7. 恋患う王子たち
二人は競うように通りの抜け道を、あるいは屋根を、隙間を、時々家を通り抜け、けれども決して繋いだ手は離さぬように、走った。あはは、うふふと甘酸っぱい雰囲気は世界を二人だけにする。ひしめく民家を抜けようやく視界が開けると、シンドバッドはちょっと常軌を逸する高さをひらりと先に飛び降りてみせた。途中壁を足で滑り落ちながら――そうして腕を開く。
「シアラン!」
受け止めるとでもいうのであろう。彼女も先の迷宮で恐怖の感受器官をいじくられたところがあるので、勢いに任せて飛び降りた。四肢を広げて。
どすん、と幾ら軽かろうが猫ではないのでシンドバッドは背を石床につけて抱き止めた。そのまま、まるで意のごとく愉快そうにあははと笑う。シアランも、全く痛くはなくつられてにへへと悪戯したように笑う。
海だった。海の入り口あるいは迷い小路。
三日月のような銀月湾。夕日が落ちると水面は黄金に輝く。シンドバッドはその遠くを見つめた。
「もし王子じゃなかったら、俺は海へ出たと思う」
「へぇ〜 私が
海べりに腰掛けたその隣で、シアランは呑気に答える。
「だけど今は」と彼は顔を向け、ははと笑う。
「シアランが国王の内は、出れないな」
「それじゃあ船出は次の新月かな」
「禁欲月の明けるとき、か。何があるんだ? 敬虔な国教信者ってわけじゃないだろ」
「その頃に“溺愛”が解けるんだって」
「そっ」
驚くにはなんとなくの明かされ方で、拍子が抜ける。
「そうか……結構短いんだな」
空に白く透ける半月を見て、なぜだかしんみりとした。
「けど王宮にはずっといるだろ?
「うーん」
シアランは濁した。考えてはいないが、考えられなかった。王の仕事を全面的にサボっていることは自覚してそれがなぁなぁですんでるのは、ひとえに絶頂の好感度ゆえだろう。傾国するまでの責任は取りたくなかった。だからひと月と聞いてどこか安堵したのは否めない。
“王の夏休み”のみ享受して、滞った政務は目の覚めた王子たちがなんとかしてくれるだろう――はた迷惑極まりないが、そもそもこれも死後の夢かも分からない、夢としよう、という適当さがよりこの取り柄ない小娘を大胆にしていた。
生返事する娘にシンドバッドは言い得ぬ不安に掻き立てられた。十五、六ではないか? まだうら若い乙女の瞳は、陽の下で清んだ泉のように虜にするが、翳れば
――でも、珈琲を飲む時は、あれは、“先”のことだったろう。
「じゃあ俺と海に出ないか」
「じゃあ」
「約束する。もし“溺愛”が解けたとしても、俺が傍にいる」
「ああ、うーん」
シアランは気まずそうに目を逸らした。ようやく、面倒になりそうなことを口走っちゃったかな、と気づいたかのように。見世の中だけの男のたわ言をうまく捌けなかった商売女はこうであろうか。
全く信じてはいないし望んですらいない。
そんな反応を初めて受けて、シンドバッドの沽券はめた打ちにされない訳はなかった。彼の生まれて初めての真剣な告白、プロポーズは玉砕したのだ。
とはいえ『魔法』がかかっているのは共通認識であり、その反応もまあ当然、自分の気持ちも疑ってしかるべきではある。しかし彼は確信を感ずるタイプの男だった。自分を信じていた。あるいは必ず恋することになると。
「シアラン」
波は静かに打ち寄せて、浅瀬色の瞳が瞳しか映さぬほど近づく。唇が重なる間際に彼は言った。
「今はしない。ただ新月の下で俺が口付けたら、信じてくれ」
「う、ん……」
また彼女は困ったようなぎこちない笑みを浮かべたが、今度はどこか寂しそうだったので、シンドバッドは抱きしめた。体は薄く壊れそうだったので、雛鳥のように包んで。長く。海猫が鳴いていた。
〜・ـف・〜
「はぁ〜〜〜」
シンドバッドは絶賛恋患っていた。自分が恋をすると、相手も気があるんじゃないかと勘違いをする。勘違いに違いない、いやそうか? と悶々とする。
母后の間、改め王子たちの間。無論各自後宮に部屋は持っていたが、いかんせん女性用に
ジゥデルが王の間――シアランの居室から帰ってきた。くっと歯噛みする。
午前中は文字を教えているのだという。そうやって毎日会う口実をつけるとはさすがの狡猾さである。知に長け武に優れ、顔がいい。王の器として非のないことは認めるところだった。
「我が王は覚えが悪いが、そんなところも可愛いな。長く楽しめる」
すごく煽ってくる。余裕顔でふふんと。シンドバッドは悔しげに見返すことしかできなかった。
「案ずるな。側夫を認めぬほど狭量ではない。我が王には飽くることなく後宮を堪能してもらおう――俺が王政の実権を握るためにも」
・・・
「――そう。
シアランはシンドバッドに背をもたれつつザクロジュースを飲みふける。膝の間に入って椅子にするのはすっかり慣れた様子である。
「仕事だけしてくれるって……それならもうちょっと王宮にいてもいいかも」
「ジゥデルを夫に選んで?」
「そうしたら……行っちゃう?」
顔を上向けて聞く。翠の瞳にはシンドバッドの顔が映った。泉に大切なものを落として離れられない青年のような。彼は華奢な体に腕を回して閉じ込めた。
「アルマラルがいなくても、きっとお前は魔性だよ。もう行ける気がしない」
「きっと、行けるよ。ただこの後宮に一人になっても、ジゥデルは私を飼ってくれる気がするの。愛がなくても、利があれば。それを分かり合ってる気がして、楽でいられる」
そうだろうな、とシンドバッドも心のうちで同意した。ジゥデルはそういう奴だ。“溺愛”があろうとなかろうと、同じ理由でシアランを手の内にしただろう。
「ごめんね、シンドバッドは選べない」
「――それは、俺がシアランを選ばない理由にはならない」
閉じた腕は開かなかった。すると彼女は反転して、顔を近づけた。瞳と瞳を合わせるように。
「私は私を欲しいひとのものになる。はたらかなくていいなら誰でもいい。期待してもなにもこたえられない。なにもわからないの」
それから目を伏せて、睫毛が遮る。
「この前……キスされるかと思った。したら、わかるのかな?」
唇に視線を落としてその吐息がかかる。
「愛とか信じるとか……どうしたらわかるの?」
キスをしたい衝動よりも、抱きしめたい気持ちに駆られて、シンドバッドはそうした。
ちょっと泣きたい気持ちになって、ずぷんと頭まで沼につかった気もして、溺れていくのは、わかった。
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