第二話
「さあて。何の話をしようか」
ブランデーを垂らした紅茶の香りを楽しむように、ティーカップを鼻先に持っていったマギー・メイが呟く。
「あまり期待はしていないけれど」と興味薄げに紅茶を一啜りしたソフィは「退屈なお話は嫌よ」と返した。
「お前は私の事をつまらん奴だと決めつけているな」
「……そういうわけじゃないけれど」
お前、などという呼ばれ方をされた事がなかったソフィは、あまり好ましい呼び方ではないと感じ、眉を顰める。マギー・メイはそんな彼女の表情の変化には取り合いもせず「別に構わんよ」と話を続けた。
「実を言えば。私も今のところは、お前の事をつまらん子供だと思っているからな」
その言葉にソフィは流石に黙っていられずに「なんて言いぐさかしら」と声を上げた。
「ロンズデール家の長女に対しての言葉ではないわ」
そう言って、人形のように整った顔に苛立ちを滲ませた彼女を、マギー・メイは「それがどうした」と鼻で笑い飛ばす。
「家柄になど、一切興味は無い。これからここで鼻を突き合わせて話す事になるんだ。興味があるのは、お前自身が話をしていて面白い奴かどうか、という事だ」
「貴女は私を楽しませるために呼ばれているのでしょう?」
「会話というものはお互いが楽しめなければ面白くはならん。まずはお互いの事を知らなければな」
マギー・メイはそう言って紅茶を一口啜ると「とりあえずはひとつ、お前の事がわかった」と笑みを浮かべた。
「なかなか美味い紅茶を淹れる」
その言葉にソフィは一瞬、嬉しそうに顔を明るくさせたが、照れ隠しか、すぐにそっぽを向いて、ふん、と小さく鼻を鳴らした。
「これくらい当然だわ」
「お前にとって当然でも、私にはわからない事ばかりだ。その逆も、また然り。さあ、今度はお前が私の事を知る番だ。なんでも聞くといい。話し上手は聞き上手、とも言うぞ」
「貴女はどちらも上手そうには見えないけれど」
ソフィの言葉にマギー・メイは楽しそうに低い笑い声を上げた。
「なかなか面白い冗談が言える事もわかったな」
「冗談を言ったつもりはないのだけど」
呆れたような溜息が小さく漏れる。ソフィはほんの少し目線を泳がせて考える素振りを見せたが、すぐにマギー・メイに目を向けた。
何も考える事はない。まず最初に聞きたい事など、ひとつしか無いのだ。
「じゃあ、どれくらい眠らないでいられるのか聞きたいわ」
「一番長く眠らなかった時で十三日と六時間だ」
マギー・メイの答えにつまらなそうに鼻を鳴らしたソフィは、少しがっかりしたように「その程度なのね」と言った。
「なら、私は二週間毎に貴女の寝顔をみせられなければいけないの? 私はその間どういう気持ちでいればいいのかしら。幸せそうに眠っている他人を見るのって、本当にいらいらするのよ」
苦々しげにそう言ったソフィを、今度はマギー・メイが鼻で笑い飛ばした。
「嫉妬は人間の持ちうる感情の中でも最も醜い感情だな」
「嫉妬もするわ。貴女は十三日眠らずにいられるのが随分とご自慢のようだけど。私はもう十年以上、眠りたくても眠れないのよ」
神経を逆撫でされたソフィが語気を強めて反発するとマギー・メイは「だからどうした?」とだけ、言葉を返した。
「どうした、って……」
「お気の毒に、とでも言えばいいか?」
事も無げにそう言って紅茶を啜るマギー・メイに、ソフィは虚を突かれた思いがして、言葉を失った。
十年も眠れないという話を聞けば、大抵の者は、それはお辛いでしょう、と彼女を労った。その度に彼女は、下手な慰めはやめてちょうだい、と言い、癇癪を起こす事もままあった。だというのに、自分は今、目の前の人物が自分を一切労ろうともしない事に不満を覚えている事に気付かされた。それは日頃、同情を疎ましく思っているくせに、内心では自分は同情されて当然の立場なのだ、気を遣われて当然だ、と思っている事実を突きつけられたようだった。
それが彼女にとっては随分恥ずかしい事だったようで、しばらく返事に窮して俯いていたが、ややあってから、やっとの事で「そんなんじゃないわ」と強がりを言ってみせた。
「そうか。なら、下らん話をするな。人が楽しめるような話をしてみせろ」
「人を楽しませるような話題なんて持っているわけがないわ」
ソフィは不貞腐れたように「この塔から出た事もないのに」と言って唇を尖らせる。
「やはり面白い冗談を言う奴だ」
マギー・メイはわざとらしく低く笑い、指先でティーテーブルを叩いた。
「人間が睡眠に費やす時間を一日に八時間と仮定すれば、眠らないお前は十年間の毎日に八時間ずつ、他人よりも多くの経験をしているはずだが。それでも、他人を楽しませるような話題をひとつも持ち合わせていない、と。なかなか笑わせてくれるじゃないか」
マギー・メイは「いや、実に面白い冗談だ」と言い、ソフィを小馬鹿にするように仰々しく手を叩いた。
「貴女って本当に嫌味な人だわ」
「少しは私の事がわかったようだな。喜ばしい事だ」
ソフィはマギー・メイの言葉に聞く耳も持たず、ティーカップをソーサーに置いた。カチャリ、と響く乾いた音が彼女の苛立ちを伝えた。
「もういいわ。貴女みたいな人とお話する事なんてないみたい。帰ってちょうだい」
