昼と夜 八

 あんぐりと口を開ける結城さんを後目に、スープを飲み終えた私はニラ玉に手を付けた。ふわふわとした卵は半熟と固焼きの丁度中間に位置する絶妙な焼き加減でニラと融合している。黄金色の卵をふっくらと炊き上がった白米と一緒に食べ進めていると、対面では結城さんが八宝菜をモソモソと口に運びながら何やら考え込むように頭を捻っていた。

「どうかしました?口に合いませんでしたか?」

「いや……そういう訳じゃない。悪い、気にしないでくれ」

「やっぱり相当疲れてるんじゃないですか?難しいかもしれませんけど、休める時に休むようにして下さいね。健康は宝なんです!」

 私が眠る頃に動き出す世界に住む彼にこんなことを説くなんて、おかしな話かもしれない。それでも、健康な体に勝るものはない。彼の涼やかな目元に色濃く滲んだクマを消してもらわないことには話にならない。

 箸に挟んだシュウマイを口に運びつつ、ここぞとばかりに語気を強めて力説する。突然始まった説教に結城さんは目を丸くしていたが、結局最後まで素直に聞いてくれた。きまりが悪そうに苦く笑った彼の表情はどこか等身大で、張り詰めた覇気を纏っていたあの夜よりもずっと近い距離まで互いに入り込んだような錯覚を覚えてしまう。

「……身体のことで苦労してきた人間の言葉を無碍にする訳にはいかないな。分かった、これからは気を付ける」

「約束ですからね!ちなみに結城さんって今いくつなんですか?」

「二十八だ。あんたは?」

「二十四になります。四歳差ですね」

 あんたはやっぱり若いな、なんて言いながら眦を優しく和らげた結城さんは、会話を交えていたにも関わらず既に皿に残っていたニラ玉を白米と一緒に平らげてしまっていた。

「ご馳走様でした。今日も美味かった」

 手を合わせて頭を下げる仕草はやはりとても綺麗で、彼に染み付いた習慣がしっかりとした土壌の元で育まれたことを示唆していた。

「お粗末様でした。私も急げばもう少しで食べ終わりますから!」

「ゆっくりでいい。無理して急ぐ必要はないだろう?」

 素っ気ない口調だった。しかし声も表情も瞳の温度も、私を捉えている彼の何もかもがあまりにも穏やかで優しくて、降り注ぐ温もりが慈雨のように胸を満たす。無性に込み上げてくる涙を隠すように笑って見せると、結城さんはまた小さく微笑みを返した。

 ひとつ屋根の下で、まだ知り合って間もない異性と二人きり。何年も前に恋を諦めた私の人生の中で、本来起きるはずのない異常事態だ。そんなことにも気付かないくらい、結城さんのいるリビングは心地が良くて、時間の経過は流水のようだった。

 彼が訪れた時にはまだ西の空を照らしていた太陽はもうどこにも見当たらず、代わりに三日月が深い群青にぽっかりと浮かんでいる。夜が更けて、それでも近くに人がいるという幸福を噛み締めるように、私はゆっくりと湯呑を傾けた。

 料理はもう、とうの昔に二人分の胃袋に収まっていた。結城さんと食事を摂るのはこれで三度目。回を重ねる度に増えていく透き通った優しさが、どんどんこの時間を手放せないように私の心を奪っていく。

 まるで、魔法に掛けられたみたいだ。魔力に魅せられている間だけは、消えない過去も揺るがない寿命も何もかも忘れて酷く幸せな夢を見る。

「次はいつになるか分からないって言ってましたけど……お仕事が大変なんですよね?なら、次は結城さんが食べたいものを作ります」

「食べたいもの……特にない。家庭料理なんてもう十年は口にしていないからな」

「でも十年前は食べていたんでしょう?」

「それはそうだが……本当に分からないんだ……」

 やけに難しそうな顔で考え込んでしまった結城さんの姿が何だか可笑しくて、思わず笑みが零れてしまった。非の打ち所がないように見える彼でも、その裏側はぽっかりと空いた欠落が幾つもあるのだろう。それは決して喜ばしいことではないけれど、彼が無意識に見せてくれる脆さと傷の全てが愛しく思えてしまうのもまた事実だった。

「それなら無理にとは言いません。でも、何か思い付いたら教えて下さいね!」

 あなたが少しでも安らげるなら、私はそれだけで満たされる。背負った荷物も仄暗い記憶も、何もかもを忘れることが出来ないのなら、せめて日常からほんの少し距離を置く瞬間くらいは心のままに生きていて欲しい。この時間だって、私次第では闇夜を飛び続けるあなたの止まり木くらいにはなれるかもしれないから。

「ああ、そうさせてもらう。あんたは本当に、俺のことばっかりだな」

「それは……まあ、否定はしません。だって嬉しかったんです。あなたが居てくれるお陰で、六年ぶりに誰かと食べるご飯の味を思い出せましたから」

 あなたに出会えたあの夜から、カラッポだった私の世界は魔法のように煌めき始めた。

 魔法が解けてしまえばきっと、この日々は思い出として過去に置き去りにされてしまう。だから関わらない方が幸せだったのに。理解しているはずなのに、懲りずに次を望んでしまうのだから、私も大概救いようがない。

「……出来るだけ早く来られるように努力する」

 木目が目立つテーブルに湯呑を置き、美しい烏のような彼は口角を綻ばせて微かに笑う。凪いだ瞳が静かに瞬き、藍色の奥底で星屑のような光がゆらりと揺蕩った。

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