昼と夜 四
東京都港区、六本木。地価が極端に高い東京都二十三区、天を衝く摩天楼の群れと緻密な計算のもとに建設されたモダンな低層建築が共存する洗練された街並みは、宵時を過ぎた頃から宝石箱のようにギラギラと煌めき出す。ダイヤモンドよりも眩しい光を放つ地上とは対照的に、夏らしい群青で塗り潰された夜天には星の一つすら見当たらない。ぽっかりと空いた惣闇の真ん中で、糸のように細い繊月が消え入りそうな微かな輝きを以てひっそりと下界を照らしていた。
人も車もひっきりなしに行き交っては消えていく往来の真ん中。人波を掻き分けるように走るセダンに揺られながら、結城はぼんやりと車窓を眺めていた。
この車が本拠地に到着すれば、結城は少なくとも五日間は缶詰で忙殺されることになる。どこかで仮眠を挟めればいいのだが、それも全てはロンの采配次第なので望みは薄い。
通常業務と並行して裏切り者の捜索を行わなければならない。一口に通常業務と言っても内容は様々だ。書類仕事の他、ロンの代理や随伴として銃火器の取引や管轄内の違法カジノの視察などに赴くことも多い。昨日の後始末や隠蔽の作業だってある。ただでさえ多岐に渡る職務に余計なおまけが付いてしまったせいで、これから当分仕事に追い立てられる生活が続くことになるだろう。昨夜の傷が癒えない状態での連日の徹夜は三十を目前にした身には酷く堪えるのだ。これから怒涛のように押し寄せる仕事の山を想像して天を仰いだ結城は、端正な顔に色濃く疲労を滲ませて盛大に溜め息を吐いた。いつもの仏頂面を崩してまで感情を剝き出しにする珍しい姿に、相乗りする部下が僅かに目を見開く。
「流石にお疲れですね。回り道するよう運転手に伝えますか?」
「……お前に気遣われる日が来るとはな」
派手な金髪を揺らし、労わるように顔を覗き込んできた部下に、結城はほんの僅かに口元を綻ばせて首肯する。彼は直属の部下たちの中でも特に付き合いが長い。長年行動を共にしている人間に驚かれるほど普段の自分は無表情だっただろうか。または十年前に断ち切ったはずのものに触れたせいだろうか。どちらにせよ、今この場にロンが居たならこれ幸いとばかりに絡まれたことだろう。
「仕事に支障はない。
「了解です。今のところ、国外の勢力は特に目立った動向はありません。密輸ルートも異常なし。しかしアケガラスの薬物部門の方で何件か取引が破綻したようです。それぞれ相手は異なりますが、恐らく首謀者は全て共通でしょうね。あちらには結城さんほどの武闘派なんていませんし、それなりに痛手だったみたいですよ」
「
アケガラスとは、結城らが所属する日本でも屈指の規模を誇る反社会的勢力である。日本に拠点を置いてはいるが、元は大陸から渡ってきたチャイニーズマフィアの流れを汲んでおり、主に中国黒社会や東南アジア諸国に武器や薬物の売買に関する巨大なパイプを保有している。治安大国として世界にその名を轟かせる日本に置いて、反社の生命線と言っても過言ではない銃火器や金のなる木である違法薬物を国外から容易く入手出来る独自ルートはどんな財宝よりも価値があるものだ。物資の横流しやルート自体の強奪を目論む他組織から間諜や裏切り者が送り込まれた数は、アケガラスに七年籍を置く結城が知る限り両の指では足りない。無論その多くは即座に看過されて惨たらしく始末されるが、ごく稀に今回のような事態が起きる。
「恐らく鼠は一匹ではありません。メインは薬物の方でしょうが、武器部門も無関係ではいられないでしょうね」
「現に襲撃に遭っているだろう。余程アケガラスの専売特許を奪いたいらしいな」
アケガラスの資金源は数多く存在するが、中でも抜きん出た収益を叩き出しており、こういった事案で真っ先に狙われるのが麻薬やドラックなどの違法薬物を扱う部門だ。また、アジアでも有数の規模を誇る銃火器の密輸ルートを手中に収める有力な武器商人であり、アケガラス最高幹部の肩書を持つロンが長を務める武器部門も裏社会で名を馳せている。薬物ほどの旨味はないにせよ、此方も鼠の温床に成り兼ねない。雇われの殺し屋上がりである結城が最高幹部の腹心という重要なポストに就いている理由はここにある。
「現時点での候補者はリストアップしている途中です。後ほど確認お願いします」
「分かった。裏切り者の件は情報が入り次第随時報告してくれ。
