世界で一番優しい魔法

蟻喰淚雪

第一話

 眠りに落ちるって、どんな気分?

 夢を見るのは幸せな事?

 私、すっかり忘れてしまったわ。

 もう長い事、眠った覚えなんてないのだもの。

 この塔の一番高い場所で、ずっと目を覚ましているわ。

 手に入る本は何度も、何度も読み返して。

 ここから見下ろす景色は、飽きる事に飽きる程に眺めたの。

 私、ここで、ずっと一人。

 眠り姫には王子様がお迎えに来るけれど。

 眠れない私に、お迎えなんて来ないのだから。


 資本主義による近代化の影響が波及し、何もかもが目まぐるしく変わりゆく、とある国にあって、今なお牧歌的な暮らしを続ける片田舎の小さな町があった。

 その町の暮らしを見下ろすように、小高い丘の上、豪奢な城館が堂々たる威容を誇っていた。

 その城館こそが、この国の富と権力を欲しいままにする、ロンズデール家に連なる一族。その当主の居城だった。

 産業化が進み始めて以降、実用性、経済性が尊ばれるようになったこの国の昨今の情勢を鑑みれば、維持を試みるだけで途方もない金額を費やさねばならぬであろう城館は、時代の流れから取り残されたかのように異質な存在だった。

 ただ華美である事のみを求められ、綺羅を飾る事を義務とするかのような城館は、絢爛たる事の追求の具現とさえ思えた。

 その存在自体が異質な城館の中にあって、一際異彩を放つと言えるのが、城館の全高の倍はあろうかという高く、高く聳え立つ塔だった。

 遙か空高く天を衝き、まるでその塔こそが時代の流れに錨を打ち、城館を数世紀は昔のままに留まらせているかのように思えた。

 その城館を一人の女が訪れた。

 全くもって、城館の雰囲気には似つかわしくない女だった。

 無残に焼け爛れた顔の左半分を燃えるように赤い髪で覆い隠した大柄な女は、不自由になった右足を、申し訳程度に杖で補助してやりながら館の中を歩いた。

 不自由な足と杖が調子外れに板張りの床を叩く音はやたらと耳に障った。そうでなくとも、この館には不似合いな風貌の女が応接間に姿を現すと、それだけで瀟洒な装いをこらした家人達は顔を顰めた。

「……こちらは招かれて来ているわけだが」

 見た目通りと言うべきか、女性にしては低く、濁った声を、短く発した。

 館の主人であろう男性、ロンズデール卿が座る椅子の前で歩みを止めた女は、礼儀を払う気などはさらさら無いというように、彼を見下ろした。

 遠巻きに見つめる家人を値踏みするように見渡して睨めつけてやると、その目付きの身震いする程の冷たさに、皆は一様に下を向く。

 そんな彼らの様子を見た女は、つまらなさそうに、ふん、と小さく鼻を鳴らした。

「自分達で呼びつけておいてその態度か。流石の私も傷付くよ。歓待を期待していたものでね」

 遠路はるばる出向いたのだからな、と言った彼女の表情からは、その言葉が本気なのか、嫌味で言ったものかはわからなかった。

 それでも、ロンズデール卿は取り繕うような愛想笑いを貼り付けて、通り一遍の謝罪をしてみせた。

「いや、申し訳ない。皆、貴女のような方には慣れないもので」

「構わないがね。正味の所は金さえ貰えれば、どう扱われようと私にとってはどうでもいい話だ」

 女は、さっさと仕事の話を始めようじゃないか、と急かすように杖をとん、とん、と床に打ち付ける。

「仰る通りですな」

 そう答えたロンズデール卿は窓の外を指差してみせた。

 彼の指差す先には、あの高い塔があった。

 窓枠の中の景色に収めるには高すぎる塔を、女は静かに見つめた。

「あの塔の一番上に、私の娘が暮らしております。既に依頼は聞いておられると思いますが。貴女には、娘の話相手になって頂きたい」

「私が子供の話相手に相応しい、と?」

 女はその依頼を鼻で笑い飛ばすと、両腕を大きく広げてみせる。手、首筋、顔。衣服に隠れていない部分はおよそ全て惨たらしく傷付いていた。何より、長い赤髪の奥の焼け爛れた顔は、まるで煉獄から這い出した罪人のように思われた。

