昼と夜 三
懐から鳴り響く無機質でけたたましい音声に、彼の表情筋は動かない代わりに異様な硬質さを孕み出す。途端に噴出した緊張感が陽炎のような覇気の片鱗を呼び覚まし、全身にうっすらと鳥肌が広がっていくのを感じた。
電話の主が誰かどうかなんて見当もつかないが、私が触れて良い領域ではないことは分かる。
ならば、私がこの空間にいる訳にはいかないだろう。
「お電話ですか?なら、私は少し外しますね」
「悪いな、そうしてくれると助かる」
話の内容でも相手の情報でも、僅かな断片すら私の耳に入れてはいけない。意思表示として両耳を手で覆い、出来る限りの音を遮断しながら室内を移動する。扉越しに見えた結城さんの横顔には、氷の刃のように研ぎ澄まされた強さと凄味が滲んでいた。張り詰めた表情と空を睨む重苦しい視線を垣間見て初めて、今まで無表情とばかり思っていた彼の表情が努めて穏やかに保ち続けてくれていたものであることに気が付いた。
廊下の壁に重苦しい身体を預けて、長い溜め息を吐き出す。
今この瞬間、違う世界で生きる彼が同じ空気を吸っている。私がそう望んだから、彼は境界線を踏み越えてまで会いに来てくれたのだ。本来なら交わるべきではないことも、あの夥しい量の血痕のほとんどが、本当は彼自身のものではないことも分かっている。法治国家の保護下で生きる人間として、本来は然るべき場所に彼を突き出すべきなんだろう。それでも彼を助けたくて、常識もルールも無視して独断で動いたのは、誰が何と言おうと私のエゴだ。ならせめて、助けた後にささやかな謝礼でも受け取って、それきり関わらないのが次善の選択だった。でも、それでも温もりが欲しくて、一緒にご飯を食べてくれる存在が恋しくて、どうしようもなく縋りたくなってしまったのだ。
だって、もう私の傍には誰もいないのだから。
私には家族がいない。もう何年も前にこの世を去ってしまった。生まれつき心臓に病を抱えていて、おまけに虚弱体質だった私には友人なんてほとんどいない。近所の人達や常連さん達はとても優しいけれど、彼らには彼らの人生がある。壁を取り払うことなんて出来なかった。
狭い穴倉の中で、悲しみを噛み砕きながら息が出来たなら、どんなに楽だっただろうか。
ハンデを引き摺りながらたった一人で生きるには、この世界は余りにも広過ぎた。
結城さんを助けたのは、目の前で零れ落ちる命を見過ごすことを本能が拒絶したからだ。両親が死んだ時、私はその場に居合わせることが出来なかった。忘れたかったトラウマは、私の一番脆いところに未だに深く根を張り巡らせている。だから、私は自分自身の心を守る為に彼を助けただけだ。もしあの時彼が目の前に現れなければ、ニュースか何かで結城という男の死を知ったところできっと何も感じなかった。
恩人と呼ばれる資格なんてどこにもないのだ。
所詮、善人には成り切れない。
でも何故だろう。あの人の前では、『善い人』で在りたいと思ってしまった。
あと何回、彼と食卓を囲めるのだろうか。人一倍律儀な性質なんだろうから、しばらくは通ってくれるんだろう。彼が私を切り捨てるまで、その間だけで構わない。過酷な世界を生きる彼が僅かにでも安心して休める、そんな都合のいい宿り木で構わないから、誰かの隣でもう一度心から笑ってみたかった。
思考の波間に揺られる私を、不意に開け放たれたドアの乾いた音が現実に引き戻す。顔を上げると、リビングから漏れる明かりを背に結城さんが立っていた。
「荒木さん、申し訳ないが今日はもう帰らせて貰う。仕事が入った」
必要事項だけを簡潔に述べた結城さんの声音は至って穏やかで、凍てつくような覇気は欠片も感じられない。しかしその口調はどこか頑なで、否とは言わせない静かな気迫がほんの少しだけ込められていた。
「分かりました。クッキーは次回までお預けにしましょうか」
「いや、気にせずに食べてしまってくれ。また何か買ってくる」
「そんな、申し訳ないですよ!」
「どうせ現金は受け取ってくれないんだろ、あんた」
この人は思っていたより説得が上手なのかもしれない。私がちょろいだけかもしれないが、結城さんの凪いだ瞳に正面から見つめられると、何だか変に胸がざわざわして上手く言い返せなくなってしまうのだ。
「次はいつ来られそうですか?無理にとは言いませんが、大まかにでも教えて頂けると色々と用意出来るので……」
断られる前提で頼んでみると、結城さんは不意を衝かれたように瞳を瞬かせ、次いで考え込むように眉間に皺を寄せた。
「……確かに。気が利かなくて悪い。確約は出来ないが、仕事が長引かなければ五日後……金曜の夜に顔を出せると思う」
「ありがとうございます。じゃあこれ、私の番号です」
め用意しておいたメモ用紙を、にっこりと貼り付けた笑顔と一緒に突き付ける。正直、互いの立場を考えれば結城さんの連絡先を聞くのはあまり良くないのだと思う。それでも、私が教える分にはそこまで問題はないはずだ。公衆電話から掛けてくれれば足も付かない。一方的とは言え、連絡手段があった方が彼の方も楽だろう。
私にしては、なかなかに気が利いた対応かもしれない。少しだけ得意げに結城さんの顔を覗き込むと、彼はどこか呆れたように肩を竦めていた。
「あんたなぁ……。若い女が野郎相手に簡単に連絡先を教えるな。無防備にも程があるだろう。特に俺は得体が知れないのに」
「確かに……ふふっ」
「おい、笑い事じゃないだろう。東京の治安なんて魔境だぞ」
あなたがそれを言うのか。結城さんの発言はどこまでもまともで間違いなく正しいのだが、相手が相手だけに可笑しくて仕方がない。発作のように込み上げてくる笑いに呆れを募らせながらも、私が咳き込みそうになる度に背を擦ってくれる結城さんはやはりとても優しくて、ガラスよりも脆い温もりだと分かっていても心が満たされてしまう。
私を見つめる夜色の瞳は相変わらず底の見えない暗闇を湛えていたけれど、端の方にはどこか透明で清らかな光が宿っているような気がした。
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