邂逅 五

「本当に世話になった。俺としては正直腑に落ちないが……あんたが言うのなら、出来る限り顔を出させて貰う」

「私が満足するからいいんです。お大事にしてくださいね」

 微笑む女にぎこちなく手を振り、結城は古い木造の一軒家を後にした。

 夜明けはまだ遠く、濃過ぎる闇が辺りを満たしている。しかし、結城にとってはむしろ心地がよかった。星さえ見えない都会の闇こそが結城の生きる世界だ。

脳裏に浮かぶ女の笑顔がチラリと浮かんでパッと薄れていく。昼に生きる人間の残り香が、自らが纏う血と夜の匂いに黒く塗り潰されて跡形もなく消えた。

 奇妙な女だと思った。どこからどう見ても普通の女にしか見えないのに、どう見ても堅気ではない結城を救い、あまつさえ自宅に連れ込んだ。明らかに理性的な人間の行動ではない。しかし処置は不慣れながらも適切で、状況もよく見えている。向こう見ずなわけではなく、冷静に考えた上で道を踏み外したのだ。おまけにあの度胸。

 幾度となく命の散り際に立ってきた結城にはその正体が見えていた。

 あの女は、恐らく死というものを微塵も恐れていない。或いは、余りにも自身の生存に関して無頓着なのだろう。それは、結城にとっては酷く馴染みのある感覚だった。

荒木志帆とは一体何者なのだろうか。一般人にしては異質すぎる。結城と交わることのない人種であることに変わりはないが、どこか自分と同じ種類の孤独を抱えているように思えたのもまた事実だった。

 どちらにせよ、あの女とは縁が出来てしまった。これから通ううちに何か分かるだろう。痛みと痺れの残る右肩を抑え、手近な拠点を目指して歩を進めたその時。

 静かに爆ぜた殺気が結城の背後を駆け抜け、晒された首筋に蛇のような腕が絡み付いた。

 蒸し暑さを残した空気の中にぼんやりと滲む陽炎が静かに揺れ、いっそ無駄に思えるほど研ぎ澄まされた白刃が鋭く煌めく。しかし当の結城は心得たようにするりと躱し、涼しい顔で突き付けられたナイフを叩き落とした。仰々しい音を立て、細長い銀色の塊がアスファルトの上に転がり落ちる。何もかもを寄せ付けない凪いだ瞳は欠片の動揺すら宿していない。

「今は勘弁して下さいよ、ロンさん。傷が開きます」

「そんなタマじゃあないだろう。掠り傷と大して変わらん」

「銃創ですよ」

「今さら何を言っている」

 奪われた得物を拾わんと、黒々とした長髪を靡かせながら一人の男が暗がりから姿を現した。糸のように細長く吊り上がった眼に、鉄面皮のような笑み。黒いシャツから伸びる両腕は酷く瘦せていて、どう見ても戦闘に長けているようには思えない。しかし結城からすればこの男ほど危険で厄介な人種はそういない。無表情の中に僅かな呆れを滲ませ、結城は悪趣味が過ぎる襲撃者に苦言を呈した。大抵の人間が震えながら黙りこくる結城の眼力を正面から難なく受け止め、ロンと呼ばれた男はニヤリと口元を愉しげに歪めた。  

「連絡が途絶えたからわざわざ出向いてみれば……呑気に散歩か?いい身分だな」

「誤解です」

 通信機は倉庫で粉々に砕けた。ロンは知っていて絡みに来ただけだ。面倒なことこの上ないが、直属の上司を邪険にも出来ない。結城は溜め息を吐いた。

「で、負傷の程度は?」

「右肩を撃たれました。後は大したことありません」

「珍しいこともあるものだな」

 肩を竦める結城に、ロンは糸目を僅かに開いた。この男が軽傷以上の怪我を手土産に帰還することは滅多にない。最後に持ち帰った銃創は三年前のものだ。

「相手は何人だった。負傷時の状況は?」

「敵方は一五程度だったかと。乱戦中でしたので詳細な状況は定かではありませんが、部下を離脱させた直後に背後から撃たれました」

「取引自体の人員は双方五人程度だったか。何故伏兵に気付かなかった?」

「俺が入室した時点で戦闘が始まりましたので、隠れ場所については何とも言えません。ですが、潜伏しているとしても敵に背を向けるほど衰えているつもりはありません」

「だろうな」

 一対多の戦闘において、結城の右に出る者はいない。生まれつき化け物染みたタフネスや天賦のセンスの持ち主であるという点も大きいが、何よりの武器は冷静さである。窮地に陥ろうが死の淵に立とうが、瞬時の判断を誤ることは決してない。そんな男が戦闘中に油断して背後から撃たれるとは考えにくい。

 となると、考えられる選択肢はおのずと絞られてくる。

「身内の裏切りだな」

「同意見です」

 首肯した結城にロンは肩を竦める。打てば響くと言えば聞こえは良いが、こうも容易く分析が一致するようでは面白みがない。結城がロンの腹心となってから早七年、どれだけ経験値を積んでもこういう朴念仁な点はちっとも変わらないらしい。

「お前のような化け物が肩を撃たれた程度で意識を飛ばすとも思えん。薬でも仕込んだんだろう」

「通信機の破壊も意図的でしょう」

「やれやれ、定期的に愚か者が現れる。こっちの身にもなって欲しいものだ」

 不届き者の行く末は山奥か、将又マグロの腹の中か。いずれにせよ、碌な死に方ではないことだけは確かだった。裏に生きる人間の宿命のようなものだ。

「まあ不穏分子を一掃するいい機会だ。結城、お前は鼠を炙り出せ。首謀者は私が片付ける」

「了解しました」

 一礼すると糸目の男は煙のように掻き消えた。残像も足音も残さず、蜃気楼の如くフッと姿が見えなくなると、結城は今度こそ足早にその場を離れた。

 今日は何とか生き残れた。しかし明日も息をしているか、誰も断言出来ないのがこの世界だ。

 結城もロンも、いつ惨たらしく死んでもおかしくない。その日その日の命を繋ぐ為に他人の命を削り取る。救いようもない生き方を改める術も知らず、救われる気もない自分達のような人間の行く末は地獄だろう。選び取ったのは自分自身だ。だからもう、結城は死ぬまで殺して生きていくしかない。

 恩人であるあの女の望みを違える気はない。恐らく聡い彼女が口を滑らせるとは考えにくいが、しばらくは警戒する必要がある。だから当分は思い通りに動いてやればいい。義理を果たす為に彼女が満足する程度に通ってやり、頃合いを見計らって後腐れなく縁を切れる。本来は関わらない方がお互い幸せだ。

 一人殺すたびに弾ける希死念慮も、知り合って間もない非力な女との口約束を邪険にしない義理堅さも、結城が未だに獣に成り切れない証拠だった。人のまま人を殺すことに長けてしまった男は、独り静かに冷たい闇の中を進んだ。


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八咫烏と蛍草 綺月 遥 @Harukatukiyo24

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