第五話

「隣り合ってずっと仲良くやってきたふたつの町があった。鉱物資源が豊富な山が近くにあってな。ふたつの町は入口を別々にして、お互い不利益が生じないように採掘を進めていた」

 静かな語り口を聞き、ソフィは寝返りを打ってマギー・メイに向き直る。ベッドの脇に並ぶように座り、真っ直ぐに前を向きながら話すマギー・メイの横顔を、燭台の薄灯りが照らしていた。ゆらゆらと揺れる炎がその影を映し出し、幻想的な雰囲気を醸し出して耳を傾ける者を惹き込んでいくようだった。

「ある日、一方の町の坑道から宝石の原石が採掘された。最初は珍しい事もあるものだ、という程度に思っていたが、掘り進める毎に採掘出来る量は増えていった。その町の鉱夫達はすぐに隣の町の鉱夫にも教えてやった。この鉱山からは宝石が採れる、と。その時には彼らは特に気にも留めなかった。そういう事もあるのか、よかったな、と」

「それだけ?せっかく宝石が採れるかもしれないのに?」

「あまり欲の無い人達だったんだ。欲が無い、というより無知だったのかもな。宝石なんかより鉄鉱石の方が、使い道があってずっといいと考えていたんだ」

「そういう人達もいるのね」

「田舎の人だからな。宝石なんか持っていたって着飾って何処に行くわけでもない。だが、外の人間は別だ。宝石の出た町に目を付けて、宝石を買い取り、採掘のために多額の投資をした。すぐに町は栄え、住人達は豊かになった。隣の町とは比べ物にならないほどに。その発展を目の当たりにした隣の町の者達も、そうなると目の色を変えて採掘に勤しんだ。宝石が出れば、自分達の生活も変わる、と」

「さっきは宝石よりも鉄の方がいいって言ってたのに」

「知ってしまったからさ。宝石がどれほど高く売れるか、それを纏った人間がどれほど美しいか。知ってしまえば嫉妬する。今まで同じような生活をしていた者が、美しい宝石で身を飾り、それに相応しい高価な服を着て、立派な車で夜会に向かうんだ。羨ましくてしょうがないだろう。嫉妬は褒められた感情ではないだろうが、嫉妬心を抱く事を咎める事は誰にも出来はしない」

 枕を抱いて、ふうん、と小さく鼻を鳴らしたソフィは「私達も誰かに嫉妬されている?」と尋ねた。

 マギー・メイは「私達とは? この家の者か?」と尋ね返す。

「ええ。誰かの嫉妬を買っているのかしら」

「知らんよ、そんな事は。だが、金を持っているというだけで羨ましいと思われるには十分だろうな」

「……そうでしょうね」

 ソフィが枕をきゅっ、と強く抱き直して小さくそう呟く。

「金は人を変える。持つ者も、持たない者も、等しくな」

 ソフィに聞かせるわけでもなく発した小さな声が、二人だけの静かな部屋で、やたらに大きく聞こえた。思いがけず響いた呟きに、マギー・メイは首を小さく横に振って、息を漏らした。

「……話を戻しても?」

 マギー・メイの言葉に、ソフィは声を出さずに頷くだけで肯定を示した。

「隣町の人達も一生懸命に採掘を進めた。それでも出るのは鉄、鉄、鉄。宝石なんか出やしない。彼らは栄えた町の人達に尋ねた。少し貴方達の坑道の方に向けて掘り進めてもいいか、と。もちろん、そんな事を許すはずがない。彼らは手酷く追い返された。当たり前の事のはずなのに、彼らはそれを不満に思った。あいつらは変わってしまった。昔はもっと優しい人達だったのに、と」

「……それくらい許してあげたらいいのに」

 ソフィの言葉にマギー・メイは、馬鹿な事を、と言いたげに手をひらひらと振って応えた。

「長い間、ルールを守って採掘してきたんだ。お互いの町の方に向けては採掘をしない、と。少しくらいなら、とルールを破り、それを許せば際限が無くなる。彼らにもそれはわかっていたから、不満はあれど、その場は納得した。それでも掘れども掘れども宝石は出ない。少しずつ溜まっていった不満はいつしか怒りに変わった。自分達も頑張っているのに、どうしてあいつらだけがいい思いをしているのか、と。彼らは我慢出来ずに無断でもう一方の町の方へと採掘を進めてしまった」

