第4話 捨てられない物

 履き古したスニーカー。

 思い出深いとか、そういう訳じゃなくて。

 ただ、なんとなく捨てられない。

 まだ履けるから、という言い訳がいつもそのスニーカーをゴミ箱から救って来た。


 それと同じで。

 私の初恋は、まだ燻っていた。

 諦め切れないとか、そういう訳じゃなくて。

 もしかしたら、という都合の良い希望的観測がいつもその恋心の火に薪を焚べていたのだ。



 ホストを辞めてから始めた居酒屋のアルバイトは、どうにも私にピッタリだ。

 学生が騒ぐような安居酒屋でも無ければ、何処か堅苦しい敷居の高い居酒屋でも無い。

 それが丁度よかった。

 それにバイト仲間もそれなりに気の許せる人達で、居心地も良かった。

 始発の出る早朝四時まで営業しているこの店は、シフトも二交代制だ。オープンする17時から23時までと、23時から4時まで。

 その日の私は早上がりの日で、さてこの注文を捌けば今日は上がりだ、と。

 両手にビールジョッキを持って駆けていくと、カウンター席に新規の客が座っていることに気づいた。

 手元にまだお通しも無い所を見ると、まだ席に着いて注文したばかりなのだろうか。

 どうやら仕事帰りの女性のようで、パンツスーツにベージュのブラウスだった。

 スラリと伸びた手足は、居酒屋のカウンター席にあっても凛としていてカッコ良さもある。

 というか、何となく見覚えがある。

 そんなことを思いながら、客席の合間を縫うように移動して、ビールを置く。空いたジョッキを回収して再び厨房に戻る途中で彼女に目線を向ける。

 今度は顔が見える角度だった。

 見覚えがあるなんてものじゃない。もしかしたら、なんていう消極的で情けない期待を持ちながらも、どこかでもう二度と会えないと悲観していた、私の初恋の人。

 駒井志乃さんが、そこに居た。

 思わず声を上げてしまう。素っ頓狂な声だったと思う。

 近くの席の人が何事かと、こちらを見るが、そんなことより志乃さんが訝しむように私を見ていた方が恥ずかしかった。

 僅かに赤面しつつ、早足で厨房に戻る。

(あっ……本当に?偶然?私に気づいてた?)

 早鐘のように響く鼓動を抑えつけながら、嬉しさと不安の入り混じる思考がぐちゃぐちゃと、纏まらないまま脳内を駆け巡る。

「白咲ちゃん、もう上がりでしょ?」

 脳内は慌ただしく色々なことを考えていた癖に、どうやら私の足は理路整然と厨房までまっすぐ戻ってきたらしい。

 半ば身体に染みついた動作で、洗い物用のシンクにビールジョッキを置いて立ち尽くしていると、深夜シフトの平田さんが不審そうに私に声をかけた。

「あ、すいません。なんかボーッとしちゃってました」

「疲れてるんじゃない?」

「いやいや、全然。あ、少しだけ飲んで帰るんで、後で注文お願いします」

「え?」

 いつも真っ直ぐ帰っていた私が珍しく店に残って一杯飲んでから帰るということに引っかかった平田さんが不思議そうに私を見たが、一刻も早く彼女の元に行きたくて、バックヤードへと急ぐ。

 まだ店に来たばかりだから、もう居ない、ということはないだろうけど。

 空いていた隣の席に違う客が座る可能性だってある。

「なんか、ソワソワしてる」

 自然と口元がにやけてしまう。

 今まで、生きることに精一杯だった。

 母親の残した借金を全部返せたとはいえ、まだまだ余裕があるほどでは無いけど。

 それでも、人生で初めて。

 私は、浮かれていたのだ。

 地に足をつけない人生というのは、こんなにも落ち着かない物なのか。

 こんなにも、繰り返されるだけの日常をいとも容易く彩ることが出来るのか。

 早く、彼女の顔が見たい。

 慌て過ぎて、ズボンに中々足を通せずになりながらも、そんな滑稽な自分の姿すら、愛おしく思えてくる。

 最後に履き古したスニーカーを取り出して、紐を結ぶ。

 固く結んでも、弱く結んでも、スニーカーの紐というのは数歩歩けば緩んでしまう。

 適切な匙加減が必要なのは、きっと人生に似ている。

 そんな気がしていた。



 どうやら私がホストの城ヶ崎未来ということは気づいていないらしい。

(まぁ、あの頃は店お抱えの美容師さんに男装風メイクも含めてセットしてもらってたし。声も作ってたしなぁ)

 だというのに、何故かバレないことに寂しさも感じていたりした。

 志乃さんは店にいた頃と同じ様に、色々なことを楽しそうに話す。酒が入って来ると、今度は自分の身の上話をさも面白話かのようなテンションで話す。

「それでさ、私、半年前に貯金全部使っちゃったの。何でだと思う?」

 赤ら顔の志乃さんは自虐的に笑いながら、私が隣の席に着いてから何杯目かも分からないハイボールのグラスを乾かしていた。

「え、なんだろ……。さっきまでの話だと、スマホのゲームの課金とか?」

 惚けてみせたのは半分嘘で、残りの半分は少しの驚きだ。

 100万近く使っていたのは知っていたけど、まさかアレで全貯金を使い果たしたとは。

「ぶっぶー!ホスト遊びに使っちゃったのよ。あはは、馬鹿でしょ?それでね、流石にこのままじゃまずいと思ってさー、ポスト遊びをやめて、節約生活してたのよ。半年で200万も貯めたの、偉いでしょ?」

「えっ!?志乃さん、もしかしてかなりの高給取りとか?」

「まさかー。普通の給料だよ。月の生活費をかなり抑えてたのよ。あー辛かった。未来、褒めてー」

 志乃さんは相変わらず酔うと甘えるみたいだ。

(アレがホストの前だけで見せる姿じゃ無かったんだ……)

 知っている姿のままで、城ヶ崎未来の前で見せていた姿が演技じゃなくて、どこかホッとしている自分がいて。

(でも私はこの人に嘘をつき続けていたんだよね)

 同時に、嘘をついていた癖に、嘘をつかれていなかったことに安堵してしまう自分に自己嫌悪もしてしまう。

 もし志乃さんが、城ヶ崎未来が私だと知ってしまうとどう思うのだろう。

 恨んでいるだろうか、怒っているだろうか。

(あんだけ大金を注ぎ込んだのに、突然店を辞めたんだもんね、そうじゃなくたって少しは思うところがあるはず)

 まるで、最初に通す穴を間違えたスニーカーの紐だ。

 きっと私が志乃さんに恋をする為に必要な出会い方とは違っていた。

 最初から間違っていた。

(でも、それでも)

「結構飲んじゃいましたね、ここら辺にしておかないと帰れなくなっちゃいますよ」

「確かに飲み過ぎたかも……。まぁ、家近いし、なんとかなるけどさ、でも、そろそろ帰ろうかな」

 志乃さんは会計を済ませると、店の外の冷たい空気を吸い込んだ。

「未来、付き合ってくれてありがとね」

「いえ、こっちが横に座ったんですから気にしなくても。それより、送りますよ。家、どっちです?」


(もう少し、もう少しだけ)

 志乃さんともう少しだけ、一緒にいれたのなら。

 例え最初の穴を間違えたスニーカーの紐だって。力加減を間違えた結び目だったとしても。

 嘘から始まった関係でも。

(きっと、それでも。私はこの恋をまだ、終わらせられないんだ)


 千鳥足の志乃さんの隣を歩く私の足元は。

 結び目が解けたスニーカーの紐が、不恰好にブラブラと揺れていた。

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