第六話

 マギー・メイが話を終えると、部屋の中は暫くの間、静寂に包まれていた。

「せっかく長話をしたんだ。感想があれば聞きたいが」

 静けさに焦れたマギー・メイがそう言うと、ソフィは少し言葉を詰まらせてから、遠慮がちに答えた。

「……そうね。よかった……っていうのはおかしいかもしれないけれど。でも、いいお話だったわ、とっても」

「それはよかった。実のところ、上手く話せるか、自信がなかった。あまり昔話などしないから」

「……どうして、そんなお話を私に聞かせてくれたの?」

 自分の事を教えたかったから?

 私が魔法使いのお話をねだったから?

 眠れないだけで甘えるなって言いたかったの?

 頭に浮かぶどんな理由も答えには程遠いような気がして、ソフィは、どうしてなの、と縋るような頼りない目をマギー・メイに向けた。

「……昔話というものには得てして何らかの教訓があるものだ」

 そう言ったマギー・メイは「では、この話の教訓は?」と質問を返した。

 ソフィはほんの少し思案してから自信なさげに「……喧嘩はよくない」と答えた。

 マギー・メイはその答えに思わず吹き出すと、くすくすと笑みをこぼした。

「……もう。馬鹿にしたわね」

「すまない。悪気はなかった」

 恥ずかしそうにほんのりと赤く染めた頬でふくれっ面を作ったソフィを宥める。頭を優しく撫でて「あんまり可愛らしい答えだったから」と言って、また頬を緩ませた。

「学校の勉強じゃないんだ。答えなんか人の数だけあって構わないさ」

「じゃあ、貴女の答えを聞かせて頂ける?」

 わざとらしく、ほんの少しの不機嫌さを覗かせたような口調を作ったソフィが、そう尋ねる。

 マギー・メイは「……私の答えか」と呟くと、首元で緩ませてあったループタイを外した。

 おもむろに立ち上がると「さあ、そこに座って」と言って手を差し出す。その手を握り返したソフィの手を引いて、体を起こしてやり、ベッドに座らせた。

「この話の教訓は、最後まで諦めてはいけない、という事だ」

 そう言ってマギー・メイはソフィの首にループタイを掛けてやる。金緑色の宝石で飾られたそれは燭台の炎に照らされて妖しげなほどに美しく輝いた。

 ソフィは細い指を絡ませて掬い上げるようにそれを手にとって眺め、その美しさに小さく溜息を漏らした。

「……綺麗な宝石だわ」

 マギー・メイがソフィの目尻の辺りに指先で触れる。くすぐったそうに細めた瞼から覗いた瞳を覗き込んだ。

「お前の瞳と同じ色だな」

 マギー・メイにそう言われて、ソフィはしげしげと宝石を眺めた。

「自分ではよくわからないわ」と小首を傾げたソフィは「貴女の目には私の瞳がこういう色に見えるのね」と尋ねた。

「ああ、よく似合っている」

 マギー・メイは宝石を覗き込むソフィの頭を撫でてやると「それは宝石の出ない町の鉱山で採れたものだ」と言った。

 ソフィはその言葉に驚いたように、まんまるく見開いた目をマギー・メイへ向けた。

 宝石色の彼女の瞳が映したマギー・メイの顔には、悲しげな微笑みが浮かんでいた。

「もう少し採掘を進めていれば、いつか宝石は出たんだ。努力を忘れ、他人を妬み、奪おうとした。諦める事で自らの道を閉ざした愚か者の末路が醜い争いだ」

 そう言うとマギー・メイはソフィの前に片膝をついてしゃがみ込んだ。真っ直ぐにソフィの瞳を見つめて「だから、最後まで諦めてはいけないんだ」と言った。

「それは……眠る事も?」

「ああ、そうだ」

 マギー・メイはソフィの手を取り、包み込むように握って力を込めた。それはまるで、彼女が幼い頃に野戦病院のベッドで、修道女に手を握られた時のような所作で。彼女は祈りの言葉の代わりに「きっと眠れる。お前が望むのなら」と言った。