「……それじゃあ喧嘩になるわ」

「その通りだ。ある日、最悪な事が起こった。宝石が出る前にふたつの町の坑道がぶつかってしまったんだ。坑道がぶつかったのは鉱山のちょうど真ん中辺り。つまり、ルールを破って相手の村の方へと坑道を進めていたのはお互い様だったわけだ。お互いに自分達の事を棚に上げて相手を責めた。そして、お互いにルールを破る事に大義名分を得たわけだ。あいつらが先にルールを破ったんだ、と」

「……どっちが先か、なんてわからないじゃない」

「わからないさ。だが、そんな事は重要じゃない。争いに勝ちさえすれば自分達が正しい事に出来るのだから」

「……誰も謝らないの?」

「謝るわけがない。謝ったら自分が悪いと認める事になるだろう?」

「大きな争いになったら絶対にお金を持っている方が勝つに決まっているじゃない。宝石の採れない町の人達は謝って許してもらった方がいいわ」

 マギー・メイは柔らかく微笑んでソフィの方に顔を向けると、そうだな、と呟いて頭を撫でてやった。髪の毛のふわふわと柔らかい感触が心地よくて、指先に絡めて弄んだ。ソフィは「癖がついてしまうわ」と言いながらも、特に嫌がるような素振りは見せず、困ったようにくすくすと笑った。

「だが、実際には単純に金を持っている方が勝つ、という事ではなかった。宝石が出ない分、沢山の鉄鉱石が採れたからな。その多くは銃器メーカーに流れていた。宝石の採れない町は付き合いで性能のいい銃器を安く売ってもらえたんだ」

「鉄砲を使うの? そんなの喧嘩じゃないわ。戦争じゃない!」

 目を丸くして声をあげて驚いたソフィにマギー・メイは「そうだ。規模は小さくても立派な戦争だ」と答えた。

「最初は小競り合い程度の争いだった。口喧嘩から始まって。誰かが手を出して。誰かが棒切れを持ち出して。誰かが刃物を持ち出して。銃が出てくる頃にはそこは立派な紛争地帯になっていた」

 ソフィが見たマギー・メイの横顔は全くの無表情だったが、その声音は御伽噺をしているというより悲しい思い出話をしているように思えた。

「銃なんて使うような人達ではなかった。銃器メーカーと武器商人が彼らを唆したんだ。いい武器を流す、勝てるように支援する、と。どうしてそんな事をするか、わかるか?」

「お仕事の付き合いがあったからでしょう? 鉄鉱石を沢山売ってくれたから」

「ただ鉄を売るだけなら宝石の採れる町だって、沢山の鉄を売っている」

「じゃあ、どうして?」

「弱い方に肩入れした方が、戦争が長引いて儲かるからさ」

 答えを聞いて、ソフィは「そんなの酷いわ」と言ったきり言葉を失ってしまった。

 マギー・メイも次の言葉を紡ぐのに少し時間を掛けた。

 暫し沈黙に包まれた部屋の中、ちろちろと燭台の灯が揺れていた。マギー・メイはゆっくりと腕を上げると、子供がするように指で鉄砲の形を作る。その指鉄砲を小さな灯が照らし、影が大きな銃を作った。

「本当に酷い話だ。沢山の人が命を落とした。親を失った子供も沢山いた。そんな子供達はいつしか銃の扱いを覚えさせられるようになった」

「子供が鉄砲を使うの? 嘘でしょう?」

「嘘なわけがあるか。身を守るにも銃の扱いは必要だ。子供ならば撃たれない。そんな保証などはあるはずがない。そういう時代だとしかいいようがないし、子供達もそう思っていた」

 また言葉を失ったソフィの横で、マギー・メイはポケットに手を入れた。ブランデーの入ったスキットルを取り出すと、蓋を開けかけて、その手を止めた。一瞬、スキットルに目を落としてから溜息をひとつ漏らして、蓋を閉め直し、ポケットにしまい込んだ。