「この国で最も子守が似合わない女だ」

 女を遠巻きに眺めたまま言葉を失った家人達の、厭い、忌むような視線が、彼女の言葉を何よりも雄弁に保証していた。

 沈黙を破るように咳払いをしたロンズデール卿が、重い口を開く。

「……子守に相応しいかどうかは存じませんが。娘の話相手には、貴女こそが相応しいかと」

 この場の誰しもが露ほどにも抱いてはいないであろう考えを口にしたロンズデール卿を、女は細くした目で値踏みするように見た。

「娘は五歳の頃から、一睡も出来ない病に冒されておるのです」

 遥か高い塔の頂上を眺めたロンズデール卿の目は、物憂げに曇っていた。目線を外す代わりに瞼を閉じ、深い息を漏らす。塔に背を向け、女に向き直ると、また口を開いた。

「そんな娘が十五歳の誕生日にねだったプレゼントは、ずっと眠らずにいてくれる話相手でした」

 ロンズデール卿はそう言うと怯む事無く、女の顔を見据え、彼女の右目と視線を合わせた。

「貴女は傭兵として戦場を渡り歩き、一睡もせずに戦い続けるというお噂。眠らない傭兵ならば、娘へのプレゼントには丁度よろしかろう、と」

「なるほどな」

 短い返答を交渉の成立と見たロンズデール卿は、使用人の女性に塔への案内を申し付けた。

 主人に一礼した使用人は、目を伏せてなるべく女の方を見ないように前に出る。何も言わずに歩き始めた彼女の後を、女が杖を突きながら続いた。

「ねえ……」

 女の足元ほどの下から、か細い声が掛かった。目線を下げてみれば、母親らしい女性の服の裾を掴み、その陰に隠れながら、おずおずと小さな口を開く幼い子供の姿があった。

「あの塔へ行くの?」

 びくびくと怯えるように顔を覗かせる少女を、女はじろりと見た。

 母親が窘めるように、お話をしてはいけません、と少女を自分の後ろに隠すのを、女は呆れたような目で見ていた。

「……おばけ、出るよ」

 母親の後ろから声だけを響かせた少女に、女は心底おかしそうに高笑いをあげた。

「おばけか。ご忠告をどうもありがとう。小さなお嬢さん」

 少女の言葉を一笑に付しながらも、彼女は恭しくお辞儀をしてみせた。

「だが、ご安心を」と言葉を続けた彼女は、母親の陰に隠れる少女を見下ろした。

「おばけよりも、私の方が怖い」

 なあ、と薄ら笑いを浮かべて、家人達を見渡した彼女に、誰も言葉を返せなかった。

 彼女はそんな家人達の態度を見て、また高笑いをあげると、使用人を促して、塔へと歩みを進めた。

 その背中に「なんと不遜な」という憎々しげな声がかかろうとも、女は一切、意に介する様子などは見せなかった。


 使用人の後を歩き、塔の入り口に辿り着いた女は、その物々しい鋼鉄製の扉を見て訝しむような表情を見せた。

 仮にもロンズデール家の当主の娘の住まう場所だ。

 鋼鉄製の扉に閂をかけてまで、厳重に施錠をするというのは過保護が行き過ぎているにしても、大袈裟に思え、それはまるで塔の中に住まう人物を監禁しているようにさえ見えた。

 住んでいるのはどんな奴なのだろう、と女が塔の最上階を見上げる傍らで、重い閂が外され、錆びた金属同士が擦れ合って耳障りな金属音を立てた。

 重苦しい音を上げながら鋼鉄の扉が開く。

 扉の向こう、申し訳程度の照明が仄かに明かりを灯しただけの広間に、一基の昇降機が見えた。

「ご案内出来るのは、ここまででございます」

 そう言った使用人は機械を操作して鉄格子の扉を開き、乗り込むように女を促した。

 殺風景な広間の中にあって、その昇降機だけが美しい装飾を施されているのが不気味にさえ思えた。

「歩いて登る必要が無いのはいい事だ」

 不自由な右足を杖で軽く叩いた女は、俯いたまま、また物を言わなくなった使用人の横を通り、昇降機に乗り込む。女に向かって使用人が深々と頭を下げると、すぐに扉が閉じられた。

