第2話 八十神の巫女



 お父様が玉藻様に返事の手紙を書き、あちらからの返事を待つ間、私の日々が変わる、ということはなかった。

 誰よりも早く起きて、朝餉の準備をして、皿を洗って洗濯をする。

 掃除をして、昼餉の準備をして、買い物をして――。


 その間、咲子さんは女学園に通い、お母様は華やかな恰好で観劇に行ったりお友達と喫茶店に行ったりと忙しい。

 お父様は仕事部屋に籠ったり、出かけたりしている。


 私の他にも八十神家にはかつては下女がいたけれど、私がもう少し幼い頃に、お母様が追い出してしまった。

 下女がお父様に色目を使ったと言って、家の調度品などをお母様が壊して回ってから、下女はいなくなり、お父様はお母様に頭があがらなくなった。


 庭の草取りをしながら、私は空を見上げた。

 日差しが強い。昨日までの雨が嘘みたいに雲一つない空に、白い鳥が飛んでいる。


 ――玉藻様に嫁ぐ。

 私は、嘘をつかなくてはいけない。


 それを考えると、心に重石でも乗せられたように気分が沈んだ。

 不安で仕方なくなり、尊い方を騙す罪深さで、消えてしまいたくなる。


 体を動かしていた方が、楽だった。少しだけ、私の罪深さを忘れられる。


「薫子、先方から返事があった。明日の朝、迎えがくるそうだ」


 そんな私の不安とは関係なく物事は勝手に進んでいってしまう。

 草むしりを終えて、夕餉の支度をして、私は調理場の椅子に座って残り物を少し頂いた。

 お米が嫌いだという咲子さんは夕食をほとんど残していて、お母様は外で夕食をすませたからいらないと言い、お父様は一人でお酒を召し上がっていた。

 食器を片付けに行くと、お父様に声をかけられる。


「……はい」


「分かっていると思うが、お前に神癒の力がないことを、玉藻に悟られないようにしろ。お前のせいで、我が家が恨まれるなど、あってはならない」


「はい、お父様」


 私は深々と頭をさげた。

 口答えはできない。また、叩かれるだけだ。


 人を騙す恐怖で、まんじりともしないまま夜を明かした。

 屋敷の片隅にある狭い部屋の窓からは、部屋に明りがないせいで、月と星がよく見える。 

 板敷の床の上で薄い布団にくるまって眠るのは、昔は怖かった。


「……玉藻様」


 どんな方なのか知らないけれど、玉藻由良様とは、神の血を受ける玉藻家の当主。

 鎮守の神と呼ばれる幾人かの帝都守護職の方々の一人だ。

 きっと、立派な方だろう。

 私が、きちんと神癒の巫女としてうまれてくることができたのなら、玉藻様は私を望んでくれたのだろうか。

 夫婦として、愛しあうことができたのだろうか。


 けれど、そんなものは叶わぬ夢。

 私には――うまれたときから、神癒の力はなかった。

 八十神の女は、神癒の力を持って生まれる。

 いつからそれがはじまったのかは分からないけれど、神の嫁――鎮守の神様たちの嫁になるために、存在する家系のうちの一つが、八十神家である。


 神癒とは、鎮守の神たちの持つ不思議な力――法力を回復させたり、増大させたりするもの。

 鎮守様たちは、帝都守護職という立場にある。

 日々帝都に蔓延る魔性と戦い、帝都の民を守ってくださっている。

 だから神癒の巫女を娶り、体を癒やし、法力を回復させる必要がある。


 神癒の巫女には、うまれたときに体のどこかに桜の形の痣が現れる。

 咲子さんの首には痣があり、私の体にはどこにも痣がなかった。


 だから、私は役立たず。不良品だと、お母様に言われた。

 鎮守様の嫁になる資格のない私はこの家ではいらない存在で、せめてここに居させていただくために、お父様に命じられるまま下女に混じって仕事をしてきた。


 でも――それももう終わりだ。


「玉藻様は、きっとお怒りになる」


 そう呟いて、私は目を伏せた。

 いっそ逃げ出してしまいたいと思ったけれど、それはできない。

 お父様やお母様には、ここまで育てて頂いた恩がある。

 八十神の娘として役に立たない私を、出来損ないの私を、家に置いてくださった。


 私が逃げたらきっと、お父様もお母様も咲子さんも困るだろう。

 それに、私には行く場所なんて、他にない。

 そんなことを考えていると、気付けば夜があけていた。


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