「女の子がいた。その子も親を失っていた。父親は紛争の真っ只中に行ったきり帰って来ず。母親は流れ弾に当たって、彼女の目の前で死んだ。身寄りを無くした女の子は、同じ境遇の子供達と一緒に施設に集められた。そこで銃の扱いを覚えた。いや、覚えた、というのは言い過ぎだな。なにせ、その子は子供達の中で一番覚えが悪かった。止まっている的に弾を当てる事すら覚束なかったのだから」

「普通は簡単に当たる物なの?」

「分速四百発で撃ち出される弾丸を三十発連続で撃てるんだ。一発くらい、普通は当たるだろうさ」

「数字を言われてもよくわからないけれど。よっぽど下手っぴだったのね」

「ああ。子供達の中でも群を抜いて下手だった。それに、彼女は銃なんか大嫌いだった。両親の命を奪い、町をめちゃくちゃにしたのは全部、銃のせいだと思っていた。いつも、いつも、こんなもの無くなればいいのに、と思っていた。銃身の冷たさも、頬に当てた銃床の感触も、肩にかかる重さも。全部、全部、大嫌いだった。銃の扱いを覚えるよりも、本を読んでいたかった。大好きな本を読んでいるうちに撃たれたとしても。天国で両親に会えるなら、それで構わないと思っていた」

「……本が好きだったのね」

「それくらいしか楽しみがなかったんだろうな。この部屋のように沢山の本は無かったが、その分、一冊の本を何度も何度も繰り返し読んだ。手持ちの本は全て擦り切れていたよ。あの眠り姫の本のように」

 マギー・メイが本棚の中のボロボロになった背表紙に目を向ける。うつ伏せになって話に耳を傾けていたソフィも、枕に埋めていた顔をマギー・メイの視線の先に向け、肩越しに本棚を見た。一際ボロボロになった眠り姫の本の周りに何度も読んだ御伽噺が何冊も並んでいた。

「何度も、何度も同じ本を読む時ってふたつあるわ。お話の世界に浸りたい時と、お話の世界に逃げたい時。似ているようで全然違うの」

 その子はどっちかしら、と尋ねたソフィに、マギー・メイは苦笑いを浮かべて「そんなに小難しい事じゃない。ただ本が好きだっただけだ。他に大した遊びも知らなかったしな」と答えた。

「それでも紛争が始まってからというもの、ただ本を読むだけの事がどれほど幸せな事か、彼女には身に染みて理解出来た。本を読む時間の代わりに銃の扱いを覚える時間が増え、銃を握る手の怖気がするような感触に慣れた頃。ようやく誰も彼もが争う事に疲弊し始めた」

「じゃあ、戦争が終わるのね」

「ああ、終わりは近かった。どちらかの負けでな。武器商人達も町の者から搾り取れるだけ搾り取ったものだから、それ以上争いを長引かせる理由を持たなかった。戦争を終わらせるために、宝石の採れる町へ武器と傭兵を売り込んだ。そこからは一方的だ。宝石の採れない町には沢山の兵士がなだれ込んで、町を制圧した。子供達も自分の身を守るために銃を手に取った」

「……あの女の子も戦うの?」

「流石に敵に襲いかかったりはしないさ。子供達は町のはずれに掘られた塹壕の中でじっと身を潜めていた。銃声と怒号が響く中、ただ争いが終わる事を願っていた。誰も彼もが疲れ切った。ただそこにいるだけの事が、苦痛で堪らなかった。外の様子が伺い知れない壕の中で、息を潜めているだけの事が。いつ敵に襲われるかわからないままに時間が過ぎていく事が。争いの最中にいるより辛い事だと初めて知ったんだ」

 マギー・メイは指を開いた手を燭台の明かりにかざすと「五人の子供が同じ塹壕に身を寄せ合っていた」と語った。

 壁に照らし出された五本の指をひとつ、ふたつ、みっつ、と折り曲げていき、たった二本だけ残された指が作った影をじっと見つめた。

「一人、二人、三人と子供は減っていった。じっと身を隠す事に耐えられず、その場を離れた者。爆風で飛んできた瓦礫に当たって命を落とした者。衰弱してその場で死んだ者。残った二人は、女の子と、彼女が小さい頃から面倒を見てくれていた少し年上の男の子だ。二人とも、もう限界だと感じていた。先にその場を離れた者はついぞ戻らなかったが、死んだとも限らない。男の子は、助けを呼んでくる、お前はここで待っているように、必ず戻るから、と女の子に言った。女の子は駄々をこねた。一人は怖い、一緒に行く、と。しかし、銃撃音が響くのを聞けば、とろい女の子を連れて助けを呼ぶなど、到底無理な話だというのは明らかだった。男の子はなんとか女の子を宥めて、絶対戻るからな、と言い残して、その場を離れた」

