昼と夜 一

 午前八時。二階の自宅を出て外階段を降り、表に面した店へ向かう。頬を撫でる風は早朝の涼やかさの中に微熱と爽快感を孕んでいて、夏の足音がすぐそこまで迫っていることを実感した。心なしか高くなった空は抜けるような快晴で、眩しいほどに天を埋め尽くす青の群れがこの街を優しく見守っている。あの向こうに両親もいるんだろうか。ぼんやりと吐き出した吐息は、生温い空気の中に霧散して消えていった。憂鬱を仕事場に持ち込むのは禁物。寝不足なのは否めないが、仕事に差し障りはないだろう。接客業は笑顔が鉄則だと教えてくれたのは母だった。両頬を叩いて気合を入れれば、寝起きで硬直した表情筋が少しだけ緩んだ。

大通りに面した店構えは、両親が健在だった頃から変わっていない。煤けてはいるがきちんと手入れを続けている看板には、流麗な毛筆で描かれた『翠花庵』の太文字が躍っている。

眠い目を擦りつつ、カウンターの端に立掛けられた箒を手に取った。食品を扱う店であるからには、清潔感は大事だ。一夜の間に薄く積った埃を注意深く掃き清めていけば、すぐに重厚な木目が顔を出す。年月を経ても衰えない鏡面のような照りは、何となく未だに両親が近くで見守っていてくれているような温かみを感じさせる飴色をしていた。

掃除が終われば、次は商品を並べていく作業に移る。うちで主に取り扱っているのは日本茶が多い。煎茶に抹茶、ほうじ茶、かぶり茶、番茶に玉露など、一般的には緑茶と総称される伝統的なものを多数取り揃える方針は先代の頃から変わらず引き継いでいる。それに加えて、私が経営を担うようになってからは、若い人向けに紅茶や和紅茶、各種ハーブティーなどのお洒落なラインナップも増やした。それなりの数のお茶菓子も置いている。個人経営の小さな店としてはそれなりの品揃えではあると思っている。

大まかな清掃と品出しの後は、暇を紛らわせるように窓ガラスを磨くのがいつものルーティンだ。都会の片隅の小さなお茶屋なんかを訪れる客はそう多くはないが、長年贔屓にして下さっている茶道の先生や、紅茶好きな近所の女性など、常連さん達のお陰で経営は成り立っている。

窓ガラスを一枚ずつ丁寧に拭い、道行く人に挨拶を返しながら土埃を掃き出していれば、時間が経つのはあっという間だ。

午前九時。開店の時間だ。

店を開けても、月曜日の朝方は人通りが少ない為しばらくは待ちぼうけだ。カウンターで本を片手に外を伺うこの時間が、私は少しだけお気に入りだった。

のんびりとページをめくり、待ちわびること三〇分。カランカランと軽快な鈴の音と共に、ガラスの扉から馴染みの老婦人が現れた。

「いらっしゃいませ!相沢さん、お久しぶりです」

「志帆ちゃん、おはよう。今日は元気そうで良かったわ」

 おっよりと微笑んでくれた相沢さんは、両親の代からこの店を贔屓にしてくださっている大のお得意様だ。薄色の紬で織られた着物がよく似合う彼女は、ご自宅や近所の児童館などで幅広い年齢の方を相手に茶道教室を営んでいるそうで、そこで使う和菓子や抹茶を定期的に買い入れに来て下さる。

「お抹茶はどれになさいますか?」

「いつもと同じ祥碧を。あとはお干菓子を幾つか見立ててくれると嬉しいわ。」

「かしこまりました」

 祥碧という銘柄はクセが少なくて飲みやすく、それでいて奥行きのある味わいが特徴の抹茶だ。価格帯も手頃なのでお稽古用や自宅用として親しまれている。相沢さんの教室では主にこの銘柄を使用しているのだが、お菓子は毎回私がおすすめしたものを購入して下さる。勿論私よりも相沢さんの方がずっと深い造詣をお持ちではあるけれど、それでも任せて下さるのが嬉しくて誇らしくて、継いだばかりの頃は必死に和菓子の勉強をしていた時期もあったくらいだ。

「この時期でしたら、お干菓子は琥珀糖が映えると思います。紫陽花は前回ご購入頂きましたし、蛍なんて如何ですか?それかもうすぐ七夕ですから、星合いで揃えるのも素敵だと思います」

 色彩豊かな糸巻を模した打物に天色の琥珀糖を添える星合いは、天の川を背景に鮮やかに照らされる七夕飾りを連想させる幻想的な組み合わせの菓子だ。カラフルな砂糖菓子である打物は子供達が喜びそうだし、宝石のように美しい琥珀糖は一際目を引く。見た目も重要な和菓子の中でも特に愛らしくて華やかなのが干菓子。特に夏の菓は目にも涼やかなものが多いため、凛とした色彩は濃緑のお抹茶に映えるだろう。

「相変わらず趣味がいいわね。ではそれを一式下さいな」

 上品な双眸を柔らかく和ませた相沢さんは、今回も私の選んだお菓子を全て購入して下さった。コツコツと軽快に草履を鳴らしながらぐるりと店内を回った後、老婦人は流れるように会計を済ませ、優雅に会釈を交わして戸口を跨いだ。

「ありがとうございました!」

「いいえ。そろそろ夏ですから、体に気を付けてね」

 ひらひらと振られた袖が風に翻り、頭上の風鈴が小さく鳴り響いた。


 その後もぽつぽつと客足が増えていき、正午を回る頃には小さな店内がかなり窮屈に感じられる程度に混雑していた。

「すみません、煎茶のコーナーってどれですか?」

「こちらになります。新茶の季節ですから、今は特に色々と揃ってますよ。ぜひゆっくりとご覧下さい。」

「店主さーん、お会計お願いします。」

「失礼しました!では、四点で二五〇〇円になります。ありがとうございました」

「志帆さん、少しいいですか?」

「ごめんなさい、少々お待ち下さい!……お待たせしました、どうされましたか?」

「最近食欲があまりなくて……。おすすめのお茶を教えて欲しいんです」

「それでしたら、ペパーミントやレモンバームなんかのハーブティーは如何ですか?口当たりも爽やかで飲みやすいと思いますよ」

 次々と呼ばれる名前。小さな店だけど、会計に相談にと忙しなく動き回っていれば、カウンターに腰を落ち着ける時間はない。

 昼下がりの時間帯になってくると人の出入りも落ち着いてくる。爽やかさを伴った長閑な午後の光を浴びながらカウンターで待機する時間も少しずつ増えてきた。まだまだ一息つくには早い時間ではあるものの、多少でもゆっくりと息を整える時間が出来るのはありがたい。流石に店の中で倒れることはないと思いたいけれど、静かな爆弾を抱えた身体は人よりも体力の枯渇がずっと早い。夕暮れ時になるとまた出入りが激しくなる。ハンデを抱える身としては、この時期の営業は軽く命を削られるような心地を覚えることも多かった。

「ありがとうございました!またのお越しをお待ちしております」

 夏本番までに、少しでも体力を付けておこうか。滲む汗と震え出しそうな全身を抑え付けながら笑顔で最後のお客様の背中に向けて頭を下げた頃には、西の空に宵の紺碧がひっそりと顔を出していた。

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