昼と夜 七
七月一日。昨日の雨の面影は拭い切れないものの、透き通る淡い青で染め上げられた空は、夏らしい清らかな美しさが際立っていた。長い夏の日がようやく落ちかける午後六時半頃。柔らかな薄紅色から緋色に塗り替えられていく西の空をカーテン越しに眺めながら、私は出来上がったばかりの料理を盛り付けている。
豚肉に白菜、人参、きくらげなど目にも鮮やかな具材に餡を絡めて、宝物みたいなウズラの卵や海老をたっぷりと添えた八宝菜。シャキシャキのニラと焼き加減に細心の注意を払ったトロトロの卵を合わせ、香ばしい胡麻油で仕上げたニラ玉。わざわざ滅多に使わない蒸し器を引っ張り出して量産したシュウマイは、店で売られるものよりも大振りでボリュームたっぷりに蒸し上がっている。とろみのある鶏ガラスープには絹よりも薄い卵の膜を散らし、風味付けに軽く回し掛けられた胡麻油が味に深みを加えてくれる。炊飯器の中には保温中の白米がきっちり二合分、ホカホカと湯気を立てながら出番を待ち惚けていた。
それぞれ大皿に盛り付けた、二人分には少し多い料理を座卓まで運び終わると、丁度良いタイミングで呼び鈴が軽快な音を鳴らした。
「はーい、今行きます!」
長くはない廊下を小走りに駆け抜けてドアを開けると、茜色にぼやけた空を背にして長身の男が佇んでいた。漆黒のスーツに少しだけ襟足の長い黒髪、片手に下げられた紙袋。僅か五日間で相当疲労を溜め込んでしまったのか、静かに揺蕩っていた瞳には翳りが見える。
「こんばんは、来て下さってありがとうございます。随分お疲れみたいですけど……大丈夫ではなさそうですね」
「……まあな。少々厄介な事案を抱え込んでいる。今日は何とか来られたが……次はいつになるか全く分からない。悪いな、あんたにも都合があるだろうに。」
「いえいえとんでもない!寧ろお忙しいのに本当にごめんなさい……私が言うことではないでしょうが、無理してまで来る必要はないんですよ?」
来ないで欲しいわけではないが、予想よりもずっと頻度が高い。家族も恋人も友人もいない私の都合なんてものはどうにでもなるけれど、結城さんはそうもいかないだろう。彼が律儀にこの家を訪れる理由は大半が義務感だろうから、私の方から申し出れば彼も少しは休息に回せる時間が増えるのかもしれない。
しかし、当の結城さんはしばらく動揺したように視線を彷徨わせてしまった。ぎこちなく首を巡らせると、逡巡の後に首を大きく横に振った。
「いや、問題ない。恩返しという名目ではあるが……俺自身、あんたの人柄と料理を好ましく思っているのも事実だ」
珍しくはにかみながら、本心が溢れたように落とされた言葉。何故か、演技だとは到底思えなかった。
全身の血流が激しさを増して、命の流れが普段の何倍もの速度でこの小さな身体を駆け巡る。ぐんぐん上昇する体温と比例して、破裂するようにぶわりと弾け出したこの感情の名前はなんだろう。驚きか喜びか、ただ単に照れているだけなのか。訳も分からないまま高まっていく鼓動はあの夜とよく似た焦燥を伴ってはいたけれど、心做しかあの無機質な音よりもずっと温かくて愛おしい響きを宿している。
たったひとつの不器用な、だけど苦しくなるくらい真直ぐで真摯な言葉で、こんなにも胸が満たされるなんて。
「あ、ありがとうございます……」
散々浮かべてきた笑顔が上手く作れない。じんわりと熱を持ち始めた頬を手で抑えながらなんとか絞り出したような間抜けな声でお礼を述べると、結城さんは何故か心底満足そうな微笑みを浮かべた。
「あんた、こういう類いも好きか?」
「これは……わっ、あんみつですか⁉大好物なんです、ありがとうございます‼」
差し出された紙袋に私は早速飛び付いた。甘いものはなんだって大好きだ。だけど、どちらかと言えば洋菓子よりも和菓子の方が好物ではあった。特にあんみつなんて幸せの具現化みたいなもので、玄関先なのも忘れて思わず声を上げてはしゃいでしまう。