 マギー・メイがちらり、と横に目をやると、ソフィはいつの間にかベッドから身を乗り出し、我が事のように心配そうな表情を浮かべていた。

「男の子は迎えに来たの?」と尋ねたソフィに、マギー・メイは「……来るものか」と顔色を変えずに答えた。

「道半ばで倒れたか、それとも戻る道のりが怖くなったか。それはわからない。どちらにしても彼を責める事など出来はしない。それでも女の子は彼の帰りを待った。恐怖で眠る事も出来ずに。今日こそは、明日こそは、と。日が昇って、沈んでいくのをずっと見つめていた。銃撃音の中で、夜の闇を爆発が照らすのを見る度に彼の無事を祈った。その間、彼女は一睡も出来なかった。一週間が経ち、二週間目の途中には半ば正気を失っていた。銃撃の音も疎らになって、人々は死に絶えたのだと思った。迎えが来るなどと、甘い希望は頭の中から消え、次は自分だ、と。死の恐怖だけが彼女と共にあった」

 マギー・メイはまるで思い出したくもない記憶を掘り起こすように沈痛な口調で語った。ソフィはその真に迫った語り口に引き込まれ、眠る事が出来なくなった少女に自分を重ね合わせていた。

 自分は眠る事が出来ないとはいえ、この高い塔の上で身の危険を感じた事など一度もない。

 ただでさえ長く感じられる眠れない夜が、恐怖に支配されていたとしたら。

 それはまるで永遠に終わる事のない責め苦のように思え、ソフィは小さな体を震わせて、枕をぎゅっ、と抱いた。

「女の子が最後に眠った日から十三日が経った。塹壕の外で人の声が聞こえ、足音が響いた。その時には彼女はまともな精神状態ではなかったから、彼らが何を話しているかだの、何をしているかだのは全く頭になかった。ただ、そんな状態になっても本能で死にたくないと思い、銃を構えた。あんなに嫌いだった銃を構えても震えはしなかったし、人影が見えたらすぐに引き金を引くと心に決めていた。それで誰かが死のうと彼女の心が痛む事はなかっただろう。これ以上傷付く事などないほどに彼女の心はぼろぼろだったのだから」

 ざっ、ざっ、ざっ。

 マギー・メイが軍靴の音を模して発した言葉が静かな部屋の中に冷たく響いた。

 ざっ、ざっ。ざっ……。

 軍靴の音が止まると、マギー・メイはもう一度、指で鉄砲の形を作り、壁にその影を映す。

 ばん、と一言呟いて、鉄砲を象った手を開いて見せた。

「塹壕を人影が覗き込むのが見えた瞬間、彼女は引き金を引いた。銃声とは違う、物凄い爆発音が顔の真横で響いた後、何も聞こえなくなった。彼女にとっては長い沈黙の時間があった。それは実際にはほんの一瞬の事だったが。彼女は自分の顔の半分が焼けるように熱い事に気付いた。震える手で顔に触れると、べったりとした感触を覚えた。恐る恐る手を見てみると、気持ちの悪いほどに赤黒い血で、その手は濡れていた。彼女はすぐに自分の身に起こった事を理解し、絶望に大声をあげた。その絶叫すら何処か遠くで響いているように感じながら、彼女は意識を失った。それが十三日と六時間ぶりの眠りだった」