紀川組は昨夜結城が武器の取引を行う予定だった組織である。歌舞伎町を中心とした新宿エリアに古くから根付いた昔ながらの極道ではあるが、海外にルーツを持つ新興組織であるアケガラスとの関係も決して悪いものではなく、寧ろ数ある取引先の中でも特に信頼出来る相手のはずだった。昨夜もかなりの額が動く予定だったので気を引き締めて臨んだのだが、いざ取引場所に足を踏み入れた瞬間に血生臭い鉛玉の応酬が始まったのだからやるせない。
個人との取引ならば相手を始末すれば済む話なのだが、組織間の問題となるとそうはいかない。まず間違いなくこれから報復に赴く運びとなるだろう。
「あちらの上層部はあくまでも現場の暴走だと主張していますね。まあ信じる馬鹿は居ませんから早ければ七月の頭にでもやり合うんじゃないでしょうか。他の組織にも取引潰されてますし、武器の管理やらなんやらでしばらくは仕事が増えそうです」
「紀川組だけならどうにでもなるだろうが、やはり報復相手が複数なのがそれなりに厄介だな。根元を叩かない限りは永遠にいたちごっこが続くぞ。ロンさんが直々に動いてはいるが、それでも俺達の仕事が終わるのは当分先だろうな」
和泉はがっくりと肩を落とした。結城の仕事が増えれば和泉の仕事量も倍増する。今回のような事態は初めてではないのだが、和泉としてはもうこりごりなのだ。反社に所属してからというもの様々な汚れ仕事に手を染めてききたが、裏切り者の炙り出しほど厄介な仕事なんて存在しないと言い切れる。非常に有能ではあるがまだまだ若輩の域を出ない和泉は上司の目の前で頭を抱えて嘆き出した。
「ああもう仕事が多過ぎる‼オレもう限界なんですけど!なんで毎回毎回結城さんとオレが駆り出されるんすかぁ……」
「古参ほど信用出来る。ロンさんの直属で一番長く生き残ってるのは俺とお前なだけだ。」
「あの人の下で働いてると命が幾つあっても足りませんよ。ああもう嫌だ帰りたい……。もう三日も誰とも致してないなんて信じられます?」
「相変わらずだなお前……。ほどほどにしておけよ」
能力も人柄も申し分ない人材である和泉だが、その本性は強欲な快楽至上主義者である。プライベートでは男女問わず愛人だのセフレだのを何人も囲い込んでかなり奔放な生活を送っているらしい。まあ裏社会では別段珍しいことではないので好きにさせてはいるが、結城個人の感覚としては永遠に相容れられる気がしない生活様式と価値観であった。
「結城さんって長くこっち側に居るわりにはぶっ壊れてませんよね。クスリに溺れる訳でもないし、金にも執着してないし。殺しに快楽感じるタイプでもないんでしょう?おまけにセックスも興味ないなんて正気ですか?」
「色恋に興味がないんじゃない。お前みたいな付き合い方をする気がないだけだ」
心底理解出来ないとばかりに顔をしかめる和泉に無言で拳骨を落とすと、結城はまたスモーク越しに景色を眺め出した。
裏社会の最前線で長く生き残っている人間というのは、人として大切な倫理観やら防衛本能やらが何かしらの機能不全を起こしていることが多い。和泉のように色事に走るのはまだマシな部類だ。同僚の中にはドラックに依存している者も少なくないし、常軌を逸した金の亡者や快楽殺人鬼のような類いの人種は腐るほど存在する。薬物部門なんかマッドサイエンティストの巣窟だ。どこも故障していないように見えるロンでさえ、ここ数年は元来の加虐趣味に加えて重度の自傷癖を患っていた。
その点、結城は異質な存在であった。いっそ異常とも言えるかもしれない。
一八で初めて手を汚してから十年間、どれだけの修羅場を潜り抜けても結城は正常なままだった。どれほどの死臭を浴びても、膨大に積み上がった屍の上を歩くような道をどれだけ進み続けても、結城の心はかつて日の当たる世界で生きていたあの頃から何も変わらないままだった。いっそ狂ってしまえば楽だったろうに、いつまで経っても殺すことへの罪悪感と軋む悔恨が興奮に変わる日はやってこない。とは言え身体が殺人を拒絶してくれた訳でもない。天性のセンスを開花させた後は誰よりも効率的に他者の命を奪うことに長けた一方で、元々持ち合わせていたまともな価値観や人間らしい情も失われずに残り続けた。殺しを重ねながらも裏社会に染まり切らない異質な魂の強さこそが、結城がアケガラスの阿修羅として日本の裏社会にその名を馳せる所以である。
最も、結城自身はこの評価が正当だとは微塵も思っていない。人が人を塵のように扱い、時には屑籠に放り込むように命を奪う非道が当たり前のように横行するのが裏社会だ。日の当たる平和な世界で生きていた人間が十年もそんな環境に置かれれば、耐え切れずに狂っていくのが自然な流れだろう。結城が変わらなかったのは強かったからではない。ただ生まれつきどこかしらが歪んでいただけだ。何かの間違いで表に生まれてしまったというだけの獣の成り損ないにとっては、この闇夜の世界こそが本来在るべき居場所だったのだろう。
