第十一話

 手すりを頼りになんとか階段を登りきったマギー・メイが最上階に辿り着いた頃、時間はもうしばらくで日を跨ぐ所だった。

 ソフィの待つ部屋へと入る前に一息入れたマギー・メイは、夫人との約束を思い出し、うんざりしたように溜息を吐いた。

 ドアを軽くノックすると、返事が返って来ず、不審に思ったマギー・メイはもう一度、今度は先程よりも強くドアを叩いた。それでも、返事が返ってくる事はなく、マギー・メイは何事かあったのだろうか、と警戒しながらドアを開けた。

 部屋を見渡して、ソフィの姿が見えない事に気付く。

 夫人が連れ出したのかもしれない、と思った。

 自分の言葉を信じた振りをして、ソフィを連れ出したのだとしたら、なかなかの食わせ者だ、と。

「……おい、いないのか?」

 マギー・メイが声を掛けると、ベッドの上で羽根布団がもぞもぞと動き、ソフィが顔だけを覗かせた。安堵に胸を撫で下ろしたマギー・メイが頬を綻ばせて、ソフィの方へと歩を進める。

「心配したぞ。何かあったのかと思った」

「……こっちの台詞よ。凄く遅かったから」

 自分を待つ間、羽根布団に包まって孤独に耐えていたのだと思うと、愛おしさを覚えずにはいられなかった。マギー・メイは片膝を突いてソフィと目線を合わせると、ソフィの頬にそっと触れる。

 すまなかったな、と謝ると、ソフィは首を横に振って、いいのよ、と答えた。

「それより、足は痛くない? 杖を忘れていったでしょう? 持っていってあげようと思ったのだけど……。貴女が待っていろ、って言ったから……」

「なんだ、そんな事。気にする事はない」

 浮かない顔のソフィに優しく声を掛けてやると、ソフィは小さく首を振って「……ごめんなさい」と小さく呟いた。

「……本当は外に出るのが怖かっただけ。貴女がきっと困っているとは思ったのだけど……。外に出るのが怖くて……」

 だって、と口ごもったソフィは羽根布団から出てマギー・メイに抱きついた。細い腕でぎゅっとしがみつくと、顔を埋めて頬を擦り寄せる。

「……おばけが出たら怖いから」

 マギー・メイはソフィの小さな体を抱き寄せて「しょうがないさ。おばけは怖いからな」と背中を軽く叩いて安心させてやった。

「もう大丈夫だ。見てきたが、おばけじゃなかったから」

「……本当?」

「業者が設備の点検に来ていたようだ。不慣れだから間違えて上まで上がってきてしまったそうだ」

 よかった、と安堵を覗かせたソフィに「遅くなってすまなかったな」と言うと、彼女は「全然いいのよ」と言って時計に目をやった。

「誕生日には間に合ってくれたもの」

 もうじきに十二時の針が重なる時計を見て「遅れるはずがないだろう」と微笑んだマギー・メイは、ソフィを仰向けに寝かしつける。

「さあ。魔法の時間だ」

 窓の外にちょうど満月が姿を見せていた。

 ソフィの誕生日、満月の晩に魔法が使える、とマギー・メイは言った。

 魔法をかけて眠らせてやる、とマギー・メイは言った。

「……本当に眠れるの?」

「私を信じろ。信じていなければ魔法は効かない」

 不安げにしばらくマギー・メイを見つめていたソフィは、わかったわ、と小さく頷く。ソフィの表情から不安の色が消えたように見えた。マギー・メイは彼女の両手を胸の上、金緑色の宝石が輝くループタイの上に重ねてやった。

