第七話

 カーテンを少し開けて、その隙間から窓の外を覗いてみると、夕陽が見渡す限りの景色を赤く染めていた。

「見て。もう日が暮れるのよ」

 夕陽が山の端にすっかり沈んで、薄暗い夕闇に辺りが包まれてしまうのを見届けるまで景色を眺めると、静かにカーテンを閉じる。

「きっと明日も素敵な日になるわ」

 窓辺を離れ、ベッドの上に腰を下ろしたソフィは「いつまでが今日で、いつからが明日なのか。よくわからないのだけど」と笑みを浮かべた。

「ずっと起きているとそういう気持ちになるわ」

 そう言って、ソフィはマギー・メイに視線を送る。ベッドの上、自分の隣をぽんぽんと叩いて、ここに来てちょうだい、と言外に伝えた。

 促されるままにマギー・メイが腰を下ろすと、クッションを効かせながら沈み込んだベッドがソフィの軽い体を揺らした。ソフィはマギー・メイの大きな肩に寄りかかって身を預ける。

「マギー・メイ。まだ眠くはない?」

「ああ。眠くはない」

 ソフィを安心させてやるために、心配をするな、と言う代わりに柔らかい表情を作った。ソフィは彼女の気遣いに微笑みを返すと、合わせていた目線を逸らして少し押し黙った。

「もしも、よ。もしも眠かったら。眠ってしまっても構わないのよ」

「どうした。目の前で眠る奴が気に入らないんじゃなかったのか」

 マギー・メイの言葉に「確かにそう言ったけれど……」とばつが悪そうに自分の髪に指先を絡めた。

「どうしてかしら。貴女の寝顔なら見てみたいって思えるの」

 そう言ってマギー・メイの髪に手を伸ばすと、その顔がよく見えるように髪をかき上げてやる。悪戯っぽく微笑みながら「どんな顔で眠るのかしら」と言った。

 マギー・メイは困ったような微笑みを返すと「参ったな」と小さく呟く。

「なおさら眠るわけにはいかなくなった」

「どうして?」

 悪戯っぽく小首を傾げてそう尋ねたソフィの鼻先を指先でちょん、と突っついて「決まっているだろう」と答える。

「寝顔を見られるのは恥ずかしいからだ」

 その答えに可笑しそうにくすくすと笑いをこぼしたソフィは、じっとマギー・メイの顔を覗き込んだ。

「私はなおさら貴女の寝顔が見たくなったわ」

 からかうような口調でそう言ったソフィは、ベッドに横たわると、マギー・メイを見上げた。彼女のシャツを甘えるように軽く引っ張って、一緒に寝転ぶようにねだる。マギー・メイが隣に横たわると、よろしい、と言いたげに満足げな笑みをこぼした。

「いろんな顔を見たいわ。寝顔を見られるのが恥ずかしいというのなら、恥ずかしがる顔も見てみたいの」

 そう言ってマギー・メイの胸に顔を埋めた。マギー・メイの大きな体はソフィを包み込んで、呼吸をすると彼女の匂いを一杯に感じた。その香りはソフィの家族を初めとする、上流階級の人間達の香りとは全く違っていた。