「そうやって、少し嫌な事があれば他人を遠ざけるわけだ」
「……少しですって?」
冗談じゃない、と怒りを滲ませて、マギー・メイを睨みつける。
「こんな侮辱を受けた事ってないわ」
ソフィの細い喉が震える。彼女にしてみれば声を荒げたつもりなのだろうが、喋る事に慣れない喉からは大した声量は望めず、掠れた声が喉を痛めて、けほけほ、とむせかえった。
「慣れない事はするものじゃない」
マギー・メイは苦笑いを浮かべると、空になったソフィのティーカップに紅茶を注いだ。手慣れたようにティースプーンの上に角砂糖をひとつ置くと、その上にブランデーを垂らし、懐から取り出したオイルライターで火を灯す。
ティースプーンの上で青い炎が静かに燃える様は、ソフィの目にも美しく見え、先ほどまでの苛立ちをほんの一時忘れたように見とれていた。
ブランデーのアルコールが青い炎で飛んだ頃、マギー・メイはティースプーンを紅茶に落とし、静かにくるくると混ぜ、ソフィに差し出してやった。
「ティー・ロワイヤルね」
ティーカップを鼻先にやり「とってもいい香りだわ」と言った彼女に微笑みかけたマギー・メイは、仰る通り、と呟いた。
「ロンズデール家のお嬢さんには相応しかろう」
ソフィはひとしきり芳香を楽しむと、一口啜り、ほっ、と息を吐いた。吐息と共に苛立ちを吐き出してしまったように気持ちを落ち着けた。
「……困ったわ。こんなに素敵なお茶を淹れる人を追い出すわけにはいかないみたい」
しばしカップの中の紅茶に目線を落としていたソフィは、深く息を吐いた。
「無礼なら無礼で構わないけれど。慇懃なのは嫌いよ。それだけは改めてちょうだい」
マギー・メイは、いいだろう、と微笑みを見せて、頷きを返した。
「寛大なお心に感謝するよ」
「仕方がないわ。美味しいお茶を頂いたのだもの」
先ほどとは打って変わり、静かに、流麗な所作でカップをソーサーに置いたソフィは居住まいを正して、マギー・メイに向き直った。
「このティー・ロワイヤルの芳しい香りとロンズデール家の名において、貴女の非礼を許します」
こほん、と咳払いをひとつしてから、赦罪の弁を恭しく述べる。ばつの悪さを隠すためか、殊更に作った澄まし顔にほんの少し影を落として「……まあ、貴女の言う事も間違ってはいないし、ね」と呟いた。
「私、同情される事に慣れすぎたみたい」
目を背けてしまったソフィに、マギー・メイは「全く同情されんよりはいくらかマシだろう」と答えた。
「本心から出た言葉ならそうかもしれないけれど。おためごかしの中身のない慰めって、わかってしまうのよ。それはとっても気分が悪いものだわ」
十年間の間、幾度となくかけられた、からっぽの慰めに思いを馳せた彼女は、嫌な気持ちを振り払うように、また紅茶の香りを小さな鼻に吸い込む。
「……貴女みたいに適当な慰めをしない人の方がお話相手にはいいのかもしれないわね」
「性分だからな。求められても出来ん」
結構な事ね、と笑ったソフィは、はたと思い出したように「意外とお話が続くものね」と言った。
「美味い紅茶と聞き上手の友人がいれば、いくらでも話は続くだろうさ」
冗談とも本気とも取れない口調に思わず吹き出したソフィは「聞き上手のお友達、ね」と楽しそうに笑った。
「ねえ。私の事、少しはわかって頂けたかしら」
「ほんの少しはな」
そう答えたマギー・メイは本腰を入れて話そうというように、羽織っていた無骨なコートを脱ぐと、椅子の背に掛けた。
「お互いほんの少し話しただけで、わかってしまうような底の浅い人間じゃあるまいよ」
コートを脱いだマギー・メイは長身に似合った男物のような型のシャツにループタイを締めており、髪が長くなければ、遠目には男性に見えるようだった。
「格好いいわ。社交の場に出た事がおありかしら? マギー・メイ」
ソフィの問いに「あると思うか?」と苦笑交じりの答えを返す。
さてと、とループタイをぐい、と引いて緩めたマギー・メイは「話を続けようか」と椅子に座り直した。
「いつまでお話が続くかしら」
「お前が私の話に飽きて眠ってしまうまで、だ」
マギー・メイは、そんな事は決まっている、と当たり前のように答えた。
自分が眠るという事が一切頭に無かったソフィは、その言葉をどう受け取っていいかわからず、しばらく言葉を失って、惚けたように目を丸く見開いていた。
「……私が死ぬまで眠れなかったらどうするの?」
ややあってからそう尋ねた彼女に、マギー・メイは優しく微笑みかけて「それこそ簡単な話だ」と答えた。
「話し続けよう。死が二人を別つまで」
ソフィは、大袈裟だわ、と楽しそうに吹き出した。それでも、マギー・メイが、冗談を言ったつもりはない、と言いたげに真面目な表情を崩さずにいるのを見ると、彼女もまた居住まいを正した。
「それではお付き合い頂こうかしら。私の命が尽きる日までの、長い、長い、お喋りに」
マギー・メイは目を伏せて、薄く笑みを漏らした。
「ああ、もちろんだとも」
高い、高い塔の上、窓から覗く遠い山の端に満月が沈む頃だったが、眠らない二人にとっては、そんな事は全く関係の無い話だった。
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