夢幻泡影 一
深夜一時三十分、草木も眠りに就いた頃。
突如鳴り響いたけたたましい音に、意識が強制的に叩き起こされた。信じられないほど重い瞼を擦りつつ、ベッドサイドのテーブルに手を伸ばす。ブルブルと震える携帯に表示されていた番号は見知らぬもので、私は何も考えずに早々に切った。
大人しくなった端末をテーブルに戻して、明日の仕事に備える為にモゾモゾと再びベッドに潜り込む。しかし、相手もそう簡単に諦めてはくれないらしい。少しの間を置いて再び鳴り出した。
何かの勧誘なら断ればいい。身寄りがない私にとっては、詐欺だって大して怖くはなかった。とりあえず今は、煩わしい着信音をどうにかしなければいけない。
「……はい、もしもし。どなたですか?」
寝起きの不機嫌な声が狭い寝室に木霊する。普段の数段低い声色で相手を問えば、画面の向こうの誰かが動揺したように息を呑んだ気配がした。目眩がするほど静かな私の寝室とは対照的に、液晶の向こう側は騒音が幾つも重なって酷く喧しい。
『……結城だ。起こしてしまったか?申し訳ない』
「結城さん⁉」
思わず叫び声が漏れた。考えてみれば、私の番号を知っている人なんて限られている。でも、前に結城さんが掛けてくれた時は公衆電話からだったのだ。彼自身の端末からだなんて、予想外でしかなかった。
「いえ、気にしないで下さい。でもこれ結城さんの携帯からですよね?……私が言えることじゃないかもしれませんが……大丈夫なんですか?」
『ああ、これはプライベート用だから問題ない。滅多に使わないから処分しようと思っていたんだが、案外役に立つもんだな。すまない、早速本題に入らせて貰いたい。あまり余裕がないんだ』
三日振りに聞いた艶のある低い声は電話越しでも変わらず静かだった。しかし、彼の掠れた吐息に混じって遠くから聞こえてくる怒声や切羽詰まった濁声から、画面を隔てた向こう側が平穏な状況ではないことが分かる。
「勿論です。どうされたんですか?」
裏返りそうな声を必死に噛み殺し、平静を装いながら端末を強く握り締める。滲んでいく脂汗を無言で拭うと、その手がガタガタと震えているのが分かった。
『正直、無関係のあんたに教えるべきことではないんだが……今から少しやり合う。俺もそれなりに修羅場を経験しているが、それでも生きて帰れるとは断言出来ない。今日は生き残れても、明日は分からない。だからまあ、遺言とは言わんが、俺に何かある前に伝えておきたいことがある』
少し煩わしい程度だった喧噪が急にこの世で最も禍々しい音であるかのように強烈に鳴り響き、ガタガタと揺らぐ脳裏を穿った。
『万が一、俺が死んだらあんたには伝わるように手筈を整えている。その時は俺の部下が幾らか金を渡しに行くことになるだろう。あんたは必要ないと言うだろうが、まだ恩を返し切れていない分最低限の誠意だけは貫かせて欲しい』
脳髄を貫かれたような衝撃が全身を貫いた。彼が言葉を紡ぐ度に浅くなっていく呼吸が苦しくて、鈍く軋み始めた心臓が私の身体を責め立てる。
『後は……どうかしたか?呼吸が荒い。何かあったのか?返事をしてくれ。』
大丈夫ですよ。私は大丈夫。お金なんて要りませんから、生きてまた会いに来てください。
いつも通りの笑顔でそう伝えたいのに、壊れた玩具のようにギシギシと不快な音を立てる脳が邪魔をする。
やめて、まだいかないで。私からもう奪わないで。離れていくのはかまわないけれど、どうしようもないことだと分かっているけれど、それでも。
やめてよ、お願いだから、それだけは辞めて。
お願いだから、なんだってするから、だから。
絶え間なく脳を殴り続ける耳鳴りが、過去を無理矢理呼び覚ます。
血相を変えて駆け寄って来た先生の荒い呼吸音。心臓に釘を打たれるような哀しみ。身を貫く慟哭と軋む身体、そして手元に還ってきた二つ分の骨壺。
また失ってしまうのだろうか。折角拾い上げることが出来たのに、神様はまた私の世界を砕こうとしているのかしら。
やめてよ、もうあんなの耐えられない。
捨てられるのも、見放されるのも怖くない。何があったって笑っているから。
だから、わたしをおいていかないで。
短く浅い吐息の連鎖が暗い部屋に反響する。過呼吸交じりのざらついた響きが、スピーカーを通して東京のどこかにいる彼の元へと届けられた。
『落ち着け!大丈夫だ、俺はここに居る。ゆっくり息を吐け。ああ、それでいい。焦らず呼吸を整えろ。大丈夫、俺がいる、だから落ち着いてくれ』
例えるなら、深海に差し込む一筋の光を見ているみたいだった。静かな光がきらきらと差し込んで、昏い過去の呼び声を消し飛ばしていく。北極星にも似た光が、あまりにも眩しくて。
ひとりじゃない。その事実だけで、どれだけ救われるだろう。
『落ち着いたか?』
「……はい。ごめんなさい、取り乱しました。ありがとうございます……」
必死に抑えた胸元から辛うじて声を絞り出せば、電話越しから差し込むように、安堵の滲んだ音が優しく響いた。
『……言い方が悪かったな。あくまでも万が一だ。まだ仕事は山ほど残ってるんだ、そう簡単に死んで堪るか。この件が一段落付けばまたあんたの所にも行ける。……それまで待っていてくれ』
きっとこれから彼の両手は、誰かの血で染まるのだろう。それでも、私の前ではどこまでも優しい人でいてくれる彼の言葉は煌いていた。
彼の本当の姿は知らない。私には知る資格がない。それでも、彼があまりにも優しくて温かくて、どうしようもなく離れ難いと思ってしまったから。
