第十三話
夜通し、車を走らせた。
広大なロンズデール家の敷地を越え、山を一つ越え、月が落ちていくのを横目に眺めながら、長い道程を走った。
後部座席で眠りについたソフィに、答えが帰ってくるはずもない言葉を掛け続けた。
海辺は風が気持ちいいんだ。
沖にはくじらが見えるかもしれん。
波打ち際を少し歩こうか。
綺麗な貝殻でも探しながら。
あまり波が強くないといいんだが。
いや、しまったな。
お前の靴を持ってきてやるのを忘れたよ。
彼女にとって、それは眠気覚まし半分の一人喋りでは、決してなかった。
ソフィが言葉を返す事はなかったが、それでもマギー・メイは話を続けた。
マギー・メイのお喋りの話題も尽きかけた頃、ようやく浜辺に辿り着いた。
砂の上に、シート代わりにコートを敷く。後部座席で横たわるソフィを抱きかかえ、車のフロントバンパーを背もたれにして、コートの上に腰を下ろした。
空はちょうど白み始めるかどうかの頃合いで、まだ真っ黒な海を、漣の音と騒ぎ始めた海鳥の声に耳を傾けながら、ぼんやりと眺めた。
尻に敷いたコートのポケットから、スキットルを漁った。手探りで探り当て、ポケットから引き出す。スキットルではなく、薬瓶が掌の中にあった。
マギー・メイは耳の横で薬瓶を振った。予定よりも随分余らせてしまった、中の液体を持て余して、脇に置いた。
スキットルを取り直すと、ほんの一口、ブランデーを口に含む。久方ぶりのアルコールが喉を焼き、寝不足の頭に、ぼんやりとした気怠い火照りを覚えた。
膝の上で眠りにつくソフィの顔を覗き込み、髪を撫で、頬を撫で、唇を指でなぞった。
遠く、水平線の向こうに陽の光が差すのが見えた。
じわりじわりと空が白むにつれて、ソフィの金髪が輝きを取り戻していくように美しく煌めいた。
朝の陽射しがソフィを照らす。
「……う、ん」
絞り出すように、か細いうめき声が聞こえた。
眠りを妨げる陽射しに不満を漏らすように、ソフィの眉間にささやかなしわが寄った。
「お目覚めか? ねぼすけ」
自分が殺めたはずの少女が息を吹き返したというのに、マギー・メイは当たり前のように声を掛け、ソフィの頬を指先で突っついた。
「マギー・メイ……?」
胸元の金緑色の宝石が陽射しを受けて輝く頃、ソフィもまた薄く目を開け、金緑色の瞳を覗かせた。朝焼けの眩しさに何度も目を瞬かせる。マギー・メイは優しく微笑みかけて、また髪を撫でてやった。
「目覚めのキスはいらなかったな」
マギー・メイの言葉に、ソフィはほんの少しだけ口元を緩めた。倦怠感に包まれた体に、また小さなうめき声を漏らす。体が重く、痺れるようで指の一本さえ思い通りに動かなかった。
「……体が動かないの。なんだか頭も痛いみたい……」
マギー・メイは腕を動かせないソフィに代わって、痛む頭を押さえてやる。
「……寝起きだからだろう」
マギー・メイの言葉を繰り返して、口の中で小さく、寝起き、と呟く。この倦怠感は寝起きのせいなんだ、と多少は腑に落ちても、自分が今まで眠っていたという実感は全くなかった。
「ここ、どこ……」
首を動かして辺りを見渡す事も出来ず、視界には自分を覗き込むマギー・メイの微笑と、夜明けの薄ら赤い空しか映らなかった。
「見えなくてもわかるはずだ」
マギー・メイはソフィの鼻先と耳たぶに指先で触れる。
「ほら。耳を澄ませて、風の匂いを嗅いでみろ」
ソフィは静かに目を閉じた。目を閉じた闇の中で、気怠さや痺れに鈍った体が、闇に溶けていくように感じた。
まるで、今も夢の中にいるように薄らいだソフィの意識は、マギー・メイの言葉通りに、見えずとも周囲の様子を掴んだ。
耳に波のさざめく音が届いた。
鼻先を潮の香りがくすぐった。
「……海?」
目を開いて、金緑色の瞳を宝石のように輝かせたソフィが「海なのね、マギー・メイ」と同意を求めた。
海を見た事がなくても、すぐにわかった。
写真で見て、本で読んで、心に思い描いた海。
飽きるほど、擦り切れるほどに読み返した物語の数々に描かれた海の音と香りが、今、自分が海辺にいる事を教えてくれた。
「ああ、海が見たいと言ったろう」
「まだ見てないわ」
懸命に首を動かそうとしても、ソフィの首は動かなかった。
夢を見た事のある者なら、力を込めるほどに自分の体が思い通りにならない、その感覚は夢を見ている時のようだ、と思っただろう。
夢を見ないソフィにその感覚はわからなかった。
「……抱いて、マギー・メイ。体が動かないの。海の見える場所まで連れて行って」
マギー・メイは返事を返す代わりに、ソフィの体を抱き上げた。
晩に感じた引きずられるような重さはなく、軽々と細い体を持ち上げると、ソフィの手を取って自分の襟元を握らせた。
相変わらず手に力は入らなかったが、それでも出来る限りの力を込めた。襟を握った手が、力無く垂れ下がる事はなかった。
「見ろ。朝日が昇るところだ」
