邂逅 一

「どういうことなの…?」 


 動揺に脳裏を揺さぶられながら絞り出した第一声。それは予想よりもずっと冷静な響きを伴って、あっという間に消えていった。無数のクエスチョンマークが凝縮された囁きが空気を震わせ、僅かに湿った夜の闇に溶けていく。上昇する心拍数が鈍い痛みを伴って全身に動揺を植え付け、一瞬の間に手足にまで震えが伝染していった。あまりの情報量に耐え切れなかった脳が勝手に現実逃避に走り出す。私は思わず天を仰いだ。


 拝啓、お父さんとお母さん。

 如何お過ごしでしょうか。 

 私は何とか無事に生きています。大変なことも辛いこともまだまだあるけど、二人がくれた沢山の愛情のおかげで平凡だけど幸せな日々を過ごしています。

 ですが、その平穏もここで終わりなのかもしれません。

 大好きなお父さん、尊敬してやまないお母さん、ごめんなさい。

あなた方の娘は今、全身血塗れでぶっ倒れている見知らぬ屍に遭遇してしまいました。


 主張の激しい原色の機体を無数のライトで照らし合いながらお行儀よく駆ける自動車の群れ。血管のように張り巡らされた首都高は今夜も中心部のビル群を目指して長い行列が形成されており、無数の人影や眼下で乱立する信号機の林も相まって傍から見たらまるで玩具箱のようだ。賑わう繁華街へ多くの人が集う中、私は反対方向に舵を切ってアーバンカーキの愛車を走らせる。日曜日ということもあってかなり交通量も多いが、夜も更けてきているこの時間に郊外に向かう人間は比較的少ないのはありがたい。仕事終わりのテンションが赴くまま、上機嫌に鼻歌を歌いながら、私は普段はあまり開けない運転席の窓を全開にした。

都会のネオンが少しずつ、ほんの少しずつ減っていくのが見える。行先は特に決めていない。別に決める必要もなかった。ただ、仕事終わりに心地よい夜風を堪能しながら、心の赴くままに何処かを目指すこの瞬間が好きだった。惜しくらむは、今日が新月の日であることくらいだろうか。初夏の風に揺られる雲間がぽっかりと空いていて、なんだか少し物寂しかった。

雑踏を見守るように並び立つビルに背を向け、人混みを避けるように都心から遠ざかっていくと、次第に辺りの闇も濃くなるのが見て取れた。インターチェンジを降りてから大体三〇分。都心の粗方は通り過ぎてしまった。だいぶ来ちゃったな、なんて独り言をこぼしつつも私はまだ満足出来ていない。それどころかもう行けるところまでいってしまおうか、なんて出来心が顔を出す。というのも、さっきから窓から入る風が潮の香りを帯び始めてきたのだ。つまり、もう少し進めば東京湾の方に出る。夜の海ほど心が躍るドライブも中々ない。胸の奥がうずうずと浮足立ってせっついてくる感覚には抗えない。

あと二時間もすれば日付が変わる。土日祝日が定休という訳でもなく、今日も明日も仕事がある身としては体力温存の為にもあまり長時間走り続ける訳にはいかない。でも、ここで引き返すのも何だか嫌だ。一度その気になったことは出来る限りやり遂げたい性分だった。どうせ今帰っても不完全燃焼だろうし、折角だから海を見て帰ろう。その場の勢いと期待に任せて、私はほんの少しだけ強くアクセルを踏み込んだ。

思えば、ここが運命の分かれ道だったのかもしれない。

港の灯りを受けてディープブルーの光を放つ海岸線と点在する巨大な倉庫がフロントガラスを占領するようになった頃、私はある一つの違和感を感じ取った。

「なんか変な匂いする……。」

 爽やかな潮風の中に何か異質なものが混じっている。何かが焦げる匂いに錆びた鉄のような匂い、大量の肉を腐らせたかのような刺激臭。少しだけ気になったが、とりあえずそのまま海岸線に沿って車を走らせる。そして他とは少し離れた位置にポツリと孤立するように建てられた、一際大きくて年季の入った倉庫の横を通り過ぎようとしたその時。