 やがて昇降機が上昇を始め、鉄格子の隙間から覗く使用人の姿が見えなくなるのを、女は無表情で眺めていた。


 昇降機が最上階に到達すると、扉はひとりでに開いた。

 女が足を踏み出すと、目の前には簡素ながらも、素材の良さを感じさせる木製の扉があった。

 向かって左手の方に目を向ければ、階下へと続く階段が見えたが、そちらは外側から厳重に錠を下ろされているようだった。

 扉の前で歩みを止めた女が観察するようにその扉を眺めていると、ややあってから背後で鉄格子の閉まる音が聞こえ、昇降機は階下へと降っていった。

 女が振り向いて昇降機を調べると、操作盤には鍵穴が開いていた。興味本位に操作盤を弄ってみるが、機械の動く気配はない。鍵を挿していなければ、この機械を操作する事は不可能なのだろう。

 それは、この塔に住まう者をどうあっても外には出さぬ、という意思を感じさせた。

「御苦労な事だ」と誰にともなく、吐き捨てるように呟く。

 改めて木製の扉に向き直った女は、ドアノブに手を掛けた。こちらは特に施錠されているという事もなく、いとも容易く開き、彼女をその先の部屋に招き入れた。

 扉の先の部屋は、良く言えば貴族趣味、悪く言えば悪趣味といった風情で、装飾過多の調度品に塗れていた。

 壁はほぼ全面が本棚で覆われ、人一人が読み尽くすのにどれほどの時間がかかろうか、という程の本がぎっしりと詰め込まれていた。

 中でも、否が応にも女の目を引いたのは、部屋の中心に鎮座する天蓋付きの大きなベッドだった。

 夜の闇を払うかのように、過剰に据え置かれた燭台に灯った火がゆらゆらと揺れ、ベッドの上に座り込んだ少女を照らし出した。

 金色の髪と、金緑色の瞳と、青白い肌が、燭台の灯りを受けて煌々と艶めいていた。

 繊細なフリルを目一杯にあしらった純白の寝間着に身を包んだ少女は、まるで高級な人形のようで、その儚げな美しさは、見る者によってはどこか不気味にさえ感じさせるようだった。

「……貴女、誰?」

 いつだろう。この少女が最後に声を発したのは。

 そう思える程にか細く、見た目の幼さからは想像出来ない程にかすれた声が響いた。

 この少女は近々十五歳の誕生日を迎えるはずだそうだが、小さく、痩せぎすな身体は、外見上はどう見ても十歳になるかならないかくらいの年齢にしか思えなかった。

 女は後ろ手に扉を閉めて、歩を進める。

 瀟洒な椅子を無遠慮に引っ掴むと、少女の目の前まで引き摺って行って腰を掛けた。

 目の前に座った女の恐ろしげな風貌に、少女はほんの僅かにも怯える様子を見せなかった。

 金緑色の瞳の中に映った燭台の火が揺れているのがわかるほどに、少女はしっかりと女の目を見据えていた。

「マギー・メイ。私の名だ」

 短く、無感情に自分の名を告げた女に続いて、少女は、マギー・メイ、と小さなしゃがれ声でその名を繰り返した。

「……庶民の名前ね」

 少女は何が面白かったのか、マギー・メイ、マギー・メイ、と何度も繰り返しては、くすくすと笑った。

 マギー・メイは椅子から立ち上がると、一歩前に出て、少女の前に膝を突いて頭を垂れた。

「貴女のお名前もお聞かせ願いたい。レディ・ロンズデール」

 大袈裟過ぎる程に恭しくそう尋ねた女の態度を慇懃無礼に感じたのだろう。少女は、むっとした表情を作り「そういうのは好きじゃないわ」と言った。

「ソフィ・ロンズデールよ。覚えておいて。マギー・メイ」

 ソフィは「さあ、立ってちょうだい」と声を掛けてマギーを立ち上がらせると、自分も億劫そうにベッドの上から降りた。

 改めて自分の前に立ったソフィを見ると、やはり年の頃に比べて、些か小さすぎるように思えた。

 その視線から、彼女の考えている事を察したのか、ソフィは小さな溜息を漏らす。

「私の事、小さいと思っているのでしょう」

「そうだな。気を悪くしたか」

 マギー・メイはそう返したが、その口調に申し訳なさのような物は、一切感じられなかった。

「少しだけ。でも、いいわ。久しぶりのお客様ですもの」

 ソフィは細い足をよたよたと動かして、ティーテーブルへと歩いた。子鹿のように頼りない足取りではあったが、その歩き方には何処か高貴な印象を与える気品が備わっているように思えた。

