5. 期限付きだった


「何故お前を呼んだか分かるか? ジゥデル」


 魔人の緋の目は人の心など見透かすように、超然と見下ろす。ジゥデルはそれでもフンと挑戦的な視線で顔を上げた。


「『顔がドたいぷ』と王は仰せだ。喜べ!」


 玉座ではきゃっとシアランが恥ずかしそうに顔を覆った。


 そういうわけで、見事な刺繍が施された絨毯の上、クッションを敷き詰め果物をのせた銀盆を横に、シアランはジゥデルの膝の間に収まっていた。本の読み聞かせをしてもらっているのである。背をもたれると声は直接耳骨を伝搬して体に響くようだった。


「う〜声もいい〜」


 よだれを垂らすシアランの口元に、ひとつぶ白葡萄の実が押し出されてぴゅんと入る。甘たるい汁が口腔に広がって、ころころと舌で転がした。

 時折りこうして水々しい甘味を与えられながら、物語を聴くのは至極心地よかった。


「天国では男は若い女を侍らせ、女は若い男を侍らせる、って教典に書いてあるって聞いた時は、そんなに無理していかなくてもいいかな、て思っちゃったけど、大人にならないと理解が難しいものね……」


 でへへ、と見上げればどの部位も研ぎ澄まされ無駄なところのない精確な男の顔がこちらを向いている。琥珀の瞳は獣のような獰猛さ、それでいて獲物を狙いすます理知さを秘めている。


「天国に興味がないのは同意だが、今は少しの訂正が要るな。世に珍しい紅茶の毛色をした仔猫を膝にのせ、撫でては餌をやるととろんで鳴く。この世の煩雑を忘れる至福の時だ。天国ではこのような娘の姿をしているだろう」


 ジゥデル王子は金のポットから紅茶を注ぎ、その透き通った赤に目を細めて喉を潤す。彼の好む嗜好品だった。


「物語が好きなら文字を教えよう。――こうやって」


 と彼はシアランの腰を引き上げると背中にスッと指を引く。


「始まりは ا “アルフ”」

 うなじから尾てい骨をなぞってゾゾゾとシアランはあるなら毛を逆立てる。

「ひゃうっ」

 腰を捉えられたまま耳から直に吹き込まれ、追って背に描く。

「シ」

  「あっ」

「ア」

  「ふっ」

「ラ」

  「うっ」

「ン」

  「んん〜っ」

 シアランはくてりと前屈みに身体を折った。


「ぜんぜん……覚えられる気がしない」


「次は羊皮紙に書こう」くすりと男は微笑う。

「ん、いや、いいの。勉強したくない。でも怒らないで呆れないでできれば嫌わないで」

「怒りも嫌いもすることじゃないが、却ってわずらわしくないか? 人の手を借りるのは」

「わずらわせるの。並ならず覚え悪くやる気もなく、いるだけ負担になる奴隷もいるの。がっかりさせるとがっかりしちゃうからしたくない」

「俺はお前に何も期待しない。何ができ何を考え何をしようと愛玩には関わりない」

「愛玩かぁ……猫みたいに?」

「お前の眠りを妨げないためなら、服の袖を切って立ちあがろう」

「立ち上がれないように、上で寝ちゃおう」


 シアランはそう言って、ジゥデル王子にのしかかって押し倒す。首に腕を絡めて上に寝た。ひそっと顔を見上げると満足そうに口は笑み、落ちないようその手が腰を支える。


「軽く柔らかい。我が王が立ち上がるなと言うのなら、怠けるのも仕方ないだろう」

「う〜ん、絶対的に好かれてるっていいなぁ。何でもできちゃう」

「……できるうちにするといい。魔人の力は夢のようだが夢に過ぎない。死者でなければ夢は覚める」

「え」


 ジゥデル王子は最近梳かされて艶をもった髪をさらさらと指間から落とす。


「シアラン……神が望んだなら〈イン・シャーア・ッラー〉、か……」


 半ば寝言のように呟いて、スッとジゥデルは目を閉じた。

「寝るんだ⁉︎」

 言いつつシアランもそのまま昼寝した。太陽はジリジリと高く昇っている。



 〜・〜・〜☽〜



「あ? ああ〜〜」


 魔人は寝台に寝そべりながらナッツザクザクグニグニ包み菓子を食べていた。


「そーいえば王に仕えるようになってから予め口伝されてるから説明すんの忘れてたわ」


 相変わらず銀盆に盛られた菓子に手を伸ばしながら眠たげに言う。


「禁則三つ、① ルール変更。願いを増やす等。②命の操作。不死、蘇り等。③心の操作。洗脳、精神汚染等。……はぁ〜これ言っててヤになるんだよなぁ。常識的に考えてナシだろ。叶える方の身になってみろよ」