視界の隅に大きな赤い塊が入り込んできた。その周囲にも真っ赤な何かが飛び散り、錆鉄色のそれがどす黒いアスファルトにこびりついている。 

大型犬かなにかだろうか?車にでも轢かれたのか、相当な大怪我を負っているように見える。だとしたら放置しておく訳にもいかない。

手近な場所に車を止め、倉庫に駆け寄る。まずは生死を確認しないと。

しかし、それに近付くにつれて違和感を覚えた。まず随分大きい。大型犬にしてもこんなサイズのものは存在しないだろう。加えて、建物全体から酷い匂いが漂ってくる。恐らく奇妙な匂いの出所はここなのだろう。じゃあここは一体何の倉庫なのか?

幾つも浮かんでくる疑問。しかし次の瞬間、全て吹き飛んでいった。

目の前の光景をうまく吞み込めない。あまりの衝撃に声も出せず、凍り付いたかのように全身が硬直した。ショックで激しい動機を繰り返す心臓がうるさい。今にも破裂してしまいそうだ。

だって、大型犬なんかじゃなかった。

倉庫の入り口、ぽっかりと口を開けた闇の中に待ち受けていたのは、怪我した動物だなんて生易しいものじゃなかった。


そこに倒れていたのは、全身を血で真っ赤に染め上げた—大柄な人間の男だった。

そして、冒頭に巻き戻る。


辛うじて声は出せたものの、思考と身体はフリーズしたままだった。犬猫ならまだ動揺しなかった。それなのに蓋を開けてみれば立派な人間。しかもその周りには夥しい血痕が深紅の水溜まりを創り出していた。とてもじゃないが、生きているようには見えない。

どうしよう、どうしよう。あまりの混乱と焦燥に口の中が日照りのように乾いていく。死体を見つけてしまった時の対処法なんて知る筈がない。とりあえず警察?でも私が疑われたら?いや、そんなことを言っている場合じゃない。すぐにでも連絡を取るのが正解に決まっている。

回らない頭で捻り出した答えを実行するべく、震える手で端末を操作しようとしたその時。

 地に伏せた男の身体がピクリと動き、閉じられた口からか細い呻き声が漏れた。


 このひと、まだ生きてる。


 把握した瞬間、私の身体は弾かれたように動き出していた。

 震えていた手足も苦しくなってきた呼吸も何もかもを思考の彼方に置き去りにして一心不乱にひた走る。バクバクと早鐘を打つ心臓を無視して、酸素不足で変色しそうな唇にも構わず、ただひたすらにコンクリートの大地を駆け抜けた。カラッポの頭のまま駆け寄っては男の傍に跪き、吹き黙った血液がジーンズにこびりつくことも厭わずに血に伏せた男を間近で観察する。遠目から見れば凄惨な殺人現場だ。でも、至近距離から見る男の胸は緩やかに上下している。ほんの小さなまあるい穴からドクドクと溢れ出る液体は恐ろしいくらいに赤かったけれど、それでも力の抜けた手足はまだ温かかった。

 つまり、本当にまだ息がある。                             

 まだ生きているのなら、まだ掬い上げる命が残っているのなら、このまま見殺しにするなんて選択肢は捨ててしまいたい。

 助かるはずの命を投げ捨てるくらいなら、いっそ死んだ方がマシだと思った。震える手で胸に手を当てると懐に忍ばせたお守りがカチャリと微かな音を立てる。母から贈られた大切なお守りは、不安定な私の心を支えてくれる要だ。落ち着きなさいと窘める、母の懐かしい声が耳の奥に甦った。バラバラに散らばった思考の欠片がパズルのピースのように在るべき場所へと嵌められていく。

