第8話 ここから
私の契約していた不動産屋と志乃さんの賃貸アパートの不動産屋は同じ会社らしい。
昨日の火事から一晩明けて、私を起こしたのは、その不動産屋からの電話だった。内容は安全確認と家財保険の手続きの説明、それから引越し先の手配の案内だった。
以前のアパートの近くがいいという希望を告げると、焼けたアパートに匹敵する家賃の安い物件は近くに無いらしく、「少しだけ家賃が上がってしまいますが……」と、まさに今私が居るアパートの空室を紹介されたのには驚いた。
これを素直に喜んで飛び付くように承諾したら、志乃さんに引かれるだろうか。
そんな不安が過り、答えを先延ばしにして一度電話を切る。
志乃さんは朝食を用意していて、まだベーコンを焼いている途中だというのに彼女の友達の風間さんはもうパンに齧り付いて朝のニュースを眠たげに眺めていた。
「不動産屋さんから?」
私が電話を切った気配を察すると、志乃さんは手を止めずに優しく訊いた。
「あ、はい。今後の手続きとか、引っ越しとか色々……。それで、引越し先の候補でこのアパート紹介されました」
と、冗談めいた雰囲気を出す為に軽く笑いながら言う。
「もしかして、瀬尾不動産で契約してた?私もそうなんだよねぇ。結構このアパート住み心地良いよ。家賃もこの辺にしては安いし、駅も近いしね」
「へぇ、そうなんですか?じゃあ、私もここにしようかな……」
と、言いながら窺うように志乃さんを見ると、彼女はそんな私の邪な考えに気づく素振りすら無く快活に笑みを浮かべた。
「いいじゃん。未来が同じアパートだと楽しくなりそう。ちーちゃん、来年結婚するし遊び相手減るかもって思ってたんだよねぇ」
「別に私は結婚しても志乃のとこに遊びに行くつもりだけど?」
「既婚者は立ち入り禁止だから、私の家」
「志乃の癖に嫉妬とは生意気なやつめ」
と私を置いて二人して戯れ合う姿を見て、本当に仲が良いんだなと思うと同時に、風間さんが羨ましくなる。
もしも私が志乃さんと同い年だったなら、彼女に気を使わせずにもっと仲良くなれるのだろうか。
そんなことを思うと、歳の差と言うのが、人の心の距離の限界値にも思えてきて、嫌になる。
「いいもんね。私には孤夕君が居るから。私あの子と結婚するからー」
戯れ合う中で、志乃さんはぶーっと頬を膨らませてそんなことを言い放つ。
コユウ君とは何者なのだろうか、と。一緒のアパートに住めることで浮かれ気味だった私の心は一気に冷え込む。
コユウ。名前としてはあまり聞き馴染みのない発音だ。いや、今時は色々な名前があるから、コユウなんて名前もありえるのかもしれない。
もしかしたらホストの源氏名なのだろうか。別のポストに入れ込んでいて、その男の名前なのかも知れない。
色々な可能性が浮かんでは消える。だが、こうして偶然とはいえ再開できたこの機会を逃す訳にはいかないと、勇気を振り絞って小さく訊いた。
「あの……コユウ君……って?」
「ん?ああ、志乃が推してるアニメのキャラだよ。こいつショタコンだからさ。あ、志乃がオタクって知らなかった?」
風間さんの言葉に私は救われたような気分になる。あまり感情的な人間ではない、と思ってきたが、どうやら志乃さんが前にいるとそうでもないようだ。
それが子供っぽくて嫌だったし、それがまさに恋をしているようで楽しかった。
「なんとなくは……。あ、そのコユウ君ってキャラクターを志乃さんは推してるんですね」
「そうそう。ほら、これこれ」
と、スマホの待受画面を見せる。
そこには和装をした狐耳の少年が物憂げな表情で立っていた。女の子のように華奢な体躯で、顔立ちも中性的だ。だというのに、一目見てこのキャラクターを少年だと断ずることが出来るのは、事前にこのキャラクターが少年だと知っていたからなのか。
それとも、
(これが志乃さんの理想だと、志乃さんが異性愛者だと知っているからなのか)
そうだ。
少なくとも男装していた私に惚れ込んでくれていたということは、少なくとも男性が恋愛対象なのだ。
騙してきた、という罪悪感云々の問題では無い。
そこに今まで気づかなかった自分の浮かれっぷりが恐ろしく感じる。
「志乃は本当に二次元にしか興味なくてさ。声優にも興味無し、アイドルなんて一人も知らないんじゃない?って位だよ。志乃さぁ、もしかして今まで現実で恋したことないんじゃない?」
「しっ、失礼な。私だって恋の一つや二つは経験してるよ」
「えぇ?少なくとも大学時代は聞いたことないなぁ」
「ま、まぁ。二つ、ってのは言いすぎたかな。でも、城ヶ崎未来君!あの子には本当に恋してたよ。いや本当に!多分あれが私の初恋かなぁ」
としみじみと志乃さんは言うが、風間さんは呆れたように苦笑する。
「ホストが初恋って……。アンタが入れ込んだホストって私も一緒に行った時に席に着いたあの男の子でしょ?まぁ、確かに志乃の好きそうな雰囲気だったねぇ」
なんていうか、男臭さが感じられないっていうか……。
と風間さんが思い出すようにそんな言葉を継いでいると、不意に私と目が合う。
「あれ?未来ちゃん、あのホストに似てない?」
風間さんのそんな言葉に、私はどんな表情をしていたのだろう。
動悸が激しさが、まるで何かを警告するかのように胸に響いていた。
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