「今度は私が魔法をかけてやる。誕生日の晩、私がお前を眠らせてやる」

 その言葉にソフィは前のめりになって「本当に?」と尋ねる。

 マギー・メイは優しく微笑みかけて「本当だとも」と答えた。

「貴女も魔法が使えるの?」

「未熟者だがな」

「それなら、今すぐにでも魔法をかけてくれればいいのに」

「それは無理だ。未熟者だと言っただろう。満月の晩でなければ、私の魔法は使えない」

 オカルトじみた話を最もらしく口にしてみせると、ソフィは、ふうん、と小さく鼻を鳴らして一応の納得を示した。

「お前の誕生日がちょうど満月だ。誕生日プレゼントだと思えば少しくらい待つのも悪くはないだろう?」

「待つのはもちろん平気。なんとも思わないわ。だってもう十年以上眠りに落ちる日を待っているのだもの。でも……」

 言葉を詰まらせると、もじもじと口ごもってしまったソフィに、マギー・メイは優しい口調で問い掛ける。

「私の魔法が信じられないか?」

「そうじゃないわ。そうじゃないけれど……」

 目を伏せてしばらく押し黙っていたソフィは、ややあってから、ようやく顔を上げると、真っ白な顔を耳たぶまで真っ赤に染めて小さく口を開いた。

「……お父様やお母様以外の人とキスをするのは初めてだわ」

 マギー・メイはほんの一瞬だけ目を見開くと、笑みが漏れてしまうのを隠すように口元を手で覆った。手を伸ばしてソフィの頬に触れると、そうか、とだけ呟いて唇を親指でなぞった。 

「なら、いい思い出にしよう」

 そう言って立ち上がると、ソフィの頭に、ぽん、と手を置いた。

「話しすぎて喉が渇いた。お茶を淹れよう」

 マギー・メイがティーテーブルに向かうのをソフィが「待ってちょうだい」と制した。

「私が淹れるわ。その方が美味しいもの」

 ベッドから降りたソフィはマギー・メイの傍に歩み寄ると、それに、と言って首元のループタイを揺らした。

「これ、くれたんでしょう?」

 そう言ってケトルに火をかけると「そのお礼よ」と微笑んだ。

「では、お言葉に甘えて」

 マギー・メイが椅子に腰掛けると、ソフィはお湯が沸くのを待つ間に「それで、お話の女の子はその後どうなったのかしら」と尋ねた。

「その後とは? どうなったも何も。この通りだ」

 マギー・メイは腕を大きく広げて、傷付いた自分の体を見せた。

「命は拾いはしたが、天涯孤独の身だ。身に付いたのは多少の銃の扱いだけ。いつしか傭兵稼業で身を立てる事を覚えてこのざまだ」

 ソフィはマギー・メイの方に目を向けて、彼女の傷だらけの手、不自由になった足を眺めた。

 ぐらぐらと沸いたお湯をポットに注ぎながら「たくさん怖い思いをしたのに、また戦争をするの?」と尋ねる。

「それしか金の稼ぎ方を知らんからな」

 自嘲するように吐き捨てたマギー・メイに、そう、とだけ小さく呟くと、ガラス製のポットの中で茶葉が踊るのを静かに眺めた。

「卑しい仕事と思うか?」

「ちっとも思わないわ」

「多くの人はそう言うがね。金さえ積めば何でもやる、卑しい戦争屋だ、と」

 ソフィはティーカップに紅茶を注ぎ、マギー・メイに差し向けると、自分も椅子に腰掛けた。熱い紅茶にふうっと息を吹きかけると「きっと、そんな事はないわ」と呟いた。

「その傷だらけの手も、不自由な足も。きっと、誰かを傷付けるために戦ったのではなく、誰かを守るために戦った証なのでしょう? 誰よりも戦争の恐ろしさを知っていながら、その中に居続けるのは自分のためだけに出来る事じゃないもの」