 湧き上がる衝動に身を任せ、夜中だからと風よけに羽織っていた薄手のカーディガンを思い切り引き裂いた。そのまま特に出血の激しい右肩付近に止血帯の代わりに巻き付ける。私は決して医師ではないし、医療の心得がある訳でもない。しかし応急処置なら勇気さえ振り絞れば、案外誰にでも出来るものだ。感触だけで分かるくらい深く裂かれた肉と皮膚から溢れ出す血がどれだけ服を汚しても、私は決して手を止めなかった。

 出血量があまりにも多い。傷口自体はそこまで大きいとも思えないのに、ジクジクと溢れる血液は一向に止まってはくれない。

 このままでは救えない。

 ここで救えないのなら、それでは見殺しにするようなものじゃないか。

 募る焦燥を振り払うように、私は意を決して傷口を抑える手に力を込めた。ミシミシと嫌な音を立てながら、傷付いた皮膚を割り裂くように血塗れの布がゆっくりと埋没していく。

 直接圧迫止血法。

 患部に直接接触するようにガーゼ等を押し込み、体組織に異物の存在を認知させることで止血を促進させる救護方法だ。ここまで負傷が大きいと、直接傷口に捻じ込まないと止血が出来ないと何かで読んだことがある。確か、戦場の心得のようなものだっただろうか。まさか本当に使うことになるなんて。現実逃避めいた思考を絶え間なく巡らせながら、身体は必死だった。

溢れ出る朱色に鳥肌が無数に立ち上がり、大量に分泌された冷や汗が薄手のシャツをぐっしょりと湿らせていく。人の肉を弄り回す生々しい感触に本能が堪らず悲鳴を上げそうになっても、止める訳にはいかなかった。

驚いたことに、これだけ血塗れになりながらも大きな怪我は一か所だけだった。ならこの惨状は何なのか。この血液は誰のものなのか。聞きたいことは山程あるけれど、まずは人命が最優先だ。

 時間がない。沸騰する脳内を奮い立たせ、必死に成すべきことを絞り込む。

 本来なら、迷わずに救急車を呼ぶのが最適解に決まっている。しかし目の前の男はどう考えても普通じゃない。少なくとも事故ではないはず。でなければ、こんな市街地でもない場所で、しかも上半身に円形の傷を拵えるなんて有り得ないだろう。

 どうするべきか。どう助けるのが正解なのか。どうすれば、どうすれば。

 どうすれば、救えるのだろう。

 混乱する思考、失われていく判断能力。ジリジリと削り取られる正気を何とか奮い立たせ、私はもう一度お守りを握り締める。

 真っ当じゃない人間を救うには、真っ当な選択肢なんて役には立たないだろう。

 自分が最も後悔しない選択をするしかない。覚悟はたった今決めた。

 染み付いた常識が絶え間なく警鐘を鳴らしても、昂る右脳と定まった覚悟が全て黙殺した。本能の命じるままに倒れた男の身体をゆっくりと持ち上げ、上半身を起こして壁に凭れ掛からせる。そしてすぐさま引き返し、精一杯走った。無我夢中で駆けたのが災いして人よりもずっと弱い心臓が悲鳴を上げても、興奮状態の脳は不要な情報を遮断している。脊髄の指示に従って切り替えたギアを肯定するように震える足でアクセルを踏み込み、車を倉庫に近付ける。ギリギリまで寄せてから再び停車させ、私はそのまま勢い任せに飛び出した。

「運びますよ、いいですか?」

 当然ながら返事はない。正常な思考の人間なら、どう考えても公的機関を頼るだろう。しかし、人間の生死に触れた時点で冷静さなんて全部手放している。非常識だろうが、生憎今の私を止めてくれる人間はこの世の何処にも存在しないのだ。

 自分よりも遥かに大きな体躯を抱き起し、四苦八苦しながら車内まで運ぶ。お気に入りのシャツに付着した鮮血が、直に伝わってくる体温が、今私が背負う命の在り処を嫌というほど教え込んできた。

 後部座席に凭れさせた男が荒く呼吸を繰り返していることを確認すると、私は振り返らずに泥沼のような夜闇とライトが絡み合う海岸を後にした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る