第四話

 塔の遥か下を眺めながら、ソフィは少女の戯れる様にころころと表情を変えた。少女が花を摘んで笑えばにこにこと微笑み、少女が転べば心配そうに見守り、少女が立ち上がれば安堵に胸を撫で下ろした。

 マギー・メイは見知らぬ少女がちょこまかと庭園を歩き回る微笑ましい光景になど興味がなかったが、ソフィに付き合ってぼんやりと庭園を眺めた。やがて飽き飽きしてくると、こんなものを見ていたらそれこそ眠くなる、と人知れず目頭を押さえた。ちらりとソフィに目をやり、飽きもせずに少女を眺め続ける横顔に苦笑いを漏らした。

「随分とご執心じゃないか」

 いよいよ堪え切れなくなったマギー・メイがそう尋ねる。嫌味な声色ではなく、優しげな、まるで娘か妹に話すかのような声色だった。

「妹なのよ。マデリンっていうのだけど」

 可愛らしいでしょう、と自慢げに答えたソフィの声音も、またマギー・メイのものと同じ響きだった。

 マギー・メイはもう一度、庭園に視線を落とした。母親と使用人達が幸せそうな表情で見守る中、庭園を戯れ歩く少女を眺めながら、そうだな、と短く答える。

「妹はここには?」

「昔は何度も来ていたわ。お母様と一緒にね」

 ソフィはマギー・メイと目を合わせず、庭園を見下ろしたままで、ぽつりぽつりと話し始めた。

「お母様のお腹が大きくなって、もうすぐ貴女もお姉さんになるのよ、って言われた時。それはそれは嬉しかったわ。指折り数えて、妹が産まれるその日を待っていたの。その時も、もちろんこの塔の上でね」

 お茶の用意を促すように、ソフィがティーテーブルに目配せした。長い話になるのだろう。そう察したマギー・メイは何も言わずにケトルに火をかける。ソフィは彼女が戻るのを待たずに、窓辺で話を続けた。小さな声だったが、外の音も届かぬ高い塔の上、二人だけの部屋に声を響かせるには十分だった。

「まだかしら、まだかしら、って。何日も眠れない日を過ごしたわ。お日様とお月様が交互に顔を出すのを眺めて。朝が来れば早くお日様が沈みますように。夜が来れば早くお日様が昇りますように。早く妹と会えますように。毎日窓の外を眺めて同じ事ばかりお祈りしたわ」

 ティーカップに紅茶を注ぐマギー・メイに「お砂糖はいらないわ」と言いつける。マギー・メイは頷いて応えると、カップの乗ったソーサーをソフィの目の前に滑らせた。

「口に合えばいいんだが」

 差し出されたソーサーを受け取ったソフィが、どうもありがとう、と軽く礼を言うとカップを鼻先に寄せた。湯気と共に上立ちの華やかな香りが鼻をくすぐり、ソフィは目を細める。ミルクを垂らして、その白色が大理石のように渦を巻いていくのを少しの間眺めてから、ティースプーンで軽く混ぜた。

 一口啜ると、気を遣ったように苦笑いを浮かべて「少し濃かったかしら。ほんの少し、ね」と言った。

「悪いな。私は丁度いいと思ったが」

「いいわ。貴女の好みがわかったもの」

 喉を潤わせたソフィは、ふう、と息を入れる。喉の調子を整えるように、小さく、何度か咳払いを繰り返し、また話を続ける。

「ある日、お母様が言ったわ。もうすぐ妹が産まれるから、しばらく来れなくなるわ、どうかいい子で待っていなさいね、って。私をぎゅって抱きしめてくれたの。お母様のお腹に耳を当てて、こう言ったわ。ずっと待っているわ。だから、きっと元気で産まれてきて、お姉さんに可愛いお顔を見せてちょうだいね、って。それからはずっと、妹が無事に産まれてきますように、ってお祈りしたわ」

「無事に産まれたようで何よりじゃないか」

 マギー・メイの言葉に、そうね、と小さく呟いたソフィは「お母様が初めて妹を連れてここに来た日。それはそれは嬉しかったわ」と答えた。

「貴女の妹よ、マデリンと呼んであげて、って。お母様に抱き抱えられたあの子に、マデリン、私がお姉さんよ、って声をかけたの。そうしたら、ぱぁって笑って手を差し出してくれて。私もそっと指を差し出したら、きゅって! とってもか弱いけれど、しっかり掴んだの!」

 その時の事を思い出すと興奮を抑えられなくなったソフィは右手の人差し指をマギー・メイに向かって立てると、左手でそっと包むように握って見せた。花が咲いたような笑みに、マギー・メイの頬も思わず綻ぶ。ソフィの年相応、というより、実年齢よりも幼い見た目相応の愛らしい笑顔を、マギー・メイは初めて見た。

 内心では、彼女の妹の話に興味が薄かったとしても。今にも跳ね回りそうなほどに嬉しそうな笑顔を見ると、指くらい握るだろうさ、それがなんだ、などとは決して言えなかった。

「いい思い出じゃないか」

「……そこまでは、ね」

 ソフィは声を落としてそう答えると、庭園を去っていく妹達に小さく手を振った。塔の上を見上げようともしない彼女達を恨めしく思うでもなく、ただ寂しげにぼんやりとその背中を見送る。

「マデリンがここに来るようになって、最初はすっごく嬉しかったはずなのに。だんだん疎ましくなってきたわ。どうしてか、わかる?」

 その問いにマギー・メイは、いいや、と返したが、本当のところは問い掛けの答えはうっすらと想像出来るような気がしていた。そんな彼女の表情を見て、気を遣っている事を察したのだろうか。ソフィは、優しい人ね、と聞こえるか、聞こえないかの声で小さく呟いた。

