第十二話

「……これはこれは。皆さん、お集まりで」

 ソフィを腕に抱え、城館に姿を現したマギー・メイを、その場にいた者の全てが注視していた。

 城館の主であるロンズデール卿。

 ロンズデール家に連なる一族の者達。

 それに仕える従者達。

 一様に神妙な面持ちを見せる中で、ロンズデール夫人が一際、険しい表情でマギー・メイを見つめていた。

 ロンズデール卿がマギー・メイに向かって歩を進めると、家人達は直ちに退き、人垣が割れて道が出来た。

 自分より背の高いマギー・メイを見上げ、彼女の腕の中の娘に目を落とした。

「……娘はどうなりましたかな」

「ご覧の通りだ」

 ロンズデール卿が久しぶりに目にした娘の顔は、彼の記憶にある顔と全く変わらず、幼いままで、塔の中で止まった時間を過ごしていたように感じられた。

 目を瞑ったままのソフィはまるで深い眠りについているようで、自ら確認する代わりにマギー・メイを見上げた。マギー・メイはそんな彼をつまらなそうに鼻先で笑いとばした。

「この子が眠らない事など、貴方が一番よくご存知なのでは?」

 仰る通りだ、と呟いたロンズデール卿はソフィの頬に軽く触れる。指先に感じたその冷たさに、咄嗟に手を引いた。

 自らの指示で娘の命を奪った事に、良心の呵責を覚えたのだろうか、沈痛な面持ちのロンズデール卿を見て、マギー・メイは嘲るように笑みを漏らした。

「いや、失礼。もう長い事、お会いになっていないと聞いたものだから。あんな場所に閉じ込めておいて、果ては命を奪っておきながら。今更、よくもそんな顔が出来ると思うと……」

 もはや堪えきれない、というように、マギー・メイは家人達の目も憚らず、笑い声をあげる。誰もが言葉を失っている中で、マギー・メイの嘲笑だけが響いた。

 返す言葉もなく、俯いたままのロンズデール卿を押し退けるようにして、夫人がマギー・メイの前に立った。

 マギー・メイは血相を変えた夫人を見て、わざとらしく、頭を下げた。

「これはこれは。先程はどうも……」

「お黙りなさい!」

 夫人は慇懃無礼な挨拶を怒声で遮ると、掴みかからんばかりの勢いで詰め寄った。

「殺さないと……! 娘を殺さないと約束したはずです!」

 夫人の言葉に皆が一斉に顔を上げて彼女を見た。

 夫人がソフィを殺める事に反対していたのは、家の誰しも、それこそ末端の使用人に至るまでに周知されていた。それでも、夫人がこの不遜な傭兵と密約を交わしていた事に、その場の誰もが驚きを隠さなかった。

 何よりも、夫人がマギー・メイを睨みつける光景が、家人達には信じられなかった。

 心優しく、穏やかで、物静かな、ロンズデール家の華と謳われた夫人の顔が怒りに満ち、唇を震わせ、眉を吊り上げ、人を睨み付けるのを、その場にいた誰もが初めて目にした。

 夫人の目の前の、この館に最も相応しくない女を除いては。

「おめでたいご婦人だ。まさか本当に私のような者の言葉を信じるとは……」

 マギー・メイが薄ら笑いを浮かべて嘲ると、夫人はいよいよ彼女に掴みかかった。

「貴女という人は……!」

 夫人に掴みかかられたマギー・メイはソフィの体を落とさないように抱え直す。止めに入ろうとした家人を睨み付けて制すると、夫人の顔を覗き込んだ。

「ああでも言わなければ退かなかっただろう。私はご主人から受けた依頼を全うしただけだ。非難を受ける謂れはない」

 そう言うと、夫人の手を掴み、ソフィの首筋に宛がった。

「せいぜい悼んでやる事だな」

 しばらくソフィの首筋に触れていた夫人は、指先に伝わる感触に顔色を変えた。全身から力が抜けてしまったように、その場に泣き崩れる。使用人が駆け付け、蹲って泣きじゃくる夫人を宥めるのを、マギー・メイはじっと見下ろしていた。

「こちら、報酬です」

 酷く陰惨な空気の中、おずおずと足を踏み出した使用人が、報酬の入ったアタッシュケースをマギー・メイの足元に置いた。ケースを開き、ぎっしりと詰まった札束を彼女に確認させた。