 ケトルに火をかけた彼女に、マギー・メイが「よければ、私が淹れようか」と声を掛ける。

「お気遣いなく。それに、自分で淹れた方が美味しいわ」

 マギー・メイは納得したように、仰る通りだ、と答えた。

「それで。マギー・メイは、この私にどういったご用件かしら」

 こんな夜更けに、と表情も変えずに嫌味を飛ばす少女に、マギー・メイは思わず頬を綻ばせた。

「君は私を怖がらないようだが。こんな怪しい風体の女が突然訪ねてきて。恐ろしくはないのかね」

「質問をしたのは私なのだけど」

 ソフィは溜息を吐いて不満を表しながらも「まあ、いいわ」と鷹揚に構えて、お湯をポットに注ぎながら答えた。

「本当に怪しい人ならここに入って来られないもの。お父様が私を危険な目に遭わせるわけがないわ」

 そんな事は当たり前でしょう、と小さく鼻を鳴らした彼女を見て、マギー・メイは、なるほどな、と頷いてみせた。

「納得して頂けたのなら。今度こそ、私の質問に答えて下さるかしら?」

 ポットの中で温められた茶葉が開いて芳香を漂わせた頃、ソフィはもう一度、来訪の目的を尋ねる。彼女はマギー・メイの返事を待ちながらティーカップに紅茶を注ぎ入れた。

「お父上からの誕生日プレゼントだ」

 思いがけない返答に虚を突かれ、ソフィは一瞬、呆けた表情を見せた。自分が間の抜けた表情をしている事に気付いた彼女は、すぐに気を取り直すと、取り繕うように澄まし顔を作った。そして、紅茶を注いだティーカップを差し出してやりながら「誕生日プレゼント?」と言葉を繰り返した。

「貴女がお父様からの誕生日プレゼントを預かってきたという事かしら」

 そう言ったソフィは寂しそうな表情を浮かべて、視線を落とした。

「お父様ったら、もう私の誕生日にさえ、お顔を見せて下さらなくなったのね」

 今更どうでもいい事だけれど、と言いながら親指を噛んだ彼女の表情からは、どうでもいい、などとは微塵も思えてはいない事が伝わってきた。

 そんな彼女を慰めるつもりかはわからないが、マギー・メイは長い髪の間から優しげな微笑みを覗かせてやると「お父上は誕生日には必ず顔を見せるはずだ」と言ってやった。

 ソフィは、どうかしらね、と言ってそっぽを向いたが、少しは安心したのか、その表情からは寂しさの色は薄らいでいるように思えた。

「で、プレゼントって何かしら? 見たところ、手ぶらのように見えるのだけど」

 ソフィが紅茶に息を吹きかけて冷ましながら、そう尋ねた。

「私が今年の誕生日プレゼントだ」

 怪訝な面持ちで「なんですって?」と言ったソフィに構う事なく、マギー・メイは言葉を続けた。

「眠らずに話を続けてくれる相手を欲しがったそうじゃないか。私は眠らない事に自信がある。だから、選ばれた」

「貴女が、私の……お話相手に?」

 ソフィは表情と口調に不満の色を滲ませて呟いた。

「ただ起きているだけの人とお話がしたいわけじゃないのよ」

「不満か?」

「不満だと言ったら、どうなるのかしら」

「どうもしないさ。私は頼まれた通りにやるだけだ」

「そもそも、まだ誕生日じゃないのよ」

「試用期間と思えばいいだろう」

 マギー・メイは懐からスキットルを取り出し、紅茶に少しだけブランデーを垂らした。

 紅茶の中で温められたブランデーの芳香が漂う。マギー・メイは目を細めてその香りを楽しんだが、ソフィは自分の淹れた紅茶に不満があると言われたように感じて、ほんの少しの苛立ちを覚えた。

「さあ。お喋りをしようじゃないか」

 尊大にも思えるほどに深々と椅子に腰掛けたマギー・メイが、紅茶を一口啜った。

「私を楽しませる自信がおありなのかしら?」

「さあな」

 刺々しい口調を、マギー・メイは鼻で笑い飛ばした。

「だが、話し続けよう。お前の興味を引くまでな」

 そう言って不敵な笑みを浮かべた彼女に、ソフィも負けじと挑発するような微笑みを返してみせた。

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