 それは香水で誤魔化されない、人そのものの香りだった。

 その香りは温かさと安らぎに満ちていて、ソフィは甘えるように鼻先を彼女の胸に擦りつけた。

「……ごわごわしているわ」

 擦りつけた鼻先に感じたシャツの感触は、自分が普段身につける服の感触とは全く違っていて。何が面白かったのか繰り返し、ごわごわしてる、と言って笑った。

「もっと肌触りのいい服を仕立てないといけないわ」

 そう呟くと、少し考えてから、シルクがいいわ、と言った。

「やっぱりシルクが一番よ。シルクで織ったサテンの服を用意させるわ」

 ソフィの提案にマギー・メイは困ったような顔を見せて「シルクなんて柄じゃないんだが」と言った。

「それにこの服が気に入っている。これでなかなか仕立てのいいものなんだ」

「それなら同じ型で用意させるわ。もっと抱き心地のいい服を着てほしいのよ」

 お願いよ、と上目遣いを送ってねだるソフィに、マギー・メイはまた困り顔を見せた。

「全く。言い出したら聞かないな」

 ソフィはそんな困り顔もどこ吹く風で「そうよ。私、わがままなんだから」と答えた。

「貴女のためじゃなく、わがままな私のためにシルクの服を着てちょうだいね」

 悪びれもせずにそう言ってみせるソフィにマギー・メイは、敵わないな、と苦笑混じりの溜息をひとつ漏らした。

「それでは一着、頂くとしよう。お言葉に甘えて」

 思惑通りの言葉を引き出したソフィは嬉しそうにくすくすと笑いをこぼすとマギー・メイに抱きついて、彼女の胸に頬ずりをした。

「マギー・メイ。ずっと一緒にいてね」

 そう呟いたソフィの頭をマギー・メイは優しく撫でてやる。胸に顔を埋めたまま、約束よ、と念を押され、マギー・メイは手を止めた。

「言っただろう。お前が眠るまではずっと話を続ける、と」

「ずっとって、そういうのじゃないわ」

 ソフィは顔を上げ、マギー・メイの目をじっと見つめる。自分に向けられた瞳が潤んでいるのを見ると、目を合わせてはいられなくなった。

 視線を外したマギー・メイの頬に手を伸ばし、こっちを見てちょうだい、と呟いた。

「ずっとって、ずっとよ。私が眠った後もずっと、ずっと一緒にいてちょうだい」

 マギー・メイは溜息を吐いてしまいたくなるのを堪えた。

 努めて表情を変えずに、諭すような口調で「契約はお前が眠るまでだ。私が決める事じゃない」と言った。

「なら、私が決めるわ」

 ソフィの言葉に思わずほんの少しだけ眉根を寄せた。そのほんの少しの表情の変化にもソフィは不安そうな顔を見せ、マギー・メイは堪えきれなくなった溜息を漏らした。

「雇い主はお前の父親だ。決めるのもお前の父親だ。頼むなら父親に頼んでみたらどうだ」

 突き放すようにも聞こえる言葉を、なるべくそうとは受け取られぬように柔らかい口調で語る。そんな気遣いもソフィを慰めてやる事は出来なかった。

「お父様は私のお願いなんか聞いてくれないもの」

 ソフィは、お願いよ、とマギー・メイにしがみつくと彼女のシャツをきゅっと強く掴んだ。

「貴女がいない時間なんて退屈だわ。きっと一日が永遠みたいに感じる。もうそんなの耐えられない」

「……私一人いなくなったくらいで退屈するほど、お前はつまらない人間じゃない」

「覚えてしまうほど本を読んだわ。嫌になるまで景色を眺めたわ。美味しい紅茶を淹れられるようになるまで、何杯も紅茶を淹れたわ。もう全部、飽き飽きしているのよ」

 マギー・メイの胸に顔を埋め、駄々をこねる子供のように抱きついたソフィが「貴女がいないと退屈な事ばかりよ」と言って、すんすんと鼻を啜った。

 マギー・メイは小刻みに震える彼女の体を包み込んでやる。

「眠れるようになったら塔を下りろ。きっと退屈なんてしてる暇がなくなる。この塔を下りて好きな場所に行って好きなものを見ろ。好きな人と出会って好きなように生きろ。私ではない、他の誰かと」

「他の誰か……」

 口の中で小さくそう呟いたソフィは「いやよ。貴女でないと」といっそう強く抱きついてマギー・メイを困らせた。

「……マギー・メイ。貴女がいいの」

「すぐに忘れる。私の事など」

「……忘れない」

 自分の腕の中にいるソフィが、顔は見えずとも、拗ねたように唇を尖らせているのがわかった。

 頭に浮かんだ可愛らしい表情にくすり、と笑みがこぼれそうになる。笑っているのを知られたらまた機嫌を損ねるな、と頬を少しだけ緩めるに留めた。

 胸に顔を埋めたまま、すっかり大人しくなったソフィの背中にそっと手を回す。その手に微かに呼吸を感じた。

 これが普通の子供だったなら、眠ってしまったのだと思っただろう。だが、ソフィは眠れないから、今も自分の腕の中で目を覚ましているし、きっと何かを考えている。

 ベッドの中で嫌な事を考えてしまうのは、誰にだってよくある事で。

 そんな時に眠って忘れてしまえない。

 それは辛い事だとよくわかった。

 マギー・メイはソフィの背中に回した手をゆっくりと動かす。ソフィの痩せぎすの背中は骨張っていて、撫でてやると背骨の感触が指先によくわかった。

 その感触が妙に心地よくて、マギー・メイはいつまでもその背骨の上に指先を這わせた。

「……くすぐったい」

 ソフィがぽそりと呟いて、背中を滑る指先の感触に身をよじらせる。マギー・メイがそれを面白がって、殊更くすぐるような動きを指先に与えてやると、ソフィはくすくすと笑いをこぼした。