 マギー・メイは、カップに注がれた紅茶に目を落とす。その水面に写った自分の顔を見ながら、ソフィの話に耳を傾けた。

「他の誰かが貴女の事をどう思っているのかはわからないし。貴女の気持ちの本当のところはわからないけれど。私だけはそう思う事にするわ」

 ソフィは自分に言い聞かせるように小さく頷いてみせると、マギー・メイに目を向けた。

「……そう思わせてちょうだい」

 そう言って微笑んだ彼女から、マギー・メイは何も言わずに目線を外すと、紅茶を一口啜った。

 ソフィの言葉に答えを返す代わりに「……やはり、お前が淹れた方が美味い」と呟いた。

「紅茶を淹れるのだけは自信があるわ」

 ソフィはティーカップに鼻先を近づけると、いい香り、と漏らす。マギー・メイに微笑みを向けて「特に美味しく入ったわ」と言った。

「美味しく淹れるに越した事はないわよね。紅茶は好きだし。どうせ自分で飲むのだから」

「違いない」

「貴女は? 何か好きなものはある?」

「……私の好きなものか」

 マギー・メイはティースプーンを手に取ると、ラムレーズンの詰まった小瓶を叩いて高い音を小気味よく響かせて「これだな」と言った。

「……ラムレーズン?」

「ああ。悪いか?」

「別に。でも、ちょっと意外だわ」

「そうか。私の事をまたひとつ知れてよかったな。私はラムレーズンが好きだ。ラム酒も好きだしな」

「ラム酒は飲んだ事がないわ。美味しいの?」

「ああ、美味い。特に仕事で南の港町に行った時に飲んだラムは絶品だった。甘くてな。つい飲み過ぎてしまった」

 ソフィはそれを聞いて「なんだかとっても美味しそう」と頭の中で飲んだ事もないラム酒の味を想像した。

 アルコールは口にした事がなかったから、ラムレーズンの味と甘いという言葉だけを手掛かりに想像した味わいはまさしく空想の産物といえる甘露となって、いつか飲んでみたい、と彼女の胸を躍らせた。