「マデリンはね。眠り姫なの」

「さっきもあの子をそう呼んだな」

「眠り姫と言っても御伽噺じゃないけれど。ただよく眠る子だったってだけ。赤ちゃんだったんだもの」

 マギー・メイは言葉には出さなかったが、そうだろうな、と一人納得した。

 眠りたくても眠れない者にとって、幸せそうに眠る赤ん坊など最も妬ましいだろう、と。

 掛ける言葉を見つける事が出来ずに短く息を吐いた彼女から目を逸らすように、ソフィは窓際から離れた。

 アンティーク調の美しい木目が刻まれた椅子に腰掛けると「マデリンはいつもこの椅子の上でお母様に抱かれていたわ」と言った。

「毎日、毎日、ね。お母様のお乳を吸って、笑って、泣いて。すぐに眠って。可愛らしく思えたのは最初だけ。他人が幸せそうに眠る姿って本当に妬ましいのよ。それが自分の妹だとしても、ね」

 椅子の上で脚を抱え込むように座り込んだソフィは表情を悟られないように顔を埋めた。それでも次の言葉を紡いだ彼女の声は少し震えていて、やはりマギー・メイはどうしても掛ける言葉を見つけてやる事が出来なかった。

「どうしても我慢が出来なくなって、私、大声を出したわ。お母様はよく眠る子が好きなのね、私の前で幸せそうに眠るマデリンを見せて当て付けているんだわ、不愉快よ、お母様もマデリンも大嫌い、もう二度とここに来ないで……って」

 鼻を啜り、いよいよ堪え切れなくなった嗚咽を小さく、小さく漏らすソフィを見て、マギー・メイは静かに歩み寄った。ソフィの座る椅子の前に片膝をつくと、身体の震えを抑えるように両脚を抱え込んだ腕を優しく解いてやり、その手を取った。細く、骨ばった小さな手を包み込んで、温めてやるようにそっと力を込める。しばらくそうしていた後、ポケットからハンカチを取り出して涙を拭ってやると、ソフィは少し赤くなった目でマギー・メイを見た。

「大嫌いなんて嘘なのに。本当はお母様の事も、マデリンの事も大好きなのに。二人はもうここに来てくれないの。私、嫌われてしまったわ」

「そんな事はない。子供の事を嫌う親がいるものか」

「嫌な子なら、きっと嫌うわ」

「嫌な子なら、な」

 マギー・メイはそう言って立ち上がると、ソフィの腕を引いて軽々と抱きかかえた。急な事に、きゃっ、と短く声をあげたソフィは慌ててマギー・メイの大きな体にしがみつくように腕を回す。お互いの息がかかるほどに顔が近付き、視線が交わるとマギー・メイは優しく微笑みかけてやった。

「大丈夫だ。お前は愛らしい」

 そう言ったマギー・メイはソフィを抱えたまま、部屋のカーテンを閉めて回った。

 ソフィが心配そうに「足は大丈夫?」と尋ねる。マギー・メイは多少不自由な足取りを見せながらも「杖が無ければ全く歩けないというわけじゃない」と答えた。

 一枚の窓を残してカーテンを閉めると、ソフィを優しくベッドの上に横たえてやる。

 それから最後のカーテンを閉めると、陽の光は分厚いカーテンに遮られ、まるで夜のように真っ暗な闇が訪れる。夜になれば一晩中、燭台を灯して過ごしているソフィは「こんなに暗いのは久しぶりだわ」とか細い声を出す。マギー・メイは懐からオイルライターを取り出すとベッドサイドのチェストの上に置かれた燭台に火を灯した。マギー・メイが床に座り込むと、ベッドの上で横たわるソフィと丁度同じ目の高さになった。

「暗いのは怖いか?」

「いつもは怖くなんかないけれど。今は少し不安だわ」

「何故?」

「……明るくなった時に、また一人だったらどうしよう、って」

 マギー・メイは手を伸ばしてソフィのおでこをちょん、ちょん、と優しく突っついてやる。

「言ったろう。お前が眠ってしまうまでは話し続ける、と。それまで私は何処にも行かない」

「……どうかしらね」

 寝返りを打ち、背を向けたソフィの頭を優しく撫でたマギー・メイは「何か御伽話をしてやろうか」と尋ねる。ソフィは少しむくれたような調子で、ふん、と小さく鼻を鳴らした。

「子供じゃないんだから。御伽話で寝かしつけられると思わないでちょうだい」

「気を悪くするな。御伽話が好きだと思ったんだ」

 マギー・メイは穏やかな口調で宥めるように言ってソフィの背中をさすってやる。ソフィは拗ねたような口調で「子供じゃないって言っているのに」と漏らした。

 背中越しにもソフィが唇を尖らせてむくれ顔を作っているのが想像出来て、マギー・メイは思わず、くすりと笑みを零した。

「……まあ、でも。聞いてあげてもいいわ。せっかくだから」

 強がったような口調でそう言ったソフィに「どんな話がいい?」と尋ねる。

「そうね……」

 ソフィは少し押し黙って考えると、そうだわ、と思いついたように声を上げた。

「じゃあ、魔法使いの出てくるお話がいいわ」

「魔法使いの話か。それならいい話がある」

「どんなお話?」

「別に昔々の話じゃない。特に遠くの話でもない。この国の端っこの紛争地域で起こった話だ」

 ソフィは、ふうん、と鼻を鳴らし、怪訝そうな声で「そのお話、魔法使いの出る余地がある?」と尋ねて、マギー・メイを苦笑させた。

「まあ、聞いていろ。ちゃんと出てくる」

 マギー・メイは咳払いで喉の調子を整えると、ぽつりぽつり、と静かに言葉を紡ぎ始めた。

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