第10話 私と彼女の価値基準
間も無く古い年が終わって新年を迎える。新しさの中で、私は毎年、何か新しいことを始めようと気まぐれのように決意する。
別に今までの自分に不満がある訳じゃない、ただ時間が歩みを止めない中で、一人立ち尽くすことに、漠然と不安を感じてしまうのだ。
歩みを続ける時間が私の背中を急かすように押す。それに絆されて、恐る恐る一歩を踏み出すが、私は直ぐにその歩みを止めてしまう。
それは私の生来の怠惰さなのか、それとも、古さが与える安心感への依存なのか。
そんな私を見かねて、神様は私のその安心感を奪い去った。
年末に私の家は火事になった、そして転がるようにして私は、私の初恋の人と同じマンションに住むことになった。
今、新年を迎えようとしていた。
色々と生活に必要な物を揃えて、帰ってきた頃にはすっかり夜になっていた。
このまま、どうにかして志乃さんと年越しを一緒に過ごしたい、なんて煩悶としながら遂にマンションの前までやってきてしまった。
両手に購入した生活必需品の数々が入った袋をぶら下げながら、どうやって切り出そう、と悶々としていると、不意に、当たり前のように、志乃さんが言う。
「荷物部屋に置いたらさ、ちょっとコンビニ行こうよ。年越しなんだから、蕎麦とかお酒とか欲しいでしょ?」
「え?あ、はい、分かりました」
突然の言葉に私は理解が追いつかずに、気の抜けた返事をしてしまう。
「じゃ、荷物置いたらエントランスに集合ね」
と言って、彼女はエレベーターを降りた。
志乃さんは当たり前のように、私とこの後年越しを迎えるつもりだったらしい。
エレベーターの重い扉が閉まり、ガラス窓の向こうで自室に向かう志乃さんの背中を見ながら、私は思わず吹き出した。
そうか、彼女にとっては、私は部屋に招いて年末年始を共に過ごしても良い程の関係性の人間なんだ、と。
彼女にとってその関係性がどの程度の価値を与える存在なのかは分からない。だが、それでも、彼女にとって、例えそれが他人に近しい間柄でもそれを許してしまえる価値観の持ち主だとしても。
私は、私にとっては、それはある程度特別な価値なのだということを、彼女に知って欲しくなる。
私の価値基準を、彼女に知ってもらいたいという欲望。
酷く無味無臭で、悲しい程に現実的な言語表現を用いて恋という感情を紐解くのなら、きっとそういう言葉になるのだろう。
そして、更に望むのなら、その私の価値基準に同調してもらえるのなら、嬉しいことこの上ない。
「こんなもんでいいかな、未来、他に飲みたいのある?」
ビールやらサワーやらをカゴに放り込む志乃さんは、私の方を振り向いた。
既にカゴに入っている酒量は、二人で飲む分なら不足はしないだろう。
なので私は軽く大丈夫だということを伝えると、中途にあるおつまみコーナーの袋を適当にカゴに放り込みながらレジをへと向かう。
変な話だけど、私が今まで見てきた志乃さんの中で、一番大人っぽく見えた。
コンビニ程度の買い物なら値段を気にしない、というのは、少しだけ私を早く社会人にして欲しいと思わせる。同時に、当たり前のように支払いを済ませる志乃さんの姿に、私も早く気を遣わせないでお金を払えるだけの立場になりたいと、渇望させた。
二人で買い物袋をぶら下げながら、志乃さんの部屋に戻る。迎合するのは、彼女のありのままと形容するに相応しい自然な姿の部屋。彼女にとって、それを私に見せるというのは、そうしても何も気にしないという価値観に基づいているからなのだろう。
即ち、志乃さんにとって、居酒屋で一度だけ一緒に飲み交わした関係から一歩進んだ、と言っても良いのだろうか。
そんなことをふと思い、いたずら心が去来した。
「志乃さんって、結構友達と家で飲んだりするんですか?」
「え?なんで?」
買い物袋を置いて、冷蔵庫から氷を取り出す志乃さんの背中にそんなことを訊いてみると、急な私の質問に笑いながら彼女は言う。
「いや、随分手慣れてるっていうか……、私ってまだ知り合ったばかりなのに、なんか当たり前のように志乃さんの部屋に居るのが面白くて」
「そんなことないよ。ちーちゃん以外だと、未来位しか来てないんじゃないかな」
「へぇ、彼氏さんとかも来たことないんですか?」
城ヶ崎未来時代に聞き及んでいた、恋人いない歴=年齢という事実を知っているのに、わざと再び訊いてみたりする。
「居たことないからねぇ。あ、でも流石に彼氏が居たらこんな汚い部屋じゃまずいか。あはは」
と、笑う。
大して散らかっているという訳じゃないが、確かにテーブルの上にビールの空き缶やらが置きっぱなしというのは少し引っかかるかも知れない。
そんなことを思いながら、私は心の中でため息を吐く。
つまり、私はまだ、彼女の中では、恋人レベルの客人にはなってないらしい。
なんて、分かり切っていて、当たり前のことを再確認して少し凹む私は、もしかしたら馬鹿なんじゃないだろうか。
「あ、紅白もう始まってる」
「毎年紅白見てるんですか?」
「いやー、私はあんまり。いつもはアニメとか見たりしてたらいつの間にか年越してたって感じかな。ま、今年は未来がいるしね」
チャンネルを適当にぽちぽちと回しながら、志乃さんは手慰めのようにレモンサワーのプルタブを開けて氷を入れたグラスに注いだ。
「じゃあ、アニメ見ましょうよ。あ、コユウ君が出てる作品はどうですか?」
と、昨日知った彼女の好きなキャラクターの出るアニメを提案してみる。
「未来はつまらないと思うよ?」
「いえいえ、志乃さんの好きなキャラクターの出てるアニメ、観てみたいです」
「……そう?ま、ゲーム原作のアニメだから、あんまり期待しない方がいいけど」
と、期待しない方がいい理由は私にとって理解出来なかったが、彼女は棚にあるディスクを取り出してプレイヤーにセットした。
正直言って、面白いとか面白くないとかは関係なかった。
私の価値基準を彼女に知ってもらいたいと思うと同じくらいの熱量で、私は志乃さんの価値基準を知りたかっただけだからだ。
そういうことの繰り返しが、恋をするということだと思っていた。
スニーカーの紐は、初めからズレていた、ということすら知らぬままに、私は紐を結び続けていたのだ。
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