ひとつめ

1. 後宮に入らない


       〜・〜・〜☽〜


 無窮の白い砂漠を歩き果て、男はとうとう砂に伏す。命も乾き果てようというとき、月明かりをきらりとすくうランプあり。拾いこすれば魔人が出でて、三つの願いを叶えようという。


 男はひとつ、尽きることのない水を、ふたつ、天国のような宮殿を願った。そうしてみっつ、彼の子々孫々に仕えるよう……


 これが白い砂漠に月の湾を持つ世界一の交易都市、イス・パルファーン、そして銀砂〈ギムシュ・クム〉帝国王家の興りである。


       〜・ـف・〜・〜



 時は下って史上最大の領地を征服した〈冷酷王〉、その崩御の知らせを聞いて地方の太守を任じられていた四人の王子たちが駆けつけた。中でも第一王子、ハールーン・アッ=ラシードは金の髪に凍てつくアイス・ブルーの瞳を持ち、民衆は彼を“金獅子”と讃え囃した。

 そんな宮殿前の王の広場から旧宮殿へと至るまで続く長い長ーい市場バザールの片隅では、一人の少女が危機を迎えていた。 


「このッとうとう捕まえたぞ、クズ鼠!」

「このコソ泥め、娼館に売り払ってきっちりツケは払ってもらう」 

 

 男たちに囲まれ囚われ、りんごにしゃぐりと齧り付きながらやせっぽちの少女は涙を湛えて震えた。「い、やだ。私は、まだ……」



「はたらきたくない!!」



 少女の名はシアラン。三度の飯より怠けることを良しとする、哀れな小娘である。

 

 取り囲むのは果物売りにパン売り、布売り桶売り乾物売り……ありとあらゆる物が集まる市場の店主たちが取り立てようと続々と集結し囲いはみるみる膨らんでいく。しかし今日という日は少しばかり間が悪い。幕引きをした前王妃たちが旧宮殿へと向かう道すがらにあった。王直属の騎兵団が道を裂く。


「何事である。道を開けよ」


 若くして帝国一の武で知られる、カスィーム将軍であった。行軍厳しい砂漠の日差しに馴染む橙色の髪にハシバミの眼、筋骨隆々威風堂々たる姿に群衆は平伏せ、それでも一人の店主が申し開く。

「へへぇ将軍、このクズ鼠の娘っ子を傷めつけたらすぐに退きますんで」

 将軍は馬上から娘をちらりと見やった。娘はむぐむぐしながら翡翠の瞳で見返した。


「誰の娘か」

「誰もない、誰も彼も追い出し今は奴隷の身分もない、市場に巣くう厄介者の鼠にございます」

「ふむ。今日という日は道を血で汚すわけにはいかぬ。この金貨一袋で娘を買い上げ、王宮に献上することとする。免罪せよ」


 ずしりと重い革袋が店主に渡されると、ワッと今度はそちらに人集り、あれこれと人々は口々に取り分を申し立て始めた。

 して将軍が見直ると、娘の姿は忽然と消えて、遠く駆けてゆく赤髪が見えた。

 ハッ、と馬の腹を蹴り将軍は追いかける。


「逃げるはそなたの為にならん。大人しくしろ」

 

 あえなく捕まりシアランは将軍の前、馬の背に乗せられた。


「あのう、私、本当に役立たずなんです……さっき王宮に献上するっていってましたけど、まさか女奴隷ジャーリエとして後宮にってことじゃ」

「一兵士ほどの給金も出るし十年も勤めれば年季も明けて結婚もできる」

「でも働くんでしょう?」

「それはそう」

「いやだーっ」


 はぁと将軍はため息をつきゆさゆさ暴れる娘をなだめる。


「あるいは陛下の目に留まり寵姫ともなれば働かずともよい」

「いやだーっ」

「なっ」

「はたらかないためのはたらきをしたくない!」


 シアランが勢いよく振り向くと、伸ばし放しの紅い髪がじゃっと将軍の目を打つ。


「ぶっ」

「ご免!」


 隙できこれ幸いと、シアランは馬から飛び降りするりと家々の隙間に逃げ込んだ。



「助けてください!」

 駆け込んだところ男たちは水煙草を吸い賭けに興じていた。

「んぁ?」目を上げ振り向いたのは褐色肌に銀の髪、ナイルブルーの瞳の青年だ。「嬢ちゃんかけるものはあるかい?」じゃらじゃらと勝ち金を自分の方に寄せると呑気な調子で訊いてくる。


「あなたの……心です!」


 ぷふっ、と男は軽く吹くと、コインを天井へと弾く。落ち間際に両の手のどちらかに握った。


「どっちだ?」


 シアランは男の右手を掴む。


「いい目だ」開くと銀貨が覗く。

「それに馬鹿じゃない……左と答えれば左手を開いたかもしれないもんな?」


 誰が馬鹿だ、詐欺まがいだ、このペテン師、と負けた男たちは歯軋りして野次を飛ばす。


「オーケー、助ける。で・何から?」


 と同時に入り口から眩しい陽光を塞ぎ影が伸びた。


「ここに赤髪の娘が逃げて来なかったか?」


「ひぃぃ」  

「うん? 我が末弟、カスィームじゃないか」

「兄さん⁉︎ またこんなところをほっつき歩いて――いや、今はどうでもいい。その娘を渡してもらおう。後宮へと連れるところだ」

「らしくないな、寡黙な軍人様が御自ら……ははーん、さては惚れたのか?」

「なっ、にを……違う、成り行きだ!」

「それなら俺も成り行きで――この娘は俺の女なんだ、実は。だからその後宮入りとやらはナシだ、ナシ」

「は……な、本当なのか……?」


 シアランは勢いこくこく頷く。


「悪いな、弟よ。さぁ帰った帰った」しっしと男が手を振ると、憮然としながらも将軍は踵を返す。最後恨みがましい視線を投げられた気がして、ほんの少しだけシアランも悪いなと思った。結果的に金貨一袋も無駄に使わせたのだ。


 仮にシアランを奴隷として客観的に値付けると、手違いでもその十倍、割と正確な彼女の自己評価だと百倍はゆうに超える大金だった。宮廷に献上される女奴隷といえばその美貌や才を見込まれ主人や奴隷商人から何らかの芸や教養を施されていることも珍しくない。

 シアランは無学無才だった。であるばかりか市場の「クズっきれ」を狙いその日ぐらしをする卑しいコソ泥である。


「よかったのか?」


 だから青年が軽く訊く意図も、将軍がおそらく良かれと思って「保護」してくれようとしたことも、分かってはいる。ただそれでも。それでも。


「はたらきたくないんです」


 真摯そうな声音に、青年もつられて真面目な顔で応えた。


「まぁ何が幸せかは人の決めることじゃない……あそこはいい場所でもないしな」


 そうしてからりと笑って手を差し出すのだった。


「俺の名はシンドバッド。また会えるといいな」


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