第6話 仮に私の人生が空虚だとして
「白咲、何かいいことあった?」
大学の講義を終わるなり、隣の席で講義を受けていた永瀬夕美が唐突にそんなことを訊いてくる。
当然、あった。
と、心の中で即答出来るくらいには実感している。
理由は分からないが、何故か惹かれてしまった志乃さんと再会出来たのだ。それも、私の家の近くに住んでいることすらも知ることが出来た。
ちょっとストーカー紛いな気持ち悪さもあるけど、嬉しいものは嬉しいのだから仕方がない。
とはいえ、それをそのまま伝えるのも嫌なので、適当に誤魔化すことにする。
「え?そんな風に見えた?」
「うん、ずっとニヤニヤしてたし」
と、永瀬はそんな私の様子が可笑しかったのか揶揄うように言葉を続けた。
「彼氏でも出来た?」
「いや、出来てないよ。ちょっとバイト先で良いことがあっただけ」
果たして私の答えに納得したのかどうか、永瀬の反応からは分からないが、一言「ふぅん」と言っただけで、彼女は話題を変えた。
「それよりさ、今日の講義これで終わりでしょ?どっか行かない?」
「なに、急に……。富樫君と喧嘩でもしたの?」
いつもなら彼氏の富樫君と講義が終わるなり遊びに出かける筈なのに、と永瀬の顔を一瞥する。
どうやら図星だったようだ。少し不機嫌そうに眉を動かすと、少し語気を強めた。
「それも話したいからさ。ね、いいでしょ?」
「……バイトまでの時間ならね。付き合ってあげるよ」
どうやら、初めから永瀬は愚痴りたかったらしい。
今年最後の講義日だからなのか、いつもより疎にしかいない学生達の隙間を縫って私達はキャンパスを抜け出すと、近くの喫茶店に入った。
「で、どうしたの?ついこないだのクリスマスの時はあんなに浮かれてたのにさ」
「アイツ、大晦日と正月に実家帰るって言ってたからさ、私も別の予定入れてたのにさ!」
まだ注文したコーヒーが運ばれてくるよりも早く、永瀬はぶーっと頬を膨らませる。
「あー……、それで?」
「男友達に旅行誘われたら実家行き中止して、そいつらと旅行行くって言い出すんだよ!?」
「えと……それが?」
正直、そこに永瀬が激怒する理由が見当たらない。
困惑していると丁度よくコーヒーが運ばれてきたので、一旦落ち着かせる。
「……分かんないかぁ、白咲には」
「え?何その上から目線」
笑いながら言うと、少しは落ち着いたのか、彼女も笑みを少し見せてコーヒーを口に運んだ。
「誘われて実家行くのをやめる程度ならさ、初めから私が一緒に過ごしたかったの。なんて言うのかな、気を利かせたのに、騙されたーって感じ」
騙された、という言葉に少し手が止まる。
喜びの中にある一つのシミ。
志乃さんと再会できて浮かれている私の心の中にあるたった一つの黒いシミ。
彼女を騙していたという事実。騙していたことに対する、正当性とか妥当な理由とか言い訳とか。そういうのは沢山あるけど、それでも、やはり後ろ髪を引かれるような、そんな僅かなシミがある。
そしてそれは、自分でも未熟だな、と一笑してしまう程に、「騙す」というような単語を耳にする度に広がっている気がした。
我ながら、彼女に溺れている、と。
分かってしまうのだ。
永瀬は結局のところ、富樫君を責めるだけの正当さは無いと自分でも理解していたようで、その後幾つかの愚痴を吐き出すと、満足したように帰っていった。
なんというか、そういう不満すらも彼女にとっては楽しいらしい。そういう可憐さを見ると、長瀬を羨ましく思うし、同時にその一途さを向けられている富樫君すらも羨ましく思う。
なんて考えながら、バイトを終わらせる。
時々、志乃さんの姿を店内に探したが、流石に昨日の今日で再来店は無いようだ。
少し肩を落として、帰路を進むと、私の住む安アパートに繋がる小道の入り口が妙に騒がしい。人集りも出来ているし、角の家の壁にオレンジ色の光が反射している。
なんだか嫌な予感がして、少し早歩きで近づく。
「………え?うわぁ……」
我ながら情けない声だ。
だか、それも仕方ないだろう。誰だって目の前の光景を見れば、そんな声が出るに違いない。
私のアパートが轟々と火柱を立てて燃えていた。
まだ私の部屋までは火の手は伸びていなさそうだが、あのアパートは木造だし、全焼するのにそう時間はかからないだろう。
自分でも不思議だが、そこまでショックは無かった。
あーあ、燃えちゃってるよ。と、他人事のような感想が脳内に響くのみだ。
だというのに、何故か脚に力が入らずにその場で座り込んでしまう。
部屋の中にあるのは、通帳に大学の教科書とか、あとそれから……。
(保険証とかキャッシュカードを財布に入れっぱなしにするズボラで良かった……)
と、場違いな安心材料に息を吐く。
考えてみると、燃えてしまって困るものは無い。どれだけ空虚な人生を歩んできたのだろう、という別種の悲しみがあるのは確かだが、今ばかりはそんな自分の人生に助けられている。
さて、これからどうするかな。
必死に消化活動をしている消防士に住人だと伝えた方がいいのかな。それとも、自分で警察とかに連絡するのか。
年の瀬だというのに、面倒なことになったなぁ。
と、思っていると、私の方へと誰かが近づいてくる気配を感じた。
振り向いてそちらの方を見ると、そこには志乃さんが居た。
こんな時だというのに、志乃さんと会えたことが嬉しくて、その喜色を見せることが気恥ずかしくて、照れ笑いのような笑みが浮かんでしまう。
「いやー、なんか私の部屋燃えちゃってますね」
とヘラヘラしながら、私は立ち上がる。
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