「現金で用意させてよかった。こんな大金を目にする機会など、そうはないからな。なるほど、これが命の値段というわけだ」

 さっさと受け取って帰ればいいものを、と疎ましげな視線を送る者達に構わず、マギー・メイは足元の大金をしげしげと眺めた。

 やがて、顔を上げ、ぽそりと呟く。

「……大したものじゃあないな」

 言うが早いか、アタッシュケースを乱暴に蹴り上げる。宙を舞ったケースから札束がぼろぼろとこぼれ落ち、床一面に散らばった紙幣がまるで紙切れのように見えた。

「子供殺しの報酬は受け取らない事に決めた。是非、皆様方で拾い集めて頂きたい」

 せいぜい浅ましくな、と呟いたマギー・メイは踵を返した。

 呆気に取られて床に散らばった大金を眺めていた者達は、マギー・メイがソフィの体を抱えたまま、城館を立ち去ろとする姿にざわつきを見せた。

「娘の遺体をどうするのだ!」

 家人の前に立ったロンズデール卿が声を張り上げると、数人の使用人がマギー・メイを取り囲んだ。彼女は全く怯む事なく、ロンズデール卿に向き直った。

「……私が連れて行く」

 マギー・メイは当たり前のように、報酬代わりにな、と言い切る。

「そんな事を許すはずがないだろう」

 ロンズデール卿の言葉に、マギー・メイを取り囲んだ使用人達が圧を強めるように半歩にじり寄った。マギー・メイはソフィの体を抱え直し、強く抱き締めた。

「この子の夢を聞いた事があるか」

「夢……?」

 マギー・メイの問い掛けに、ロンズデール卿は返答を持たなかった。最後に顔を合わせたのが、いつの事かもわからない娘の夢を知る由もなかった。

「夢を見る事が夢だったそうだ。月が昇る度に、今日こそは、と思いながら、一睡も出来ずに朝日を迎え、その度に、今日も眠れなかったと思うのだ、と。貴方にはお分かりになるか。眠る事を諦めかけても、夢を見る事を夢に見て、眠り姫の童話を擦り切れるまで読む子供の気持ちが」

 わかるはずもない、と吐き捨てたマギー・メイは、もう一度「この子は私が連れて行く」と語気を強めた。

「海の夢が見たいと言っていた。この子が高い塔の上で、どれだけ見晴らしても目の届かぬ海を夢見ている間に。貴方は何度、本物の海を目にした?」

 ロンズデール卿は返す言葉を失った。二人の間に流れた沈黙を、誰も破る事が出来なかった。

「この手で海の見える場所に葬ってやりたい」

 マギー・メイは腕の中で眠るソフィの顔を覗き込んだ。

 不遜な態度の傭兵が見せた表情が慈愛に満ちるのを、その場の全員が確かに感じ取った。

 金のために子供を殺めたと思われた女が、報酬を拒み、今、目の前で子供を抱き締め、その境遇の憐れを訴えている。

 ある者は彼女の見せた慈愛に、聖母の美しさを重ねた。

 傷だらけの無骨な彼女の姿が、見かけだけの美しさに塗れた城館の中で、真実、美しいものを際立たせているように感じた。

 それは彼女の言い分に理があると思わせるに十分だった。

「改めて貴方がたに聞こう。この子を私に委ねるかどうか。出来ないと言うのなら、私の仕事はそれで終わりだ。この身柄はお返しする」

 しばしの逡巡の後、ロンズデール卿がマギー・メイへと歩み寄った。

「行いを軽蔑されようと、ソフィは娘だ。お返し頂きたい」

「……そう仰るのならば、お返しする他ない」

 小さく呟いて、名残惜しそうに、腕の中で目を閉じたままのソフィと鼻先を合わせた。一歩前に出て、ソフィの体を差し出す。

「葬儀には参列して頂いて構いませんが」

「……ありがたいが。遠慮しておこう」

「そうですか。娘は寂しがるかもしれませんが」

 ロンズデール卿がソフィの身体を受け取ろうとした時、伸ばした腕に夫人が手を置いて制した。

「……お待ちになって。私はソフィがその方にどれほどの信頼を寄せていたか、存じています。傍で見ておりましたから」

 夫人は潤んだ目でソフィの顔を覗き込むと、そっと頬を寄せた。

 久方ぶりに感じる娘の肌の柔らかさに涙を零し、重ね合わせた頬を伝って、ソフィの頬に涙が流れた。

「……もっと早くこうしていればよかった。影から見守った気になって、貴女に寂しい想いばかりさせて。悪い母でした」

 夫人はソフィの頬にキスをして、愛おしそうにその顔を見つめた。

「……最後に顔を見せてやりたかったと思うのは、母のわがままなのでしょうね」

 そう言って、無理やりに作ったような微笑みをソフィに向けた。まるでソフィが涙を流したかのように濡れた頬を、指先で拭ってやった。

「……きっと娘は、貴女と共にいる事を選ぶでしょう」

 静かに一歩下がった夫人は、深々と頭を下げた。

「どうか最期の時まで、娘をよろしくお願い致します」

 よろしいですね、とロンズデール卿に目線を向ける。彼は眉根を寄せてしばらく黙っていたが、やがて大きな溜息を吐いて「……お前が言うのなら」と呟いた。

「……どうかくれぐれも丁重に弔ってやってください。私からも頼みます」

 並んだロンズデール夫妻の顔を見て、マギー・メイは小さく頷いた。

「今度は決して約束を違えないと誓いましょう。無神論者なので、神に誓う事は出来ませんが」

 そう言って、マギー・メイは恭しく片膝をつき、頭を垂れた。

「貴女の涙と、高潔なるソフィ・ロンズデールの御名に誓いましょう。最期の瞬間まで、彼女と共にある事を」

「マギー・メイ。貴女を信じます」

 夫人は頭を垂れたマギー・メイに手を差し伸べる。

 マギー・メイはその手にささやかに口付けをして応えた。

「……娘を頼みます」

 立ち上がったマギー・メイに夫妻が深々と頭を下げると、続いて家人、使用人達もそれに倣った。

 マギー・メイは小さく頷いて応えると、静かに踵を返して城館を後にした。

 車の後部座席にソフィを横たえると、エンジンに火を入れる。

 目頭を指で押さえて、大きく息を吐くと、アクセルを踏み込んだ。

 夜通しの運転になると思った。

 ソフィが見たがった、あの海までは。

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