺めた。
かたり、とした物音へ身を起こしもせずに横を向く。忍び入って来た者が、あえて音を立てて気付かせたのだ。
「シアラン、」
ベッド傍で膝をついたのはカスィーム王子だった。顔には青痣があり口は切れている。
「怪我してる……」
魔人の見せた無傷は虚構だったのだろうか。
「これは兄達の私刑だが、軽過ぎる。――シアラン、危険な目に遭わせて申し訳なかった」
「カスィームが襲わせたの?」
「襲わせるような隙を作った」
「そういうこじつけは、分からないの。混乱するから謝らないで」
「シアラン……しかし怒っている。どうしたら君に許しを請える」
「怒る……?」
シアランはまだ寝転がったまま、顔だけ向ける。無敵の騎士団内ではおよそ想像もつかないだろう、しょぼんだ顔があった。
「見舞いにも行かなかったのは、忘れてただけ。自分が無事なら、どうでもいいの」
「そうか。無事で、よかった」
カスィームは少し口元を緩ませて言う。その穏やかに見つめる瞳は変わらない。
シアランは治りかけの傷が引き攣るようなむず痒さを覚えた。まるで嘘をついたような。
怒るってなんだろう――人へなにか気持ちを抱くこと? がっかりした気持ちを人のせいだと思うこと? そうだとしたら
「何を言っても誰も聞いてないままなんだ、とは思った。私の声は聞こえる?」
「聞こえる」
今度は真剣な眼差しになってカスィームは答えた。
「二人乗りでは追いつかれる。矢から武装の種類、騎馬力、統率性の技量を量って確実に勝てると判断した。馬は奪える。矢の飛距離から一刻も早い方が確実だった。二度目だろうと同じ判断はする」
ただ、と額を床に伏した。
「王宮に着き直ちに報告に上がらなかったことこそが失態だった。――お許しください、国王陛下」
「うむ」シアランは頷いて命じた。
「起こして」
カスィームは顔を上げ、シアランの背に手を入れて丁重に抱き起こす。おそらく思うより軽くて胸に抱く形になり、シアランはそこから顔を上げ、凛々しいかんばせに手を添えた。見つめ合う互いの瞳で“その”続きだと理解した。
「カスィーム……武人の妻には、なれない」
日に焼けた濃い色の肌に紫の痣が浮かぶ。触れても全く痛みを表さないが、ひと瞬き目を伏せた。
「この顔を見せたくなくて、夜になった。――ただ、月が明るいな」
その答えは昼とは異なっただろうか。そのままカスィームは身を落とし、跪いた。遠のいた唇は足の甲に口付ける。
「従僕として、君に仕えるまで」
「やめて」シアランは耳を塞ぎカスィームは契る。
「生涯」
一片弧を削いだ月は猫の目のように、暗闇からジッと獲物を捉えている。
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