「甘くて美味しいのなら私にも飲めるかしら」

「子供が飲むものじゃない」

 身を乗り出すようにして尋ねた言葉が軽くあしらわれると、頬を膨らませて「いつか、の話よ。大人になってからの、いつか」と文句を言った。

 マギー・メイは、それは失礼、と紅茶を一口啜ると「飲み過ぎには気をつけろ、とは伝えておく」と殊更、真面目な顔を作って忠告した。

 そんな彼女の忠告にソフィはいい事を思いついた、というように手を叩いた。

「そうだわ。お酒をたくさん飲んだら眠くなるかしら」

「やめておけ。最悪の眠り方だ」

「でも、眠くなるのよね?」

 マギー・メイは「なる時はなるが……」と苦笑いを浮かべると「まあ、気分次第だな」と言った。

「酔って眠ってしまいたい時ほど、いらん事を考えて目が冴えてしまう事もある」

「……眠りたい時に眠れないんじゃ役に立たないわね」

 ソフィは、なあんだ、とがっかりしたように溜息を吐いた。

「貴女にとっても眠れないのは辛い事なの?」

「眠れないのが便利な事もあるが。眠りたくても眠れないのは、それは辛いさ」

「眠りたくない時もあるの?」

「必要に駆られて眠らない時は多々ある。だが、好き好んで無理に起きていようとは思わないな」

「ねえ、普段は毎日眠るの?」

「もちろん。毎日寝ている」

「何時間くらい?」

「四、五時間だろうか。あまり意識してないが」

 ソフィは、まあ、と驚いたように口を開けると「もったいないわ。もっとゆっくり眠ればいいのに」と言った。

「眠る時間なんて人それぞれだろう」

「それは眠れる人の言い分だわ」

 ソフィは唇を尖らせると「私だったら毎日お昼まで眠るわ」と言ってマギー・メイの苦笑を誘った。

「寝過ぎると起きた時に体が痛くなるぞ」

「あら、それはぜひ経験してみたい痛みだわ」

 悪戯っぽくそう言ってみせたソフィに、マギー・メイは、やれやれ、と肩を竦めて応えた。

「お前が眠った時には起こしてやらんぞ。忠告はしたからな」

「結構だわ。好きなだけ寝かせておいてちょうだい」

 お互いにからかい合うような口調で軽口を交わすと、楽しそうに笑った。

「十年以上寝てないんだろう? 今度は十年以上眠り続けるかもわからんぞ」

「それは……困るわ」

「好きなだけ眠るんじゃなかったのか?」

 またからかうようにそう言ったマギー・メイに、ソフィは「限度があるわよ」とむくれ顔を作った。

「限度がある、か」

 マギー・メイは楽しそうにくすくすと笑いを漏らした。

「確かに十年も眠っていたら度を超えた寝ぼすけだ」

「起きた時には知らないうちに大人になっているのよ。そんなの困るわ」

「……確かにそれは困るかもしれないな」

 マギー・メイは感慨深そうに「十年経ったら今の私と同じ年になるな」と呟いた。

 ソフィは、嘘でしょう、と驚きを隠さずに眉根を寄せて、マギー・メイに「何歳だと思っていたんだ」と言わせた。

「全く。失礼な奴だな」

「だって、もっと年上だと思ったんだもの」

「傷付くよ。まだ若いつもりでいるからな」

 そう言いながらも微笑みを浮かべ、紅茶を啜った彼女に、ソフィも「じゃあ、もっと若ぶってちょうだい。そういう貴女も見てみたいわ」と軽口で応えた。

 マギー・メイは「十も年下の小娘にからかわれるとはな」とこれもまた年齢よりも年のいった風の物言いをしてソフィを笑わせた。

「……十年も眠り続けたらどんな夢を見るのだろうな」

「どうかしら。もう夢を見るってどういう感じか思い出せないわ」

「では、どういう夢が見たい」

 ソフィは唇に指を当てて考え込むと、思いついた、と表情を明るくして「海の夢が見たいわ」と言った。

「この高い塔の上からどんなに見渡しても海は見えないの。だから海が見たいわ。お魚と一緒に珊瑚礁を泳いでみたいの」

「いいじゃないか。見たいと思っていれば、きっと見れるだろうさ」

「ええ。海の夢なら、きっと私、上手に見られるわ。海が出てくる絵本ならたくさん読んだし、海の中の事だって、お父様がいつだかの誕生日に下さった、珍しい海中写真のおかげですっかりご存じなんだから」

 ソフィは得意げに小鼻をぷっくりと膨れさせて「きっと、海の事なら、お魚の次に私が詳しいと思うわ」と言った。

「それは頼もしいな」

 マギー・メイは、優しげにソフィを見つめながら、声音だけをからかうように意地悪く作ってみせると「……しかし、お前。泳げるのか?」と尋ねる。

 ソフィは一瞬、言葉を詰まらせたが、すぐにつんと澄まし顔を見せた。

「それは、泳げない……けど。大丈夫よ。だって夢の中だもの」

 マギー・メイは薄く笑って、そうだな、と頷きを返した。

「違いない。なにせ夢の中だからな」

「そうよ。夢の中なのよ」

 ソフィは眼差しを遠く向けた。

 果てのない夜の、見果てぬ白昼夢に、幾度、夢見る事を夢に見ただろう。

 ソフィの目は空想の世界に向けられているというのに、その視線が帯びる、何処か熱っぽい光が、今ここにいるマギー・メイの胸を射貫くようだった。

 胸の痛みがマギー・メイの目に同情の色を宿すかという矢先、ソフィははたと思い付いたようにマギー・メイを見た。

「よく考えたら、いい夢ばかりとも限らないのよね。怖い夢を見る事もあるかしら。怖い夢がずっと続いたらどうしましょう?」

 マギー・メイはころころと表情を変える金緑色の宝石を愛でるように、ソフィの目をじっと見つめ、やがて「どうしましょう、と言われてもな」と苦笑を漏らした。

「夢が覚めるまで待つしかないだろう。お前は何が怖いんだ?」

 ええっと、と考え込んだソフィは小首を傾げると「何かしら。わからないわ」と言った。

 私って怖いものがないのかも、と胸を張った彼女を、マギー・メイは「そんなわけがあるか」と笑い飛ばす。

「怖いもののひとつやふたつくらいあるだろう」

「だって思いつかないんだもの」

「おばけはどうだ? 怖いだろう?」

 ソフィはおばけという言葉に思わず、ふふっ、と笑みをこぼす。口元を抑えて笑いを堪えていたが、しばらくするともう我慢出来ないというように「おばけですって!」と楽しそうに笑い声をあげた。