マギー・メイは首が動かせないソフィのために、彼女の視線を朝日に向けるように位置取った。
遥か向こうの水平線に朝靄が立ち上って、赤く照らされていた。昇ってくる太陽が尾を引いているようだった。
「……知らなかったわ。海が赤く染まるなんて」
朝焼けが朱に染めた海を眺めて、綺麗、と呟いたきり言葉を失った。
「十年ぶりの眠りはどうだった?」
ソフィは動かない首を横に振ったつもりで力を込めて、わからないわ、と呟く。
「……実感がないわ。夢は見れなかったし。体は動かないし、頭は痛いし」
ソフィは眉間に皺を寄せて、寝起きは最悪、とこぼした。
寝起きなんてそんなものだ、と答えたマギー・メイはソフィを抱え直すと、それに、と話を続けた。
「もしかしたら、まだ夢の中かもな」
「……だとしたらあまりいい夢じゃないわ」
「海の夢は見れただろう?」
「……真っ赤な海は綺麗だけど。泳いでないし、お魚も見ていないもの」
マギー・メイは「全く。贅沢になったものだ」と苦笑を漏らして、ソフィの背中を軽く叩いた。
「このまま、少し波打ち際を歩こうか」
マギー・メイの言葉に、ソフィはほんの少し、極々僅かながら首を動かした。
「……そうしたいけど。頭が痛いの。とっても」
横になりたい、と訴えたソフィの頭をそっと撫でる。
マギー・メイは、そうしよう、と一言呟いて、来た道を引き返した。
もう一度、コートの上に腰を下ろすと、膝の上にソフィを横たえた。目を閉じて眉根を寄せるソフィを覗き込む。
「……痛むか?」
「ええ、酷く痛むわ」
ソフィは縋るような目をマギー・メイに向けると、お願いよ、と絞り出すように言った。
「もう一度、魔法をかけて。眠ってしまいたいの」
マギー・メイは傍らに転がっていた使いかけの薬瓶を手に取った。
親指で弾くようにして蓋を開ける。
薬瓶を逆さまにひっくり返して、中の液体を全て砂浜に流した。
「……悪いが。もう、魔法は使えない」
マギー・メイがそう言うと、ソフィは表情に落胆の色が浮かぶのを隠さなかった。
「……それじゃあ眠れないじゃない」
「こうしていれば、じきに眠くなる」
ソフィの目の上に手を置いて陰を作ってやる。目の前を覆った手が、日差しを受けて薄ぼんやりと赤い光を隙間から漏らした。
「……こんなのじゃ眠れないわ」
「眠れる」
「……眠れない」
「眠れる」
何度も同じやり取りを繰り返すと、マギー・メイはひとつ、控えめに欠伸を漏らした。
「私も眠いんだ。ひと眠りしよう」
「一人だけ眠る気?」
「一緒にだ」
「眠れないのは知っているでしょう」
「眠れただろう」
「魔法を掛けてもらわないと眠れないわ」
堂々巡りに飽き飽きしたマギー・メイは静かに目を閉じる。ソフィが何度も、マギー・メイ、と名前を呼んでも返事をする事はなかった。
無言のうちに、早く寝ろ、と言っているようで、ソフィもなんとか眠ってみようと目を閉じたが、倦怠感ばかりがへばりついて、微睡みは一向に訪れなかった。
「……マギー・メイ。眠ってしまったの?」
手足をじたばたさせてマギー・メイの眠りを妨げてやりたかったが、重たく痺れる体では、それもかなわなかった。
「……お願いよ。マギー・メイ」
ソフィは精一杯の力で痺れる腕をなんとか持ち上げて、弱々しくマギー・メイの頬に触れた。
「……キスをして。魔法なんかいらないから。普通のキスをしてちょうだい」
きっと、それで眠れるから。
小さな声に応えるように、マギー・メイは細く目を開き、頬に触れたソフィの手を取った。
華奢な体を優しく抱き上げてやり、目を閉じたソフィの顔をそっと覗き込む。
「……今度はいい夢を見ろ」
おやすみ、と呟くと、そっと唇を重ねた。
その唇の柔らかさに、ソフィは魔法のキスを思い出した。
あの晩、薄れゆく意識の中で最後に感じた、あのキスの柔らかさを思い出した。
魔法なんて、かかっていないのかもしれないけれど。
今、重ねた唇は、あの晩よりも優しく感じた。
もしかしたら、最初から魔法なんかいらなくて。
唇を重ねる事が、おやすみの魔法なのかもしれない、と思った。
柔らかくて。
温かくて。
幸せな。
おやすみのキス。
世界で一番、優しい魔法。
膝の上で幸せそうに微笑むソフィの背中を優しく撫でてやった。
手のひらに伝わる息遣いが、吐息か、寝息か。
身を寄せ合う二人には、もうどうでもいい事だった。
瞼が重くなるのを感じ、背中を撫でる手の動きもそぞろになった頃、マギー・メイは微睡みの中、ぽつりと呟く。
「……悪くない仕事だった」
ゆりかごのような潮風に吹かれ。
上等な羽根布団のように暖かい日差しに包まれ。
凪いだ海の水平線の向こうで、くじらが子守唄を歌う頃。
マギー・メイは久方ぶりの眠りに身を委ねた。
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