たった二人のサンカク関係【完結】
カエデ渚
第1話 駒井志乃のなんてことない物語
働く——ということは、きっと色々に人にとって意味がある。
イコール家庭を守る為、という立派な人もいるだろう。或いは、別に食うに困ってないけど暇だから、なんて羨ましい理由の人もいるに違いない。
労働には本当に多くの意味がある。
その人の昔からの夢だったり、仕方なく嫌々に、という人だって多い筈だ。
私は?
そんな御高説を長々と述べているのだからさぞかし立派な理由があるんだろう。
——なんて、思ってしまうかもしれない。
まぁ、でも。
確かに私の労働の理由は多くの労働者と同じで、尊くてかえがえのない物のためだ。
要するに
「——あ、あ……、あぁ……」
通帳残高を見て崩れ落ちる私。
そうか、そういえば先月のクレジットカードの引き落としがあるんだった。
給料日だー!
と、勇んでATMに駆け込み早速三万円ほど下ろそうとして、引き落とし不可の文字が踊った私の絶望は経験した者にしか分からないだろう。
もしかしてまだ振り込まれていないのか?
という、曲がりなりにもそれなりの大企業に勤める私は自社の総務のミスを疑いつつ通帳に記帳を行うと、人情ってものは無いのかと文句を言いたくなるくらいに性格無比な履歴がずらずらと。
家賃に光熱費、それから携帯代にクレジットカードの引き落とし。それらが入ったばかりの給料から無慈悲に搾り取っていき、残ったのは僅か二万数千円。
「……うん。仕方ないよね……。そりゃ、だって……」
「おいおい、そんなんでどうやって来月まで暮らすのさ」
「ち、ちーちゃん……」
同僚の
「そんな泣きそうな目で見ないでよ。何でそんなに金無いの?貯金だって百万円近くあったでしょうに」
大学からの友人のちーちゃんとは職場が近いのをいいことに、こうして偶にランチを一緒にしているのだが、いくら仲が良いとはいえこの時ばかりは怪訝な顔をしていた。
そして、どうにも彼女には思い当たる節があるらしい。
「……まさか、アンタあの後ホストにハマった?」
「……う、うう……」
もはやぐうの音も出ない。
あまりに確信的過ぎる言葉に、私は唸るような声しか出なかった。
そう、私は、ものの一ヶ月でとあるホストに100万円近くも貢いでしまったのである。
そう、事の始まりは、一ヶ月前の給料日。
今目の前にいる千草に誘われて、人生初のホスト遊びをしてしまった日から始まる。
◇
昔から、美少年が好きだった。
中性的な顔立ちの、何処かあどけなさが残っているような顔の男の子。
私にこんな性癖を植え付けた原因が何なのかは今となっては定かじゃ無いが、私のこの趣味嗜好に適う男の子は空想の世界にしか存在しなかった。
だから——という訳じゃないが、私は人生の殆どをオタクと呼ばれるような人種の一人として過ごしてきた。
彼氏はおろか、男友達もこれまで居なかった私を心配して、ちーちゃんが私をホストクラブに誘ったのだ。
彼女曰く、
「少しは三次元の男を知っておかないと、いつか騙されるんじゃない?」
とのことである。
今まで現実の男に一切興味を示さなかった私だ。まさかちーちゃんも、こんなことになるとは思っていなかっただろう。
まるで、免疫をつけるためのワクチンに含まれる微量な病原体で、罹患してしまうようなものだ。
まぁ、要するに。
そこで運命的な出会いを果たしてしまった訳だ。
源氏名を「
男性にしては少し低い上背、クリクリとした大きな瞳に、少年っぽさの残る笑顔。
だというのに、思わずドキッとしてしまう程の色気があって、気付けばドップリと彼にハマってしまっていた。
ホストなのだから、内面はきっと作り物だ。だが、それでも、彼との会話は楽しかった。
母性本能をくすぐるような、どこか間の抜けた性格と、それでいて貴重な青春をオタク活動に捧げてきた男性に対する免疫の無い私でも女性扱いしてくれる彼の紳士っぷりには、そりゃもう文字通り骨抜きになった。
そこから一ヶ月。
私は貯金を全て失うまで通い詰めて、ついに先日、借金してしまおうかと悩みに悩んだ挙句、これで最後だと、覚悟を決めてホストクラブへと向かった私に告げられたのは、彼が、「城ヶ崎未来」が、ホストクラブを退店したという話だ。
どこか、ホッとした。
元々オタク気質で、のめり込むと歯止めが効かなくなる。
100万近く散財してしまったとはいえ、その程度で済んだ、と思えばまだ慰めになる。
それでも、何処かで思う。
私はきっと、彼のような理想的な男性に会うことは無いのだろうな。
そんな奇妙な確信が、粘りつく糸のように、もう二度と出会えるはずのない彼の事を時折思い出させながらも、なんとも言えない酸っぱさと折り合いをつけて行く。
齢25にして、私は。
初恋をしていたのだろう、と。
思ったりする訳だ。
◇
「ま、最初は私が無理やり連れて行ったのが悪いけどさ、志乃、流石にやり過ぎ」
呆れたようにちーちゃんは喫茶店のケーキにフォークを差し込みながら言う。
彼女は要領の良い人間で、私と同じオタク仲間でもある筈なのに、何故か実社会を渡る術を心得ているようだ。
何というか、遊び慣れているというか、人間慣れしているというか。
「ま、でもさ。これで懲りたでしょ。それに三次元の男にも慣れたんじゃない?これで丁度良い塩梅ってのを覚えないと今後の人生詰みかねないのよね、アンタの場合さ」
「ちーちゃん……色々ありがと」
「それにしても本当にタイミング良かったよね。ま、来月ボーナスだしまた貯金始めなさいな」
「あ、いや。来月は推しのキャラが出演するファンミがあるから」
「……懲りないねぇ」
彼女は笑う。
半ば言い訳のようにファンミがある、と言いはしたけど。
何となく、昔のような熱意はもう私の中には燻っていなかった。
まるで何かを振り切らなければならないという焦燥感と、今まで全部参加してきたからという惰性の義務感だけが行動理由だった。
そして、何となく去来した予感の通り。
私のこの先の人生で、もう二度と理想的な男性と出会うことは無いのであった。
これはそんな私の、なんてことない物語だ。
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