「なんだ。何がおかしい」

 だって、と笑いをなんとか堪えたソフィがようやっとの事で息を整えると、目尻に滲んだ涙を指で拭った。

「だって。貴女みたいな人でも、怖いものって言ったらおばけなんだ、って思ったらおかしくって……」

「怖いに決まっているだろう。おばけは。得体が知れん」

 ソフィは「おばけなんかいるわけないじゃない」と言うと手をひらひらと煽って「いるのなら見てみたいくらいだわ」と言って、また笑った。

「もし、貴女の夢におばけが出たなら、私を呼んでちょうだい。きっと追い払ってあげるわ」

 ティースプーンを摘まみ上げ、魔法の杖よろしく軽く一振りしてみせる。

「全く、勇ましい限りだな」

 そう言ったマギー・メイは、思い出したように、そういえば、と言葉を継いだ。

「夢の中どころか。ここに来る前に、館の方でお前の妹に言われたぞ。ここにはおばけが出る、と」

「ああ、それ?」

 自分の住んでいる塔におばけが出ると聞かされてもソフィは一切動じずに、少し困ったような顔を作って「それは多分、私の事ね」と言った。

「この塔の上からずっとマデリンを見ているでしょう? マデリンはもう私の顔を覚えていないから。知らない人に見られて怖かったのね。しばらく前から塔の方を全然見なくなったわ。きっと、私の事をおばけか何かだと思っているのね」

 ソフィは「おばけ退治が済んでしまったみたいだわ」と言って肩を竦めると、最後の一口の紅茶を飲み終え、ふう、と一息をついた。

「不思議ね。夢の話をしていたのに。なんでおばけの話なんか……」

「長く話していればそうなる」

「本当にそうね」

 また、くすくす、と笑みを溢したソフィは脇道に逸れた話を戻すように「夢の話、夢の話……」と繰り返して呟くと「今度は貴女の夢の話が聞きたいわ」と言った。

「そう言われてもな。夢などあまり見る方じゃない」

「そうじゃなくて。起きてる時の夢の話よ。何がしたいとか何処に行きたいとか……」

 マギー・メイは納得したように、ああ、と呟くとすぐに「まとまった金が貯まったら、今の仕事を辞めて酒場でも開こうかと思っている」と答えた。

「さすがに一生、今の仕事で食っていけるとは思っていないからな。それが夢と言えば夢だな」

「素敵じゃない。ねえ、酒場ってどんなところ?」

 マギー・メイは「どんなところと言われてもな」と困り顔を見せる。酒を飲んだ事もない少女にあの雰囲気をどう説明してやったものか、しばし考え込んだ。

「言葉の通りなんだがな。老いも若いも、男も女も寄って集って酒を飲む場所だ」

「お酒を飲むのはそんなに楽しいの?」

「どうかな。人によると思うが。私は酒を飲む事より酒場の空気が好きなのかもしれない」

 一人、静かに物思いに耽りながら飲むのもいい。

 気心の知れた店主の他愛もない世間話を聞き流しながら飲むのもいい。

 隣に座った客の嘘か本当かもわからない身の上話を肴に飲むのもいい。

 それで酒が美味ければ言う事はない。

 マギー・メイはぽつりぽつりと酒場のささやかな楽しみを語った。

 聞く人によっては、それの何が面白いのか、と鼻で笑っただろう。それでも外の世界を知らないソフィの興味を引くのには十分だった。

 彼女にとって酒を飲む場といえば、まだ幼い頃に顔を出した上流階級の人間が集まる夜会くらいのものだった。大人達の小難しい話も、甘ったるいアルコールの匂いも、幼いソフィにはわからなくて退屈だったのを覚えている。

 しかし、マギー・メイの語る酒場というものはそんな退屈とは無縁の場所に思えた。

「ねえ、私も行ってみたいわ」

「大人になったら行くといい」

 マギー・メイが小さく笑ってそう言うとソフィは「貴女に連れて行ってほしいのよ」と不満げに頬を膨らませた。

「いいでしょう、マギー・メイ。私にお酒の飲み方を教えてちょうだい」

 前のめりになってあどけない表情で子供らしいやり方のおねだりをしてみせたソフィを、愛おしそうに見やったマギー・メイは、しょうがないな、と肩を竦めた。

「いいだろう。美味い酒を飲ませてやる」

 マギー・メイの言葉にソフィは「本当に⁉」と声を上げると、思わず椅子から立ち上がった。飛び跳ねんばかりに嬉しそうな彼女を見てマギー・メイも頬を綻ばせた。

「マギー・メイ! きっと私を酒場に連れていってね」

 約束よ、と念を押したソフィにマギー・メイは一瞬、言葉を詰まらせた。

 その一瞬の間を咳払いで誤魔化すと、カップにほんの少し残った紅茶を飲み干す。

「ああ。楽しみにしている」

 ソフィと目を合わせないまま。

 貼り付けたように薄く微笑んでそう答えた。

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