「……爆弾か何かを投げ込まれたの?」

「そんなんじゃない。銃を粗末に扱っていたから、銃身に泥だのなんだのを詰まらせていたんだ。引き金を引けば暴発する。それだけの話だ」

 マギー・メイは、お笑い種だ、と嘲るような笑みをうっすらと浮かべる。

「……笑えないわ」

 そう呟くと、ベッドから少し身を乗り出すようにして、マギー・メイの方に手を伸ばした。マギー・メイは彼女の方をちらりとも見ずに、ただその手を取り、目を瞑った。

「夢を見たんだ。酷い悪夢を。火を放たれた町で、父や母、見知った顔の人々が焼かれていく夢だ。彼らが苦しんでいるのを、自分も炎に巻かれながら見ていた。熱い。痛い。夢の中だというのに、地獄のような苦しみを覚えた。どれほど悪夢の中で苦しんだだろう。彼女がようやく目を覚ました時、初めて目に入ったのは真っ白な天井だった。彼女が目を覚ました事に気付いた白衣の男が傍に来て、紛争は終わった、君は保護された、とだけ伝えた。何も頭に入ってこなかった。悪夢から覚めたというのに、彼女の顔の半分は燃えるように熱く、痛み、地獄のような責め苦を与え続けていたのだから。彼女はこれが悪夢の続きではなく、現実だと知って、また絶望した」

 マギー・メイはそこまで話すと、久方ぶりにソフィに向き直って、その顔を覗き込んだ。暫くの間、物も言わず、ただソフィを見つめていた。

 マギー・メイにひとつだけ残された右の瞳は、薄暗い部屋の中で底が見えないほどに暗く、深く、どこまでも続く闇のように見えた。

 物怖じせずにその瞳を見つめ返すソフィに、マギー・メイはようやく口を開いて「こうやって、何か得体の知れない恐ろしいものが、自分を覗き込んでいるように感じていた」と言った。

「夜が来て病室が闇に包まれると、その気配を濃く感じた。何人もの負傷者が苦痛に呻き声をあげ、ふとした瞬間に呻き声が、ひとつ、減った事に気付くんだ。死んだ、というより連れて行かれたように感じた。自分達を覗き込んでいる何者かが一人、また一人と、何処か遠い闇の中へ連れて行っているのだ、と。恐怖で女の子はまた眠れない日を過ごした。気を失ってしまいそうなほどに痛む傷と高熱に魘されながらも眠りはしなかった。眠ってしまえば、もう起きる事は出来ない。自分も連れて行かれる。そう思っていた」

 マギー・メイは話し疲れたのだろうか、ベッドの上に半身を預けるようにしてもたれかかる。息遣いを感じる程に近付いたマギー・メイの赤いくせっ毛が燭台の炎に照らされて、まるで燃えているかのように赫々と輝いた。

 綺麗ね、と呟いたソフィが思わず手を伸ばして、その髪に細い指を絡ませる。

「こら。気が散って話が出来ない」

「我慢してちょうだい」

 恐ろしさを誤魔化すように悪戯っぽく笑ったソフィに、マギー・メイも困ったように少し笑った。

「ある朝の事だ。気が付くとベッドの脇に誰かが立って、女の子を覗き込んでいた。意識が朦朧として目も霞んでいたから、女性だという事が辛うじてわかるくらいだった。女の子はこう思った。ああ、ついに私の番だ、と」

「お医者さんか、看護婦さんだとは思わなかったの?」

「その女は白衣どころか、全身黒ずくめの服を着ていたからな。現実的に言えば修道女、そうでなければ死神の類だろう」

「……シスターと死神じゃ大違いだわ」

 ソフィの言葉にマギー・メイは小さく笑って「確かに大違いだ」と答えた後で吐き捨てるように「まあ、どちらがマシかはわからんがな」と呟いた。

「女の子は、そいつが死神の類だと思った。死ぬ事で苦しみから解き放たれるなどとは思ってなかったから、死神が迎えに来た事自体は、それはそれは恐ろしかった。それでも、抗う気力も体力も果てていたし、そもそも、その女が修道女だったとして何が出来るのかと思った。傍らで祈りを捧げられたとして。傷が癒えるか。痛みが和らぐか。恐怖が消えるか。そんな事、ありはしない。不愉快なだけだ。それなら迎えを受け入れてしまった方が、いくらかましだ」

