昼と夜 二
とっぷりと暮れた夜空の下、トランクから取り出したビニール袋を引き摺るようにぶら下げる。後部座席を見れば血痕を連想させる赤茶色のシミが幾つか目に付くが、わざわざクリーニングに出すのも面倒なので放置することにした。どうせ他人を乗せる予定も見込みもない。
スーパーの駐車場から自宅までは大体五分ほど。歩いた方が便利な距離ではあるけれど、結城さんがいつ訪問しても対応出来るように食材は多めに買い込んでおきたかったのだ。最も明らかに世間の常識とは隔絶した世界に身を置いているような彼が、まさか直ぐに来てくれるとは思えない。そもそもわざわざ訪問する気なんてないかもしれない。それでも淡い期待を抱きながら献立を考える時間が思いの外楽しくて、ついつい余分なものまで色々と買い揃えてしまった。よろめきながらも、何とか両手に大量の食材を抱えて店の軒先を通り抜け、裏手に回る。外に張り出した階段の急こう配に溜め息を吐きながら、何とか一歩を踏み出そうとした、その時。
「重いだろ。上まで持つ」
低く掠れた穏やかな声が耳に入り込むと同時に、両腕に掛かっていた重みが跡形もなく掻き消える。驚いて右隣に目を向ければ、夜に溶け込むような長身の男が狭い階段のすぐ横に佇んでいた。
「結城さん……本当に来てくれたんですね……」
「いや、あんたが言い出したことだろう」
「それはそうなんですけど……」
思わず間抜け顔を晒した私に、結城さんは素っ気なく肩を竦めた。街灯に照らされてもどこか消えない影を纏った表情に、素人目でも隙が見当たらない立ち姿。暑いのにまくられていないシャツもスラックスもシンプルなデザインではあるが、仕立ての良さは隠し切れていない。明らかに凡人ではない彼が、長ネギの刺さった袋を両手に抱えているのが何だかミスマッチで、思わずその仏頂面を凝視してしまう。
「そんなに見られると居心地が悪いんだが」
「あっ、ごめんなさい!」
慌てて目を逸らした私を何やら新鮮そうに見つめると、結城さんはそのままさっさと階段を上がって行ってしまった。袋の重みなんて存在しないかのように軽々と歩みを進める大きな背中が、彼が今まで歩んできた道を象徴しているように感じられる。誰かの背中を追いながらこの階段を上がるのは何年振りだろう。
「今開けますね。荷物、持って下さってありがとうございました」
「大したことない」
ガチャリと独特な音を立てて鍵穴を回すと、結城さんは当たり前のようにドアを開けてくれる。軽く頭を下げてからリビングに通して、料理が出来るまでゆっくり待っていて欲しいと伝えると、彼は少し拍子抜けしたようなおかしな表情を浮かべた。どうやら手伝うつもりでいてくれたらしい。しかし彼はあくまでもお客さんで、強引に取り付けた約束を律儀に守ってくれた優しい人だ。だから丁重に断ると、結城さんは渋々引き下がってくれた。その代わりに手渡された紙袋を受け取ると、ガサガサと中身が擦れる独特の音がした。しっかりとした造りの包装にロゴが鮮やかに印刷されたそれは、いつかテレビか何かで見たような有名な店のものであることが一目で分かる。
「ちょっとした手土産だ。大したものではないが、良ければ受け取ってくれ」
そう言われてしまってはとても断れない。素直にお礼を返せば、渋みを帯びた端正な顔が僅かに綻んだ。
家族三人の団欒の場だったリビングも、今となっては一人きりの寒々しい空間でしかない。でも、今夜はもう一人分の息遣いと温もりが加わる。かつて父の定位置だったアイボリーのソファーに凭れる濡れ羽色が視界に入る度に、ぽっかりと空いた心が灯のように瞬いた。
あの人のことを、もっと知りたいと思う。
表情が少なくて、雰囲気も口調も私の感覚からすればかなり独特な、風変わりなひと。でも言動自体は穏やかで、義理堅くて律儀だ。それでも、軽々しく関わってはいけない世界に身を置いていることくらいは鈍い私にも分かる。彼の素性や正体を探るつもりは全くないが、彼自身のことはどうしても知りたいと思ってしまう。脳内で鳴り響く警鐘を振り払ってでも踏み込みたくなるくらい、結城さんは摩訶不思議な魅力に溢れた人に見えた。
「結城さん、何か食べたいものとかありますか?色々と買い込んで来たんで定番のものなら大体作れると思いますよ。」
キッチンのカウンター越しに声を掛けると、結城さんは不意を衝かれたように一拍ほど目を見開いた。聞かれるとは思っていなかったのか、それとも私が望むような答えを持ち合わせていなかったのか。そういえば、手作りの料理を食べるのは久しぶりだと言っていた。
「すまない、思い浮かばないな……。普段碌なものを食べていないんだ。好き嫌いは特になかったはずなんだが」
「そうですか……なら、今回は和食にしてみましょうか」
素朴で温かくて、胃にも優しい料理を。まあ結城さんの胃腸が弱いとはあまり思えないが、彼は病み上がりだ。その上普段ちゃんとした食事を摂らないそうだから、油物や肉類は避けた方が無難だと思った。
一口に和食と言ってもその種類は多岐に渡る。事前に連絡を入れてくれれば時間をかけて凝ったものも作れるのだけれど、やはりそういう訳にはいかないのだろうか。とりあえず、今回もリゾットのように一品で完結するものを主役に据えて作ろう。あとは脇を飾るおかずをいくつか添えれば立派な献立だ。
