第9話 “普通”について

 普通。

 私はこの言葉が苦手で、普通という状態がどれだけ難しい事なのか知っている。

 だから、と言う訳じゃないけど。私は普通というものを諦めた。

 普通に結婚して子供を産んで、旦那さんと一緒に老いていって、成人した子供が産んだ孫を可愛がって家族に看取られながら死んでいく。

 それが今の社会がスタンダードだと決めつけている普通だというのなら、私には無理な相談だ。

 心が成長したのなら、それも受け入れられるのだろうか。そんな希望を抱きながら、私は普通と背反して生きてきた。

 どうしたって妥協が出来ないのだから仕方が無い。私は二次元にしか見られない美少年以外、好きになれないのだから。


「大晦日なのに、すいません」

 助手席に乗って、恐縮そうにこちらを見る未来。火事のあった翌日には私のアパートの上の階の部屋に入居した未来だったが、家具など全てが燃えた為、取り敢えず一通り必要な物を揃えることになった。

 とはいえ、安い家具屋は遠いし、必要な物を揃えるのならかなりの大荷物になる。

 なんだか妙な縁がある未来を放って置けなくて、レンタカーを借りて車を出してやることにした。

「レンタカー代は、私が……」

 なんていじらしいことを言うので、私は少し笑う。

「こういうのは大人に任せなさい」

 と、柄にもなく先輩風を吹かせながら、ちょっとしたドライブをすることとなった。

 ちなみにちーちゃんは年越しを彼氏と過ごすとかで午前中に帰ってしまった。

 運転は好きだ。車を買う程、好きじゃ無いけど。

 流れていく景色の中にあって、これからどこにだって行けるんだ、という開放感が私の心を上向きにさせるからだ。

 いつもはちーちゃん位しか乗せないので、隣に未来がいるというのは少し変な感じだったが。

「未来は免許無いの?」

「いやー取りたいんですけどね、お金が……」

「大学にバイトに、そりゃ忙しいか」

 それに、言葉は悪いがあれだけボロいアパートに住んでいたんだ。きっと苦学生なんだろうな。

 そこまで思って、ふと気づく。

 火事になるという大事件があったのに、家族に連絡した素振りが無い。

(うーん。もしかして複雑な家庭環境ってやつなのかな……)

 両親も健在で経済的にも問題の無かった一般家庭に生まれ育った私としては、想像のつかない生い立ちなのかもしれない。

 もしかしたら。

 私が彼女に色々親身になってあげてるのは、そういう生い立ちを無意識のうちに察して、同情でもしてしまったからなのだろうか。

 などと、私の悪い癖でハンドルを握りながらあれこれ考えていると、未来がフロントガラスから目を逸らさずに、「でも」と切り出した。

「うん?」

「でも、火事になって良かった、かもしれません」

「え?どうして」

 思わず助手席に目を向ける。彼女の横顔は、何を考えているのか分からなかった。

「だって、志乃さんと一緒のアパートに住めるんですから。志乃さん、優しいし面白いし、私好きですよ」

 そんな無邪気な言葉を真正面から受け止めるほど、私は子供じゃ無い。

 それでも好意は好意だ。

 私は彼女の精一杯の称揚に笑いながら、ハンドルを切った。

「未来は上手いねぇ。しょうがない、お姉さんが幾つか家具を買ってあげようじゃないの」

「いや、別に私そういうつもりで言ったんじゃ」

「いいのいいの。素直に大人の好意は受け取っておきなさい」

 彼女の反論を封殺するように、彼女の頭を強引に撫でてみる。そこには、少しばかりの照れ隠しがあったようにも思える。


 家具屋は郊外の国道沿いにある大きな店舗を選んだ。一回で色々揃えるなら、この位大きくないと結局揃わないという、私の経験則からの判断だ。

「取り敢えず必要なのは……布団と鍋とかですかねぇ」

「え?それだけ?」

「あはは、家財保険が出るまで、そんなにお金も無いですから。それに、下着とか服とかも幾つか買わなきゃいけないですし」

 と笑いながら、未来はスタスタと布団コーナーの方へと歩いていく。

「これから寒いよ?コタツでも買ってあげようか?」

「……いいんですか?じゃあ、お願いしてもいいですか?」

「よし、任せて。あ、服は私のお古あげるよ。下着はさすがにあげられないけど……」

「そんなにして貰ってすいません。いずれお返しします」

「困ってる子を見たら助けるのが普通でしょ?気にしない気にしない」

 私は彼女がひたすら恐縮そうに伏せている目を見ながら、手を引いた。

 未来との買い物は楽しかった。

 何となくだけど、妹とか娘とかいたら、こんな感じなのかなぁ、と思ったりもしていた。


 必要な物を揃えたらすっかり辺りは夜の帳が下りていた。夜道の運転は少しばかり怖いので、慎重に運転していると行きよりもだいぶ時間がかかってしまった。

 隣を見ると未来は小さな寝息を立てていた。

「ま、昨日火事になったばかりだもんね」

 むしろ、よく買い物まで済ませる気力があったものだと感心する。

 困ってる子を見たら助けるのが普通、と私は彼女に言った。

 それは間違いなく本心である筈なのに、私何故だか彼女に嘘をついた気分になってしまった。

 普通は、苦手だった。

 大多数の人間が好む物の魅力を私には理解できなかったし、大多数の人間が通っていく通過儀礼のような物を私は幾つか通っていない。

 普通にカテゴリされるための条件を私は満たしていない。

 だというのに、今更普通、だなんて。


「もしかしたら、そういうことじゃ無いのかもなぁ」


 未来に対する、私の親切心の正体は。

 もしかしたら、そういうことじゃ無いのかもしれない。


 私のそんな呟きは、静か過ぎる最近の車のエンジン音ですら消し去れる程度には小さいものだった。

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