第十四話

「……まあ。そんな話だ。もう十年は昔の話だが」

 小ぢんまりとした古風なバーのカウンターに立ったマギー・メイは、話し疲れたというようにネクタイを緩める。あの頃と変わらず長い髪は小綺麗に結って纏められ、顔の傷痕はアイパッチに隠されていた。

 カウンターに座った客が困ったように苦笑いを浮かべる。

「……一番儲けた仕事の話を聞いたんだがね。今の話じゃ、報酬を貰いそびれているじゃないか」

 拍子抜けだ、と肩を竦めた客をよそに、マギー・メイは自分のグラスに、酒を一杯注いだ。

「……十分、儲けたさ」

 栓を開けたての酒の香りを確かめるように鼻先に持っていき、薄く微笑んだ。客はその表情を見て得心したように頷く。

「さては手付金をよっぽどぼったくったな。悪い奴だ」

「……どうかな」

 白を切るようにまた笑みを浮かべたマギー・メイは、話を誤魔化すようにグラスを手にし、客に向かって突き出した。

「昔話になると、いつもはぐらかされてばかりだな」

「女に昔の話なんて聞くものじゃない」

 やれやれ、と乾杯に応じた男は残り少なくなったグラスを煽った。

「もう一杯やっていくか? 初めて入れたが、いい酒のようだ」

 卸したての酒瓶を客に差し向ける。

 客が、どうしようか、と考えているうちに、バックヤードからわざとらしく足音を立てて、小さな体に不釣り合いなほどに大きな三つ編みを肩に掛けた女性が姿を見せた。

「ちょっと! ボス!」

「……む」

 マギー・メイが振り向くと、女性は小さな体で目一杯に苛立ちを表すように腰に手を当てて、むくれ顔を見せた。

「帳簿の処理が溜まっているのよ! 月末までになんとかするって言ったじゃない!」

「悪いが接客中だ。というか。ボスはやめろ、と何度言ったらわかるんだ?」

「先月も接客なんて言って飲み倒してるうちに私が帳簿を付ける事になったわ!」

 少女のような見た目で仕事の不満を並べ立てる彼女が可笑しくも愛らしくて、二人は揃ってくすくすと笑みをこぼした。

「ここのお姫様は随分とまあ……」

「可愛らしくていいだろう。うちの看板娘だからな」

 女性は、誤魔化さないで、とマギー・メイに詰め寄る。

「看板程度のお仕事しかしてないのはどちらかしら?」

 マギー・メイはお手上げとばかりに肩を竦め、悪かったよ、と苦笑いを浮かべた。

 マギー・メイがグラスを片手にバックヤードへと下がろうとすると、女性が立ち塞がって、じとっと責めるような眼で見上げた。

「お酒は置いていって」

 彼女は静かに語気を強めて、細い腕を伸ばす。少し名残惜しそうにグラスを手渡したマギー・メイが「そいつの相手を頼むよ」と言い残した。

「おいおい。客に向かってそいつとはなんだ」

「ややこしくなるから絡まないで」

 冗談めかして難癖を付ける客を溜息混じりに宥める。女性はどこからか木箱を引っ張り出してきて、踏み台代わりにその上に立って、やっとカウンターから顔を覗かせた。

「どうする? もう一杯飲むの?」

 そうだな、と呟いた客は目頭を抑え、困ったように「最近、寝付きが悪くてね」と漏らした。

「何かいい気分で眠れそうなのをくれないか」

 よく見れば客の目の下には大きなくまが浮かんでいて、確かによく眠れていないのだろうと察せられた。

「……眠れないのは辛いわね」

「ああ。いろいろ試しているんだがね。どうもよくない。さっきの眠れないお姫様の話じゃないがね」

 女性は、ふうん、と小さく鼻を鳴らすと「お酒に頼って眠るのはあまりよくないわ」と言った。

「いや、わかってはいるんだがね」

「ちなみにどんな事を試したの?」

「薬を処方してもらったよ。あまり効いている感じがないが……」

「薬に頼るのもあまりよくないわね。他には?」

「気持ちが落ち着く香を炊いたりな」

「落ち着くのと眠れるのは別よ。他には?」

「それくらいさ。十分だろう。祈祷師でも呼んでみるか」

 客の言葉に女性はくすくすと思い出し笑いのような笑みを漏らした。

「それは絶対だめ。おかしくって眠るどころじゃないわ」

 彼女はお湯をガラス製のポットに注ぎ入れると、その中で踊る茶葉を客に見せた。

「しばらく眺めていて。きっと落ち着くわ」

 客は言われるがままにぼんやりとポットの中で踊る茶葉を眺めた。確かに不思議と気持ちが落ち着いてきた頃、女性がぽそりと呟く。

「……眠れない夜に一番効くおまじないを知らないのね」

「おまじない?」

「ええ、そうよ」

 彼女はカップに紅茶を注ぎ入れると、角砂糖をティースプーンに乗せ、その上にブランデーを垂らした。

 角砂糖に火をつけると、薄暗い店内の中で青白い炎が幻想的に揺れて燃えた。

「……綺麗なもんだ」

「そうでしょう」

 炎が消えると、すっかり溶けた角砂糖を紅茶に落とし、うらぶれたバーには不釣り合いなほど優美な手つきでくるくるとかき混ぜた。

「ティー・ロワイヤルよ。アルコールは飛んでしまっているけれど。飲み過ぎると眠れないから丁度いいわ」

 眠れない貴方にサービスよ、と差し出された紅茶の香りに客は溜息を漏らした。

「ああ。いい香りだ。これが一番よく効くおまじないかな?」

 ティー・ロワイヤルの香しい芳香にすっかり気持ちを落ち着かせた客がそう尋ねると、女性は静かに首を横に振った。

「違うわよ。眠れない夜に一番よく効くおまじない。それはね……」

 彼女は目を閉じて、そっと唇に指先を宛てがうと、こう呟いた。


 おやすみのキス。

 世界で一番優しい魔法よ。

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世界で一番優しい魔法 蟻喰淚雪 @haty1031

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