第6話 星空羊羹
玉藻様に抱きしめていただいて、髪を撫でていただいていた私は、気持ちが落ち着いたところでとても恥ずかしい姿を晒していることに気づいて、慌てて玉藻様から離れた。
「も、もうしわけありません……私、こんな……」
「何故、謝るのだろうか」
「泣いてしまって……ご迷惑を……」
「迷惑などと思っていない」
もう一度頭を下げようとした私の手を取って、玉藻様は私を縁側へと連れて行った。
ぽつぽつ雨のふる庭には、花瓶に飾られているのと同じ紫陽花の花が咲いている。
花や葉に雨粒が落ちて、美しい色合いを余計に際立たせていた。
川には、鯉がいるようだった。赤や金色の鯉が悠々と泳いでいる。
湿った空気の匂いは、どことなく静謐さを感じるものだ。
屋敷の中は、不思議と涼しい。
じめじめした梅雨の蒸し暑さを感じない。
入り口にあった鳥居を隔てて、世界が変わってしまったかのように感じられる。
「薫子、こちらに座ってくれるか?」
「はい……」
玉藻様に言われて、私は縁側の縁へと座った。
軒先のおかげで縁側は濡れていないのかと思ったけれど、そういう訳ではなく、雨は屋敷を避けて降っているようだった。
本当に──別の世界に、迷い込んでしまったみたいだ。
「少し、落ち着いただろうか」
「もう、大丈夫です。もうしわけありません」
「大丈夫じゃなくてもいいのだけれどね。薫子、君は俺に謝罪をする必要などない。迷惑とも、思っていない」
「……ありがとうございます」
「君に、何があったか、少し、話してくれるか?」
「……それは」
「俺の予想は、当たっていただろうか」
玉藻様は私の隣に座った。
玉藻様が軽く縁側を指で叩くと、座卓の上にあったはずのお茶と菓子が私と玉藻様の間に現れる。
「あ……」
「不思議かな。これが、法力。玉藻家は九尾狐の血の家系。九尾の力は、炎。だけれど、それが得意というだけで、どのようにも使用できる」
「不思議です……」
「はじめて見た?」
「はい」
「怖いだろうか」
「怖くはないです。……とても、神聖なものだと感じます。ずっと、考えていました。お父様から玉藻様を騙すように、命じられてから。神様を騙すなど、なんと罪深いのだろうと」
「薫子は、いいこだね」
小さな子供にするように、玉藻様は私を撫でる。
こんなに撫でられたことなど、今まで一度もなかった。
まるで、子供の頃に戻ってしまったみたいで、無性に切なくなる。
お母様に撫でられたい、抱きしめていただきたいと思っていた、あの頃に。
「俺は君を娶った。先ほど言ったように、君を娶ったんだ、薫子。君は俺の妻なのだから、俺に甘えていい。泣いていいし、わがままも、言っていい」
「……玉藻様」
「由良と」
その名を呼ぶことが、許されるのだろうか。
けれど、呼んでみたい。
とても美しい響きの名前だから、許されるのなら──。
「……ゆ、ら様……」
「うん。ありがとう、薫子。嬉しい」
「……はい」
「薫子、様もいらない」
「…………それは、いけません」
私は首を振った。それは、とても難しい。
だって、玉藻様は──由良様は、神様なのだから。
「では、そのうちにな。……君の話を、してくれるか?」
自分の話を、誰かにしたことなんてない。
戸惑いながら、私は口を開く。
「……八十神の家に生まれた時から、私には神癒の印がありませんでした。神癒の力がないものは、あの家では役立たずです。ですから、使用人として働くことで、あの家に置いていただいていました」
「そうか。誰が君に、暴力を?」
「……それは、私が悪いのです。私が、役立たずだから。お父様やお母様を、怒らせてしまって……でも、頬を叩かれるぐらいですから、大したことはないので、あまり気にしていませんでした」
「薫子、それは違う」
「違いますか……?」
「あぁ。叩かれたら、怒っていい。君が怒ることができないのなら、俺が君の代わりになろう。君を貶める者たちから、これからは俺が君を守る」
「……由良様」
由良様は、仮面の下で微笑んでくれている気がした。
「ありがとうございます……由良様」
「少しずつ、この家や、俺や、シロとクロ、ハチにもなれてくれるといい。皆、君を歓迎している」
由良様は星空みたい羊羹を、フォークで小さく切って私の口元に差し出した。
「薫子。羊羹は、好きだろうか?」
ゆっくりと、先ほどと同じ質問をされたので、私は軽く首を振った。
「……食べたことが、ありません」
「では、食べてみるといい。好きかもしれない。嫌いかもしれない。食べてみないとわからない」
差し出された羊羹をフォークごと受け取ろうとすると、由良様の手がすっと離れた。
それからもう一度、私の口元に差し出される。
私は恥ずかしく思いながらも、小さく口を開けた。
口の中に、羊羹のかけらが入ってくる。
ぱくりと口に含むと、小さなフォークが離れていった。
「美味しいです……不思議な味がします、爽やかで、甘酸っぱい」
「ソーダ味なのだと。ハチが言っていた。シロとクロは、ソーダが好きらしい」
「ソーダ……?」
「炭酸というものだね。最近、街のカフェで流行っているようだ。今度飲みに行ってみようか、薫子」
由良様はそう言って、私の唇を軽く撫でた。
私は気恥ずかしくて俯いて、それから「はい」と、小さな声で返事をした。
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