「……ソフィ」

 名前を呼ばれたソフィが目を丸くしてマギー・メイを見た。

「貴女に名前を呼ばれたの、初めてじゃないかしら」

 嬉しそうに微笑んだソフィが「もう一度名前を呼んで」とねだった。

 マギー・メイがもう一度、ソフィ、と名前を呼んでやると「なんだかくすぐったい感じ」とくすくす笑みを零した。

 マギー・メイにはそんな彼女が愛おしくて、頼まれなくとも何度でも名前を呼んでやりたい気分だった。

「この塔に来て、お前と話が出来て。本当に幸せな時間を過ごしたよ。例え、神様がなんと言おうとも、お前は最高の話相手だ」

 ソフィはきょとんとした顔でマギー・メイを見た。

 どう見ても無神論者にしか見えない彼女が、急に神様がどうのと言い出した事が不思議だった。

 ふと考えて、マギー・メイが別れを前にして感傷的になっているのだろう、と思った。

 自分が眠るまでの契約が終われば、ここにはいられないと思っているのだ、と。

「ねえ、マギー・メイ」

「……どうした?」

 ソフィに声を掛けられ、マギー・メイは一瞬、身構えた。

 また、ずっと一緒にいて、とか、眠りたくない、などと言い出されては敵わないという気持ちがあった。

 それはソフィの願いをはぐらかすのが億劫だったからではなく、彼女自身、その願いを断る自信がなくなってきていたからだ。

「もしこの塔を出ても、たまにはお顔を見せてちょうだいね」

 それくらいの約束はしてもいいでしょう、という言葉にマギー・メイは驚かされた。

 わがままなおねだりばかりのお姫様が見せた、ささやかにも大きな譲歩に、マギー・メイは口元を緩めた。

 それはまるで自分の娘か妹の成長を目の当たりにしたように喜ばしい事だった。

「もちろんだとも」

 マギー・メイはソフィの額を撫でてやると、そのまま目を覆い隠して「さあ。目を瞑って」と言った。

「……緊張するわ」

「どうして?」

「言ったでしょう。初めてのキスだって」

「数に数えなくても構わないさ」

 ソフィは目を瞑ったまま、ううん、と小さく首を横に振ると、ぽそりと呟いた。

「……大事にするわ」

 そうだな、と答えたマギー・メイが頬を綻ばせている姿が、目を瞑ったままのソフィの頭に浮かんだ。

 力を抜いて、というマギー・メイの声が聞こえた。

 隣にマギー・メイがいてくれるというだけで、ソフィの心は安心感に満ちて、体からは一切の力が抜け、ふわふわとした心地良さに身を委ねた。

 マギー・メイが部屋の灯りを消して回ったのだろう。

 部屋が一層暗くなったのが、目を瞑っていてもわかった。

 それでも、一切の不安を感じる事はなく、むしろ心が穏やかになっていくような気がした。

 目を閉じた暗闇の中で、安らぎを覚えたのは何年ぶりの事だろう。

 それはもはや記憶の彼方の、最後に眠った日以来の安らぎで。

 これが眠りに落ちる時の気分なんだ、と確かに思えた。

「……見たい夢を頭の中に思い描いて」

 暗闇の中で安らかな浮遊感に包まれていたソフィは夢を想像する。

 海の夢が見たい。

 絵本で見た海。

 写真で見た海。

 頭の中でずっと思い描いていた海。

 夢を見る事を夢に見て、長い時を過ごしていたソフィにとって、夢を思い描くのは簡単なことだった。

 いつしか暗闇の中で感じていた安らかな浮遊感が、まるで海の中を漂っているように感じられた。

「……唇は少し開いて」

 マギー・メイの言葉通りにソフィが唇を薄く開く。

 淡く濡れた薄桃色の唇が、月明かりを受け、闇夜の中で際立って美しかった。

 静かな部屋に、時計の秒針が進む音だけが響く。

 時計の針が十二時に重なる時、マギー・メイは小さく口を開いた。

「……おやすみ、ソフィ」

 空の一番高くに昇った満月が、窓の外から唇を重ねる二人を照らした。

 重ね合った唇が、まるで一つに溶け合っていくようで、暗闇の中、どこからどこまでが自分の体かすら、わからなくなった。

 身体中の力が抜けて、指先一本も自分の思い通りにならなくなった頃。

 ソフィの意識も溶けて。

 溶けて。

 溶けて。

 思ったより、柔らかいのね。

 そう思ったのを最後に、ソフィの意識は深く、深く沈んでいった。

 やがて、極々小さな水音を残して、二人の口が離れた。

 マギー・メイは唇の端を手の甲で拭うと、いつの間にか手にしていた小瓶の蓋を閉めた。

 小瓶を月明かりに照らして、中に少し残った液体を確認すると、懐にしまいこむ。

 ポケットから取り出したハンカチに唾を吐いた。

「……ゆっくり眠れ」

 マギー・メイは、じっとソフィの顔を覗き込む。窓から一杯に射し込んだ月の光が、青ざめた頬を照らして白磁のように輝かせていた。その頬に優しく触れて、ひんやりと伝わる感触を慈しむように撫でてから、ほんの少し開いた唇を指先でそっと閉じてやった。

 マギー・メイは静かにソフィの体を抱きあげる。

 編み上げてやった髪が、ばらり、と音を立ててほどけた。

 重いな、と思った。

 ソフィを抱えたまま、部屋を出る。

 道すがらの足取りが、また重かった。

 だらり、と垂れた四肢が深淵から伸びた何者かの手に引き摺られているようだった。

 何度も、何度も、折れてしまいそうな程に細いはずの体を抱え直す度に、その重みを腕に感じた。

 マギー・メイが部屋を出ると、ロンズデール卿の手の者が階下で操作したのだろう。昇降機が鉄扉を開けて彼女を待ち構えていた。

 全て、手筈通りだった。

 マギー・メイは昇降機に乗り込み、ロンズデール卿の待つ城館へと向かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る