第14話 私の好きなもの
目覚めた時、すでにあたりは明るかった。
いつもは、朝日が昇る前にはきちんと起きられるのに。
朝の支度を急ぐと、お皿を割ったりバケツを倒したりと、粗相をしてしまうことが多い。
私はあまり、器用じゃないから、焦れば焦るほどに失敗をしてしまう。
だから、できるだけ早く起きる習慣がついていた。
こんなに眠ってしまったのは、いつぶりだろう。
朝食の支度も、昨日の汚れ物のお洗濯も、何もできてない。
このままではお父様に叱られる。お母様に叩かれる。
咲子さんは、女学校に遅刻すると言って、泣いてしまうかもしれない。
焦って起きあがろうとした私の体を、誰かが引き留めた。
腕のなかに抱き込まれると、私の視界を黄金が埋め尽くした。
美しい金色の髪。
そうだった、私は、昨日──。
「おはよう、薫子。どうしたんだ?」
昨日の由良様は、長い金の髪に、狐の耳と九本の尻尾がはえていた。
けれど今日は、金の髪は短くなって、耳と尻尾は消えている。
顔の傷は昨日と同じように綺麗に塞がっていた。
「由良様……起こしてしまって、申し訳ありません」
「いや。もう、起きていた。起きて、眠る君を見ていた」
「え……あっ、は、はい……寝坊をしてしまいました、私、すみま──」
言葉を最後まで伝えることはできなかった。
由良様の唇が私のそれを塞いで、頬や目尻にも丁寧に触れる。
それから少し照れたように、はにかんだ。
「薫子、謝ることはない。早起きする必要はないし、いつ起きてもいいんだ。……昨日は大変だっただろうから、今日は寝ていなさい」
「由良様……ですが」
「君は働き者だったのだろうね。けれど、この家ではそれは必要ない。シロとクロの仕事を奪うことになる」
「……はい、でも、なんだか落ち着きません」
「長年の習慣は、なかなか変わらないとは思う。焦らず、慣れていってくれ」
「はい、ありがとうございます」
由良様は肘を曲げて頬杖をつくようにして、横を向いて少し起き上がると、私の顔にかかった髪を指で払った。
昨日は降っていた雨は、もう止んでいる。
白くぼやけた朝の光の中で、由良様の金色の髪がお日様のように輝いていた。
「このまま起きるのは、名残惜しいな。もう少し、薫子とここにいたい」
「はい……」
形を確かめるように耳に触れられ、首筋を辿り、ふにふにと唇に触れる。
慣れないことで恥ずかしく、私はわずかに眉を寄せた。
「君の、瞳にはやはり、桜の紋様がある。……俺の顔は、治っているだろうか」
「はい、由良様。昨日と同じ、傷は残っていません」
「改めてありがとう、薫子。俺の元に来てくれて、ありがとう。俺は、家族を失ってしまったけれど……君と二人で、穏やかな家庭を築けたらいいなと思っている」
「ありがとうございます。……私も、由良様の元に、くることができてよかったです。……こんなに幸せな気持ちになったのは、はじめてです」
「そうか。嬉しいよ。……君の話を、聞きたい。薫子、君は今まで何を感じて、何を考えて生きてきた?」
由良様に尋ねられて、私は言い淀んだ。
話せることなんて、ほんの少ししかない。
「……私は、何も。話せるようなことは、何もないのです。家事をして、怒られて、ただそれだけの毎日でした。毎日を過ごすのに、精一杯で」
「……苦しいことばかりだっただろうか。楽しいことは何もなかった?」
「いえ、何一つ、ということはありませんでした。庭を眺めるのは好きでした。夏になるとたくさん、草が生えて、冬になると草が枯れて。冬の終わりに蕗のとうを摘んで、梅の実を摘んで、梅干しを作るんです。梅干しは、家の方々はあまり、食べてくれませんでしたから、買い物に行った先のお婆様に差し上げたり、していました」
「君は、料理が得意なのか」
「得意というわけではありませんけれど、おいしくないものを作ると、叱られましたので……努力は、していたかと思います」
「家族を恨んでいる?」
「そんなことはありません。育てていただきましたから、恩を感じています。私が至らないことが多いから、叱られてしまっただけで……不自由は、なかったのですよ。屋根のある場所で眠れるだけで、私は幸せでした。そうではない方も、多いでしょうから」
「薫子。君は、季節の移ろいが好きで、花が好きで、生まれてくる生命を愛しく思える人だ。俺は、それを好ましく思う」
「そんな、大それたことではなくて……私、いつも一人でしたから、裏庭に来てくれるスズメや、雨蛙には慰められました。そうですね、思い出すと、やっぱり辛いばかりの日々ではありませんでした。叱られた時だけ、少し辛いと思いました」
「……薫子」
由良様は、少し苦しそうに眉を寄せて、私をもう一度抱きしめた。
「君がここにいてくれて、俺は嬉しく思う。……俺は君を離さないから、君も、俺のそばを離れないようにしてくれ」
「は、はい……ありがとうございます、由良様」
こんなに自分のことを話したのは、はじめてだ。
言葉にすると、曖昧だったものがくっきりと形を持ってくる気がする。
私は、季節の移ろいを追うのが好きで、晴れの日も、雨の日も、梅雨の日も好きだった。
スズメや雨蛙が好きで、金魚売のかたが背負う桶に入っている金魚を見るのが好きだった。
上手に梅ぼしがつけられると、褒めてくれる市場のおばあちゃんが好きだった。
そして、私は──優しい由良様が好き。
ソーダ味という、少し変わった味のするお菓子が好き。
私には、好きなものがたくさんある。
それはとても、嬉しいことのような気がした。
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