前が米料理だったから、今度は麺がいい。となると、買ってきた油揚げを使ってきつねうどんでも作ってみようか。
まずは油揚げを四等分に切り分け、熱湯を掛けて湯抜きを行う。それから鍋に鰹のだし汁を注ぎ入れ、更にみりん、砂糖、醬油、そして湯抜きした油揚げを加える。きつね色の小さなお揚げがプカプカ浮いた飴色の煮汁をひと煮立ちさせれば、途端に仄かな香ばしさを帯びた懐かしい匂いが漂い出した。同時にほうれん草を小鍋で茹で、しんなりしてきたところを一口大に切る。ついでに薬味と飾りを兼ねたネギも小口切りにして小皿に開けておいた。
トッピングが完成したら、次はいよいようどんとつゆに取り掛かる。鍋やら包丁やらの後始末を軽く済ませて、今度は大きめの鍋にだし汁、醤油、みりん、塩を合わせひと煮立ち。恐らくかなりの健啖家であろう彼の為にかなり多めに用意した。三玉ほど茹でてステンレスのざるに投げ込み、水気をきる。最後に熱々のつゆに艶のある麺、煮汁がよく染み込んだ油揚げを大小二つの丼に盛り付け、ほうれん草とネギを添えれば完成。
小皿に盛った作り置きのきんぴらごぼうときゅうりの浅漬け、ほうれん草のお浸しを隣に控えさせて、ほかほかと湯気を立てるきつねうどんをお盆に並べる。食欲をそそる和だしの香りに、鮮やかさを残しながらも素朴で温かみに溢れた色彩。手早く作れる家庭料理としては、恐らく問題のない出来に仕上がっている。
「結城さん、出来ましたよ。今持っていきますね。」
何故動けるのかが不思議で堪らないけれど、それでもあんな大怪我を負ってからまだ二四時間も経っていない。安静にして貰った方がいいだろう。そう思ってソファーの上で所在なさげに虚空を見つめていた結城さんに声を掛けると、彼は当然のように腰を浮かせて立ち上がった。そのまま目にも止まらない素早さで台所に侵入し、二人分の丼やら皿やらが乗った重たいお盆を奪い去っていく。
「座ってばかりいるのは性に合わないんだ」
あまりの早業に反応出来なかった私を置いて、さっさと食卓のセッティングまで終えてしまった客人は、眉一つ動かさずにしれっとのたまった。二人分の汁物と小鉢となるとそれなりの重さがあるので気遣いはとてもありがたいのだが、何だか謎の敗北感に襲われる。
「別に、気にしなくていいのに」
「俺が気になるんだ。あんた、体弱いんだろう?」
何でもないことのように言ってのけた結城さんの表情は相変わらず凪いでいる。本人としては、特に特別なことをしたつもりはないのだろう。それでも、彼の繊細な気遣いは確かに私の心の奥底を優しく包み込んだ。時計の針のように無機質だった心音がどこか温かみを帯びていくようなこの感覚も、きっと気のせいではない。
私の家の食卓は昔ながらの座卓なので、私と結城さんは必然的に向かい合って座布団に腰を据える格好になる。長身で姿勢も美しい彼は座高も高く、座っても埋まらない慎重さが何だか新鮮で自然と笑みが零れてしまった。
「それじゃあ、いただきます」
「……ああ、いただきます」
碌なものを食べていないと言っていたわりに、手を合わせて頭を下げる一連の動作は酷く自然体に見えた。私が先に一口うどんをすすって見せると、結城さんはまた安心したように黙々と食べ始める。大食いと呼ぶには遅いペースだが、一定のリズムを乱すことなく確実に量を減らしていく食べっぷりは、何となく音楽室のメトロノームを彷彿とさせた。リゾット同様恐ろしい速さで消えていくうどんと、眉根一つ動かさずに手を動かし続ける美丈夫。何とも言えない光景を眺めていると、ものの五分も経たないうちに黄金色のつゆまで綺麗さっぱり器から消え失せ、ついでにきんぴらごぼうを始めとしたおかず達も残らず行方を眩ませていた。指先で雑に口元を拭った結城さんの唇は分かりやすく綻んでいる。感情の機微が読み取りにくい人には違いがないのだろうけど、空になった皿と共に零れ落ちるように垣間見えた笑みが、何だか無性に愛おしく思えた。
結城さんよりやや遅れて私もうどんをすすり終え、最後に残った漬物を口に運ぶ。更に錠剤を幾つか水と一緒に口に放り込んだ。
空になった二対の食器を前にして、結城さんは切れ長の瞳を満足そうに細める。昨夜の惨状からは想像も出来ないくらい彼は紳士的で、表情も多くはないが端々に現れる感情の片鱗が彼の凛々しく恐ろしい顔立ちと雰囲気を和らげていた。
「やっぱりあんたの料理は美味いな。……なんでだろうな、えらく懐かしい味がする」
「お口に合って良かったです!やっぱり食べてくれる人がいると嬉しいですね。そうだ、折角ですから、結城さんが持ってきて下さったお菓子も一緒に食べませんか?」
まだ開封はしていないが、自然素材の身を使用していることで有名なクッキーだった。わざわざ持ってきてくれた美味しいものならば二人で食べたい。無言で首肯してくれた結城さんに甘えてやけに厳重に閉じられた紙袋を取り出し、やや浮かれながら開けようとしたその時。
不意に、耳障りなアラームが空間を震わせた。
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