「結城さん、到着しました」
和泉の呼び掛けに黙って首肯を返し、結城は漏れ出しそうな溜め息を抑えながら居住まいを正した。運転手によって開け放たれたドアから一歩足を踏み出せば、結城は阿修羅の片鱗ともいえる静かな威圧を纏い出す。つい一時間前まで荒木に見せていた穏やかな表情は消え失せ、凪いだ瞳は刃のように剣呑な光を宿して瞬いた。
「覚悟を決めろ。当分外の空気は吸えないぞ。」
「珍しく嫌な言い方しますね。御免ですよ、とっとと終わらせて帰ります。」
「ああ、そうだな。一刻も早く見つけ出して始末する。」
自動ドアの前に二人を置いて駐車場へと走り去ったセダンには目もくれずに、結城は目の前に鎮座する巨大なビルに吸い込まれていく。その一歩後ろを追うように和泉が続いた。
表向きは外資系企業の本社として世間に認識されているアケガラスの本拠地は、華やかな都会のど真ん中に位置して尚静かな存在感を放つ洗練された佇まいを誇る高層建築だ。しかし目立ち過ぎることもなく街並みに溶け込み、詳細を知らぬ者の目には極力留めないように緻密に工夫の上に設計されていた。
ガラス張りの自動ドアを通過して中に入れば、黒を基調としたシックな内装のフロアを忙しなく行き交う男達の姿が視界に広がった。全員スーツに身を固めているものの、やけに目立つ頭の剃り込みや堂々と彫られた入れ墨が、普通のオフィスとはかけ離れた物々しい雰囲気を演出している。しかし結城の姿を視認すると厳つい風貌の男達は例外なく立ち止まり、腰から上半身を折り曲げて深く頭を下げた。
傍から見れば異様としか表現しようがない光景だ。しかし結城も和泉も別段動揺する素振りはなく、寧ろ男達に遜られることが当然であるかのように一瞥もせずに通り過ぎると、迷いのない足取りでフロアの奥へと歩みを進めていく。結城の地位からすれば当然の対応ではあるのだが、どうも今夜は胸の奥の方でどうしようもない居心地の悪さを覚えてしまう。久方ぶりに普通の感覚に触れた後遺症のようなものだろうか。
頭を下げられたら此方も下げ、労われたら礼を返す。かつての自分も当たり前のように持っていた感覚だった。舐められれば終わりの裏社会で生きる中で封をしておいたはずの表の常識が、彼女と接したことで呼び覚まされようとしているのだろうか。ジワジワと心臓に根を張り始めた温もりを追い出すように軽く頭を振る。本来出会うことのなかった存在に心を乱されるのは御免だ。空中を舞うように揺れて乱れた黒髪の隙間から、普段は隠れているうなじに彫り込まれた複雑な紋様がちらりと覗いた。
荒木に見せた優しさも普段よりは豊かに稼働していた表情筋も、何も全てが演技という訳ではない。しかし、それは荒木が人一倍か弱くて無力な女だったからこそ見せた素顔の欠片でしかないことも事実だ。日本でも有数の巨悪の上層部の末席に名を連ねる存在として、結城は常に有象無象に弱みを見せる訳にはいかない立場に在る。強く、冷静に、用心深く、時には必要以上に冷酷に。求められる振る舞いを今まで通り淡々とこなしていれば、この温度もいつか消えてくれるのだろうか。
遠くない未来、因果応報の果てに闇にへだつ時が訪れたとして。
果たして今の自分は、怪物らしく虚ろなままで逝けるのだろうか。
胸に飛来した無意味な疑問を掻き消すように、塵一つない床をまた一歩踏みしめる。今は幹部補佐としての義務に集中しなければならない。五日後の夜までに急増した仕事を全て片付けるなど至難の業だが、それでまたあの温もりと触れ合えるのならば安いものだ。
どうせいつかは切ることになる儚い縁だ。ならばせめて、今だけはあの風変わりで心優しい恩人の為に尽くしていたかった。
いくら本人が望んだ結果だとしても、彼女は間違いなくこんな世界に生きる自分と関わるべきではない。それでもせめて会えるうちは隣で笑っていて欲しいと思ってしまうのは、結城の肥大化した孤独とエゴの為せる身勝手な願望に過ぎないというのに。
首筋に彫り込まれた八咫烏の入れ墨が照明に照らされ、古傷の目立つ皮膚の上で妖しく揺らめく。決して消えない呪いのような紋様は、闇に溶け込んで生きる結城の存在証明であり、十年間血反吐を吐きながら歩んできた修羅道の象徴でもあった。
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