「分かりました。……ただ、一つだけお願いがあります」
『……?ああ、俺に出来ることなら何でも言ってくれ』
さらさらと耳を撫でる声の温度に、胸が少しだけ痛んだ。
万が一、その言葉にきっと嘘はない。彼はきっと強くて優秀で、何日かすればまた顔を見せに来てくれると信じている。それでも、一度懐に入れてしまった人を失ってしまう可能性が傍にあるだけで、怖くて堪らない。
「次がいつになってもいいですから。その代わり、今この場でリクエストをくれませんか?」
ささやかで、自分勝手なだけの願いだった。本当にどうかしていると思う。これから命懸けの場所に赴く彼は呆れて何も言えないだろうか。
それでも、縋れる何かが欲しかった。それが下らない約束だったとしても、私に対していつだって誠実だった彼が無碍にはしないことを知っていたから。
やけに長い沈黙の後、少しの笑声を含んだ溜め息が夜凪を震わせた。薄く閉じ掛けていた瞼を開くと、全く変わらない穏やかな声が右耳に吸い込まれていく。
『じゃあ、筑前煮が食べたい。昔好きだった』
ありふれた家庭料理の中でも、素朴で飾り気がないもの。優しくて温かい味の、私の一番の得意料理だ。いつかの彼も、どこにでもあるような煮物を口にしていたのだろうか。おいしいと、思っていたのだろうか。生と死の狭間に身を置く前の彼の姿が垣間見えて、温もりと苦みが混じったような奇妙な感情が湧き上がってくる。
「ありがとうございます!」
不確かで宙ぶらりんな関係を唯一繋ぎ止められるのは、傍で過ごすうちに少しずつ積み上がっていく些細な約束だけ。守る義務も義理もどこにもないのに、私も結城さんも頑なに貫き続けている。
この関係に固執しているのが、私だけではなかったとしたら。
だとしたら、こんなに嬉しいことはない。
「余計なお世話かもしれませんが……死なないで下さいね。待ってますから」
長々と引き留めて良い場合じゃないと分かっている。それでも言わずにはいられなかった私の心を汲んでくれたのか、結城さんはクスリと笑ってから穏やかに言葉を紡いだ。
『ああ。落ち着いたらまた連絡する。』
「はい!では失礼します。くれぐれもお気を付けて!」
精一杯の明るさを保ったまま、そっと通話を切る。向こうの声が完全に切れたことを確認して、糸が切れたように全身から抜けていく力を辛うじて引き留め、ベッドサイドの小物入れから数粒の錠剤を取り出した。水を取りに行く余裕もないまま一気に口に放り込み、砂漠みたいな喉に無理矢理流していく。重石のように圧し掛かってくる重力に抗う余力はなくて、ガタガタと震える身体は引力のままにベッドの上に張り付いていった。
分かっていたはずだった。
私が口出し出来ることなんて一つもないのだと。単なる部外者でしかないんだから、ただ耳を閉ざしているべきなんだと。
あの夜だってあの人は血塗れだった。幸い怪我自体は私でも何とか対応出来るものだったからよかったけれど、もっと長時間あの場に放置されていれば命の保証はなかっただろう。
そんな世界に住んでいる人なのだ。他人の命や自分の命を天秤に掛け合い、命を削り合って己の利を追及しながら生きている。きっと彼にとっては、命を危険に晒すことさえもリスクとして割り切れてしまうんだろう。命を捨てる覚悟で仕事に赴いたことも、そう簡単には死なないという言葉も嘘ではない。でも、彼の死生観はあまりにも哀し過ぎる。
私と彼では住む世界が違うことも、価値観も生き方も、命に見出す重みも全く違うことも、理解出来ていたと思っていた。
でも、あの時の私は本当にどうかしていた。
彼が命を落とす可能性だけでパニックになって、過呼吸を起こしかけた。分かりました、ご無事をお祈りします。最適解はたったそれだけだったのに、ただ取り乱しただけ。
あの時彼が宥めてくれなければ、私はきっとあのまま彼に縋り付いていただろう。
いかないで。傷付かないで。お願いだから、手の届かないところで死んでしまわないで。
短い付き合いにしかならないことは分かっていても、彼の存在はもうとっくに私の心の深い部分に突き刺さってしまっている。
情けないなんてものじゃない。それでも、あの恐怖は真実だった。
私だって死ぬのはそれほど怖くない。幼い頃から、何度か命が危うくなるような発作を起こしたことだってあった。それにもう、失うものなんてない。だから、簡単に死ぬ気はないけれど、死ぬのは怖くない。だからだろうか、その分身近な他人の死には酷く敏感になってしまう。それこそ、両親の死を未だに引き摺って生きてしまうくらいには、大切な人の生存には異様に執着する性質を抱えて生きている。だから、彼にだって生きていて欲しい。
それでもきっと、彼もまた自分の生死なんてどうでも良いのだろう。私と彼はきっと、一番いやな部分が誂えたようにそっくりなのかもしれない。一見綺麗なあのゴツゴツした手だって、本当は鮮血が常に付きまとう。あの夜の彼は私に感謝をしてくれたけれど、自分が生き残ったことを喜ぶ素振りは一度も見せなかった。
彼は生きることを望んではいない。それでも私は生きていて欲しいと願ってしまうから。
あなたと食べるご飯ほど美味しいものなんて、きっともう世界のどこにも存在しない。
八咫烏と蛍草 綺月 遥 @Harukatukiyo24
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