「ずっとこうしていられたらいいのに」

 こぼれ落ちた言葉に、マギー・メイは背中に回した手でソフィを抱き寄せて応えてやる。

「……気持ちは同じだ」

 マギー・メイの言葉にソフィは顔を上げた。何かを言いかけて小さく動かした唇は震えていて。縋り付くような目で見つめる瞳を、マギー・メイは静かに覗き込んだ。

「眠ってしまったら、貴女とお別れだと言うのなら。私……」

 眠れなくても構わない。

 そう言おうとしたソフィの唇に、マギー・メイはそっと指先を宛てがった。

 唇の震えも、その先の言葉も、たった一本の指先で止まって、ソフィはマギー・メイと目を合わせていられなくなった。

「……嘘はよくない」

 マギー・メイの言葉にソフィはそっと目を閉じた。

 唇から指先が離れるのを感じると、小さく息を漏らす。

 何か大きな間違いを犯す寸前で踏みとどまれたような、そんな安堵を感じさせる溜息だった。

「嘘じゃないけれど……」

 ソフィはマギー・メイから離れて体を起こすと、ベッドの上に足を崩して座る。しばらく押し黙ってから、そうね、と小さく口を開いた。

「……自分の気持ちを嘘にする言葉だったわ」

 乱れた髪に手櫛を入れて整えると、何処か強がったような微笑みをマギー・メイに向けて「やっぱり眠りたいもの」と言った。

 マギー・メイが何か言葉を返すのも待たずに、ベッドから下りると、時計に目をやって、もうこんな時間、と呟いた。

「お夕食の前にシャワーを浴びておくわ」

 ベッドに横たわったままのマギー・メイにちらりと目線をくれると、時間を気にする素振りを見せた割にはぐずぐずした足取りでゆっくりと浴室に向かった。その途中でふと足を止めると、振り返ってもう一度、マギー・メイを見る。真っ白な顔を頬だけほんのりと朱に染めて、何か言いたげに指を絡め合わせて立ち尽くした。

「あのね、マギー・メイ……」

 ソフィがようやく口を開くと、マギー・メイは先の言葉を聞く前にベッドから下りる。しばらく寝転んでいたせいで少し固くなった首筋に手をやって揉み解すと、やれやれ、と苦笑いを漏らした。

「全く。大した甘えん坊だ」

 恥ずかしそうに頬を染めたまま俯いたソフィに歩み寄ると、頭を軽く叩くようにして撫でてやる。

「さあ。髪を洗ってやろう」

 マギー・メイの言葉にソフィは顔を上げて、花を咲かせたように笑った。

 さっさと浴室に向かうマギー・メイの後を軽い足取りで小走りに追いかけ、腕に抱きつく。

「優しいところが好きよ。マギー・メイ」

 浴室まで向かう間、抱きついた腕に頬を寄せていたソフィに、マギー・メイは「こら。歩きにくいだろう」と窘めながらも穏やかな表情を見せた。

 二人が浴室に入り、しばらくすると誰もいなくなった部屋に水音が響いた。浴室の窓からは柔らかい光が零れ、溢れ出した湯気をぼんやりと照らしていた。二人の談笑が漏れ聞こえ、普段は人の気配を感じさせない高い塔の頂を何処か温かく見せた。

 その塔の遥か下。

 数人の使用人が食事を載せたワゴンを押して塔を訪れた。

 ワゴンを押す一般的な女中服の使用人の後ろを、黒ずくめの服を纏った女が静かに歩いた。

 塔の入口に辿り着くと、黒ずくめの女は役目を変わろうというように軽く手を上げ、使用人を下がらせてからワゴンに手を掛けた。

 使用人が恭しく塔の入口、厳重に閉ざされた鉄扉を開いていく。重苦しい金属音を立てて鉄扉が開かれる間、黒ずくめの女は塔の頂から漏れる温かい光を見上げていた。

 真っ黒なレースのフェイスベールに包まれた彼女の表情を窺い知る者は誰もいなかった。

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