2. 迷宮へ行く
「おふろ・カフェー、おふろ・カフェー」
シアランは銀貨一枚握りしめてめずらしく心弾ませていた。
幸運を、とそのまま青年がもたせてくれたもので、もちろん彼女に貯蓄や投資の概念はない。そのまま
あわや目前というところで、彼女は突如無言になり十数歩ゆき、そしてまた引き返していった。常日頃、なんの信心も良心も持ち合わせていないはずなのに――あぶく銭を手にすると途端にその姿が見えるようになる。彼女は無言で、盲いた老人が路上に座るその前に、銀貨を置いた。
「おお、なんと心優しき御仁か――折り言って頼みがある」
「うぇっ」
すぐに足早に立ち去らなかった自分の吝嗇を彼女は呪った。その
我輩は元々由緒正しきウンタラカンタラ・ウンタラ家であったが、ある日先祖の墓を参りに行った折り、不思議な洞窟の中に入り込み、そこは明かりに満ちていたので、つい代々伝わるランプを置き忘れてきてしまった。家族は激怒し、持って帰るまで戻ってくるなと言われたが、洞窟は一人の人生に一度しか開かず、誰にでも頼めることでなく、なんやかんやとウン十年立ってしまった。もう死に際の老いぼれの最後の頼みと思ってどうかきいてほしい。
「いやです……ただただ、いやです」
途方に暮れた顔でシアランは答えた。
「礼には金貨十枚……いや一生困らないだけを用意する」
「報酬系が死んでるんです。ちょっと先のことを目指して頑張れません」
「なんと。そのようなこともあるのか」
「いやはや」
重々しく頷くと、老人は苛立ちと焦燥とひとさじの憐憫をその目に浮かべた。
「これまでどのように生きてきた」
「ただ目の前に差し迫る危機だけかろうじて避けて」
「相分かった」
すると老人はすっと両手を開き差し出した。その手にはあやとりのような細い紐がかかっている。「?」と目を落とす間もなく、シアランは首を締め上げられていた。
「あっ、ぐっ」
(く……るしいっ)なんと呆気ないことか。走馬灯の狭間にザザンザザンと波の音が聞こえる。空を仰ぎ夢か現かミャオミャオと鳴く海猫に手を伸ばす。
「かふぅー」しかしまた突如解放されて、暑く乾いた空気をオアシスの水のように飲み込んだ。
「さて……気は変わったかな、お嬢さん?」
立ち上がった老人は遥かにせいが高く、開かれた目は瞳孔が開き、明らかにカタギの人間ではなかった。
「はひ……」よだれを一筋垂らしたまま、シアランは小悪党よろしく従った。
シアランは虚しくてくてく歩く。
何が虚しいって――ちょっと建物陰に引き込まれていたとはいえ、往来で絞殺されかけ、誰にも気を留められず、死んでもただ野犬の餌になり、鼻を摘まれてただ足早に通り過ぎられるだけの、死の現実に向き合ったからである。人として通報されることもない。まさに鼠の死である。
「はぁ……」
「生きて戻ったら我輩の妻にしてやろうか」
「はは……」
流石にやり過ぎたと思われたか、悪党老人に要らぬ気まで遣われる始末である。
三重の城門を抜け、ラクダの背に乗り黄金に照る砂漠をゆく。
「アブラカタブラ・開けゴマ〜」
果たして砂漠が夕日に染まるころ岩窟に辿り着き、呪文を唱えると砂塵を巻き上げ岩戸はゴゴゴと開いた。底の見えないほど下まで、階段が続いている。まるで冥府への入り口のようだった。
「……この指輪をもっていけ」
老人は、岩壁の窪みにはめた指輪を抜いてシアランの指に差し入れる。ゴツゴツといかめしく大きかったが、不思議と収縮するようにシアランの指にぴたりと嵌まった。その台座の
そうしてシアランは、ふらふらと闇の中へ吸い込まれていった。
洞窟の壁面では水晶石が発光しており、なるほど足元を照らす分の仄明るさがある。
まっすぐ進んでゆくと、どこからともなく歌声が聞こえてきた。悲鳴とも悲嘆とも似て、恐ろしい気がしながらも誘われるまま進むと、不思議なことに庭園へとたどり着いた。
歌っていたのは幾十もの
「ひっぃぃい〜」
シアランは腰を抜かしてへたり込む。「もうやだ、もうやだ」と呟きながら仔細を見ないよう顔を背けた。庭園には他に白い石が規則正しく地面から生えており、文字が書かれているのを見るにどうやら墓標のようだった。そうしてそれらが作る中央の道の奥に一本の樹があり、らしき金属製のランプが枝に引っかかっていた。
このまやかしのような空間に、そのランプだけが質量を持っているかのようだった。
(あれを掴めば)
シアランの目は据わる。立ち上がると、一歩一歩と近づいた。
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