「本当にいいんですか⁉お忙しいのに……でもここの一回食べてみたかったんです……ああもう幸せ……」
取り繕っていたなけなしの自制も忘れて素を晒け出し始めた私に、結城さんは珍しい生き物を見たような何とも言えない視線を向けた。
「結城さん?」
そのまま固まってしまった端正な顔を覗き込んでみると、彼は我に返ったかのように顔を逸らしてしまう。そのまま無言で靴を脱ぎ出した彼を不思議に思って観察していると、結城さんは私と目を合わせようとはしないまま奥へと上がって行ってしまった。
いつもとは違うぶっきらぼうな態度がなんだか微笑ましくて、私は置いて行かれたことを寧ろ喜びながら彼の後を追ってリビングへと向かう。ギシギシと不快な音を立てながら早足で廊下を抜けると、リビングの真ん中で座卓の上の大皿達にどこか期待に満ちた眼差しを注ぐ結城さんが立っていた。
なんだろう、紳士的な人だとは思っていたけれど……案外可愛らしい人なのかもしれない。
「今日は中華風で統一してみました!結構力作揃いなんですよ。冷めないうちに食べちゃいましょう?」
あらかじめ用意しておいた箸を手渡すと、結城さんは素直に頷いて座布団に腰を下ろした。
生活感に溢れた古い我が家はとても心地がいいけれど、彼には似合わない。しかし、空間から隔絶されたように存在だけ乖離している訳でもなく、ただほんの少しのぎこちなさと拭い切れない硬質さが良い具合に混じり合って、不釣り合いな空間に奇妙な温かさが生まれた。
この人も昔は誰かと食卓を囲んでいた時代があったのだろうか。だとすれば、普段どんなものを口にして、どんなものを見て笑っていたのだろう。友達は多かったのか、それとも一人が好きだったのか。住む世界が違うことは分かっているのに、箸を綺麗に揃えて当たり前のように手を合わせた結城さんの姿はやはりとても自然で、どうも生まれ落ちた世界まで異なっているようには思えない。心臓の奥底に根を張る温もりを抱えて生きる人間の孤独の匂いを、私は人一倍知っていた。
「それじゃあ、いただきます」
「……いただきます」
彩りにもこだわった料理を、大ぶりのスプーンでそれぞれの取り皿へ移してくだけの作業。それだけなのに、まるで映画の中の出来事のように眩しくて堪らない。誰かと箸でシュウマイをつつき合ったのなんて何年ぶりだろう。結城さんがいる時間は優しくて新鮮で鮮烈で、時折両親がまだ生きていた頃の思い出と重なる温度が紡がれていく。その度に胸を衝く戻らない日々の記憶の残り香に、この弱くて脆い心は何度も締め付けられてしまうけど、それでも手放す気にはなれないのだ。
「あんた、何か趣味とかあるのか?」
小気味よいペースで八宝菜を食していた結城さんが突然手を止めて、ポツリと独り言のように切り出した。あまりにも唐突な質問に、私は思わずパチリと目を見開いて首を傾げる。藪から棒にどうしたのだろう。戸惑いを込めて目の前の彼を見つめたま返事を探していると、彼は気まずそうに頭を掻いた。
「いや……特に意味はないんだ。ただ、俺はあんたのことを何も知らない。あんたも俺のことを何も聞かないでくれているだろう。その気遣いは正直本当にありがたいんだが、それでもお互いに名前以外何も分からないのは……何というか、少し淋しい……と思う」
バツが悪そうに告げられた意外な本音に思わず目を見開く。最初に弾けたのは純粋な驚愕だった。彼にとっての私はただ義理を果たすべき人間で、そこに彼の個人的な感情は干渉することなんてないと思っていた。
すっかり元通りに戻っていたはずの血流が再び加速して、顔がどんどん熱くなっていく感覚が甦る。頭を冷やす間もなく赤く染まっていく頬を反射的に両手で覆った。
「そんなことを聞かれるなんて、思ってもみませんでした」