「お迎えを受け入れた方がましっていうのは、私にはわからないわ。だってやっぱり怖いもの。……死んでしまうのは」

 次第に小さくなっていったソフィの言葉にマギー・メイは目を閉じて耳を傾ける。

 もう一度「死ぬのは怖いわ」と言ったソフィが枕に顔を埋めるのを、もぞもぞと布が擦れる音を聞いて感じた。

 マギー・メイはひとつ、小さな息を吐くと、ただ一言、そうだな、とだけ答えた。

 ソフィは枕に埋めていた顔をほんの少し上げると、でもね、と呟く。

「気休めのお祈りなんかされたら、とっても嫌な気持ちになるのはわかるわ。そういうの、好きじゃないから」

 物語の中の少女の気持ちに自分を重ねて、物悲しい調子を浮かべて話したソフィは、ちらり、とマギー・メイを見る。目が合うと、気を取り直すように、少し無理をした微笑を浮かべて「……でも、死神はもっと嫌だわ」と言った。

「ねえ。結局、その女の人は誰だったの?」

「誰か、なんてわからない。だが、修道女でも死神でもなかった」

「じゃあ、なんだったの?」

「魔法使いだ」

 ソフィはその言葉に意表を突かれたようにきょとんとした表情を浮かべる。マギー・メイは彼女の顔を不思議そうに覗き込んだ。

「どうした。魔法使いが出てくる話を聞きたかったんだろう?」

「ええ、っと……」と口ごもったソフィは遠慮がちに口を開いた。

「すっかり忘れていて。魔法使いが出てくると思わなかったの。だって、本当のお話だと思っていたから。貴女の子供の頃の……」

「実話なら魔法使いは出てこないと?」

「……それは、そうでしょう? だって、いないもの。魔法使いなんて」

「何故、そう言える?」

「魔法なんかないもの。魔法がないなら、魔法使いもいないじゃない」

「魔法があるなら、魔法使いはいる、というわけだ」

 揚げ足を取るような物言いにソフィは少し頬を膨らませて「……まあ、そうなるわね」と言った。

 納得がいかない様子の彼女にマギー・メイは「頑固な奴だな」と苦笑いを漏らした。

「魔法使いはいる。魔法もある。実際にその女は魔法を使ったし、魔法を掛けられたのは私なのだから」

 やっぱり本当にあったお話なのね。

 その言葉を口にしかけたソフィはマギー・メイの方を見て口を噤んだ。今は表情を変えずに何処か遠くを見るように前を向いた彼女が、昔話を語る最中に手を震わせていた事を思い出した。

 彼女の傷付いた大きな手が小刻みに震える光景が頭に浮かぶと、本当にあった話、などと言葉にするのは、馬鹿馬鹿しいほど残酷な事に思えた。

 掛ける言葉が見つからず「……それは、どんな魔法だったの?」とようやく紡ぎ出した言葉で物語の続きを促すのが精一杯だった。

「その女はベッドに横たわる私の手を取って、首から提げたペンダントを握らせた。その私の手を包み込むように握って、こう尋ねた。痛いですか、辛いですか、貴女の心は今、孤独に苛まれていますか、と。当たり前の事を聞くな、と思った。とはいえ、言葉を発する気力もなかったからな。残った右目で睨みつけてやった。それで十分答えになっただろうが、女はただ微笑んで、祈りの言葉を口にした」

 マギー・メイは思い出に浸るように両手を眺めると「祈りの言葉は覚えていないが。包み込まれた手が温かかったのはよく覚えている」と話した。

 目を閉じて「そして、女はこう言った」と呟く。


 おやすみなさい。

 どうか、貴女の行く末に、祝福がありますように。


「女は私に寄り添うようにして、唇を重ねた。女の唇は温かくて、柔らかかった。恐怖や憤りを何処かに消し去って、私の心を穏やかにしてくれた。本当に久方ぶりに感じた人の温かさに身を任せているうちに、気が付くと眠りに落ちていた。次に目を開けた時、傷の処置は終わり、痛みも熱もいくらか和らいでいた」

 マギー・メイは小さくひとつ息を入れると、思い出に浸るように言葉を続けた。

「私は確信した。あの女は魔法使いで、私に魔法をかけたのだ、と」

 記憶の中の、温かく柔らかい唇の感触を思い出すように、自分の唇にそっと指を宛てがうと、こう呟いた。


 おやすみのキス。

 世界で一番優しい魔法だ。

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