「うぐっ……、あ、あの溺愛は③に該当すると思うんですが?」

「まぁそうだな。ノリだ。そもそもできないっつーか俺がだるいからだ。人の願いを叶え続けて幾星霜……トラブルが起きやすい事項は予め禁則に盛り込むことに落ち着いた」

「トラブル……どうなるの?」ごくりと唾を飲む。

「主に感覚の違いでな。俺的には叶えたつもりでもこんな筈じゃなかったと逆恨みされて砂漠に千年放置されたり。やってらんねーぜ……っていうフリー魔人がだるい経緯もあって初代王と取引したわけだが」

「分かる。フリーの奴隷も楽じゃないのよね」


 シアランは賢しげにうんうんと相槌打った。


「それでな……人心操作ってのは飴細工みたいなもんで出来たときは完璧でも諸条件で溶けたり砕けたり形が変わったりする。渡したあとはもう知らん。だがまぁ賞味ひと月くらいなら持つんじゃないか?」

「ふーむ長くはないが短かすぎない絶妙な期間〜 ひと月スルターンかぁ」

「まぁ俺も忘れてたしナシにしていーぜ」

「ううん。舐めかけた飴よ、むしろラッキー! 味わうぞ〜」

「おお〜、さすが享楽的で助かるぜ〜。楽しめー」


 魔人は適当につまんだざくろフレーバーのナザグ(ナッツザクザクグニグニ包み菓子。以下略)をぽーいとまた口に放り込んだ。



 〜・ـف・〜・〜



「あー、最近兄貴の機嫌がすこぶる良くて鼻につくー。くっ、これが後宮の夫人の鬱憤か」


 溜まり場となっている母后の間で、残された王子たちはただ為すすべなくやきもきしていた。


「まさか母上方の立場を味わうことになるとはな。その上後宮から外に出れないという馬鹿みたいな掟は破っていいものか?」

「トレーニングしようにも中庭さえ自由に出れないとはな……。体が鈍る。だが王子だからと言って勝手をすれば王の威光が廃れ国が乱れかねない。正攻法に則るべきだろう」

「確か王の随伴なら遠出もできたはずだ。よし、デートに誘うぞ!」

「ぐっ、遊び人の兄さんと同じ土俵に上がりたくない。そうだ、剣闘会を催せば、彼女の目に留まるかもしれない」

「誰が遊び人だ、市中観察の一環だろ。それに、どうして中々俺だって剣はたしなむぜ? ただ征服一辺倒のやり方じゃこれからは通用しないと思うがな」

「範を広げるほど維持が難くなるのは誰でも分かる。だからこそ軍備の強化は必要だ」


 シンドバッドとカスィームの弟王子たちが剣呑な雰囲気で睨み合う、とそこにジゥデル王子がしたり顔で入ってきた。


「ほうらみろ、お前たちも腹では燻っているだろう。自分の思う国政があるはずだ。わめくだけで盤には上がらない臆病者か? 管巻くうちに王手は頂く」


 ジゥデルは不敵な笑みを浮かべて告げる。


「この八番目の月、つまり禁欲月の明けた祝祭日に、王は初夜の相手を選ぶと仰せだ」

「初、夜……⁉︎」二人は目を見開く。

「そんなことあいつが言うか⁉︎ っていうほど知らないが……少なくとも禁欲の概念はないだろう。何か言いくるめたな、ジゥデル」

「そうだとして何だ? ちなみに禁欲の概念については俺も意外だった」


 このようないきさつはつい先刻に遡る。


 ・・・


 木影の下あははうふふと特に何もしていないが満ちた気持ちはする男女の桃色空間の中で、自然唇が近づいたその時である。ぱっと娘の手が自分の口を覆った。娘自身の目も泳いで、とまどいが見える。


「や、あの、ちやほやされたいけど恨まれたくはなくて(洗脳が解けたとき)」

「異なことを言う。後宮の意味も知らず命じたというのか? それとも、弟たちが気になるか」

「そ、そう――この月が明けるまでは、誰とも契らないこととする!」

「この月――なるほど禁欲月が明けてから、か。後宮ではうやむやになっていたが、道理は通る。裏を返せば、明けた後に初めて契るということだな? 全員を見定めた後に夫を選ぶと」

「うむ。厳粛な合意に基づく(となにごとも起こらないんだけども)」


 ・・・


「俺たちを競わせるとはな……。考えは柔軟、合理的でなんだかんだと踊らされている。案外に本当に王の器かもしれないな」

 ジゥデルは面白げに口端を上げる。

 

「そういう訳で、正々堂々とお前たちを下そう。ハールーンの兄上のように指を咥えて見ておきながら、不平は言うなよ」

「もう自分のもののような物言いだな、ジゥデル。王位はともかく、シアランの夫にふさわしいかはあいつ自身に決めてもらう――簡単には譲らないぜ」

「兄さんに刃向かうつもりはないが、まるで利用するようで彼女を幸せにするとは思えない。俺は真から仕え、守るつもりだ。――全力で」


 こうして、国王(シアラン)の寵愛を巡る王子たちの戦いの火蓋は切られた。


「惜しいことしたかな〜、後先見境なくただれた後宮ハレムを堪能したらよかったかな〜」

 

 シアランは棒付き飴を舐めながら空をぼんやり眺めるうち、考えることをやめた。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る