「すまない。迷惑だったか?」
「いえ、とんでもないです!……ただ、嬉しくて」
だって、この人が私に興味を持ってくれるなんて。己惚れたくはないけれど、少なくとも彼も少しだけ、義務感以上のものを感じてくれていたのかもしれない。
天気雨のように優しい感情がさざ波のように押し寄せて、僅かに残っていた猜疑心や警戒心を洗い流されてしていく。温度差の乖離はあるだろうけど、一方的ではなかった。たったそれだけの事実が嬉しくて堪らない。
「趣味……そうですね、本を読むのは好きです。それと、体に負担が掛からない程度のドライブは良くやりますね」
昔から体が弱くて友達がほとんどいなかったから、私は本の世界に夢を見ながら育ってきた。激しい運動は出来なかったけれど、過保護ではなかった両親は、動けない私の運動不足を予防する為にわざわざ郊外、時には東北の方まで連れて行ってくれた。山の端に沈んでいく太陽、藍色の天に幾粒も煌めく星屑。凛と狂い咲いて、闇を裂くように絶え間なく散っていく夜桜。両親が連れ出してくれた自然の中で、物語の中でしか見たこともなかった美しさの欠片が、思いの外身近にあることを知った。それからは道端の花の匂いや月光の感触の変化から四季の移ろいを見つけ出すことが楽しくなって、大人になった今では仕事の合間に外に出てふらふらと車を走らせることが趣味になった。
「どうせ、長くない人生ですから。折角なら、出来る限り沢山の風景を目に焼き付けてから死にたいんです。結城さんを見つけた日は丁度新月の夜だったじゃないですか。月も星もない夜の海はヘドロみたいに暗いんですけど、水面は人工的な光を反射して鈍く光るんです。そのおどろおどろしくて不思議な雰囲気が好きで、あの日も海を眺める為に港を巡っている道中であなたを見つけたんですよ」
「そうか。あんたも災難だったな。巻き込んですまなかった」
「わっ、ちょっと!災難な訳ないじゃないですか」
下げられた頭が申し訳なくて慌てて止めると、結城さんは面食らったようにパチリと瞬きを一つ落とす。やけに幼い仕草に僅かに疼く感情を抑えながら、私は無言で大皿からシュウマイを五つほど彼の取り皿に乗せてあげた。
好奇心と欲望に振り回された果てに、本来なら絶対に関わらない方が幸せな世界を垣間見た。でも、それは私にとって決して不運な出来事ではなかった。どうせ私は、そう遠くないうちに命を落とす。関わっても関わらなくても、リミットは大して変わらない。変える気もないのだ。だからせめて、この人との出会いを災難とは呼びたくなかった。
「改めて口に出すのは少し恥ずかしいんですけど……結城さんが目を覚ましてくれた時、心の底から嬉しかったんです。あんな場所で倒れていた理由とか、あの倉庫で何があったのかどうかとか……気にならないと言えば嘘になります。それでも、あんなに血塗れになってもあなたは生きていてくれた。その事実だけで私はもう満足なんですよ」
温もりが恋しい。誰かと一緒にご飯を食べたい。一度だけで良いから、誰かの拠り所になりたかった。どうしようもなく込み上げてくる下心を包み隠しながら告げた言葉は、それでも決して紛い物ではない一つの本心だった。
「結城さんのお仕事について詮索する気はありません。でもあなたみたいな立場の方が、こんな部外者の女の家にいつまでも通える訳じゃないことも何となく理解しています。ならせめて、こうやって会える間くらいはここで羽を休めて欲しいと思ってるんです」
永遠じゃなくて構わないから、あなたの宿り木になりたい。
例えそれが独り善がりな偽善に過ぎないとしても、冷たくて鋭くて優しいこの人が少しでも安らげるのなら、どんな手間も苦労も惜しくはないと思えた。
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