八咫烏と蛍草

綺月 遥

序 怪物

闇夜の深淵に浮かび上がる仄暗い空間。尖った金属が肉を貫いては木霊する破裂音。多少薄汚れていただけの何の変哲もなかった室内を、この世で最も凄惨な死の舞台に塗り替えていく赤黒い液体。肉から零れた鉄の残り香と硝煙の焦げた匂いが充満する無慈悲な世界を、一人の男が必死に這いずっていた。

 早く、一刻でも早くここを出なければ。千切れかけて使い物にならなくなった手足を引きずり、滴る油汗と自らの血潮で滑る地面に爪を立て気力だけで前に進む。

 武器は既に失った。仲間ももういない。つい一時間前まで互いに下劣な話題を持ち寄っては笑い転げていた顔触れは全て息絶え、血塗れの床に倒れ伏している。

 とうの昔に事切れた顔見知りの屍を掻き分けながら、男はただひたすらに外を目指していた。もう、男の思考回路から立ち向かうという選択肢は消え失せている。相手は寂れた倉庫を単騎で地獄絵図へと変貌させた得体の知れない怪物だ。死に損ないが一匹死力を尽くしたところで蹂躙されるだけ。狂人のように散り様を飾るよりも、醜くとも生き延びた方がずっと良い。

ひゅうひゅうと肺が嫌な音を立てても、大量に出血しているせいで意識が薄れてきても、ただただ死に物狂いで這いずり回る自分の姿は酷く滑稽だろう。男は独り自嘲した。それでも止まる訳にはいかない。恥も外聞も何もかもを捨てて、無様に逃げる他に生き残る術など存在しないのだから。

 早く、早く逃げないと、死ぬ。

 化け物に食い散らかされて死んでしまう前に、少しでも遠くへ逃げなければ。

 震える体を叱咤しながら進み続ければ、痛みで霞む視界の隅に階段が現れる。狭いながらも一応は二階建て構造であるこの倉庫では、階下まで辿り着いてしまえば入り口はもう目と鼻の先だ。ようやく見えた希望の光に歓喜の涙を流しながら、男は死にかけの蜘蛛が蠢くような無様な格好を披露しつつも己の命を繋ぎ止めるべく一歩ずつ段を降りていく。

 否、降りようとした。

 次の瞬間、男の体がガラクタのように吹っ飛んだ。突如奪われた希望に思考を停止させた男が正気に戻る間もなく、血塗れの頭部をナニカが容赦なく踏みつける。 

「…お前で最後か。手間かけさせやがって。」

 低くて艶がある、酷く淡々とした声。

 それは正しく死刑宣告であった。

 直後、つんざくような爆音を最期に男の身体はただの肉塊と化した。


いっそ死んでしまった方が楽なのではないか。視界に現れた人影を機械的に蹴り飛ばしながら、何となく思い至ってしまった。このまま死んでしまえたなら。全てを投げ出してしまえたなら。そしてすぐに後悔した。思考を重ねていく度、あまりにも陳腐な夢想に笑い出しそうになる衝動を堪える連鎖に陥ったのだから。らしくもない、何とも馬鹿げた失敗だった。

蹴り飛ばされた衝撃で四肢が捥がれ四散したことにも気付けずに必死に藻掻く芋虫のような男を睥睨し、二度と逃げられないように頭を踏んで地面に固定する。相手はもう虫の息だが、生憎こちらもそれなりに深手だ。少しでも早く離脱しなくては。 

短時間で血塗れになってしまったスーツに舌打ちしながら、もはや右手と同化するほど身体に馴染んだオートマチックの引き金に手をかけ、躊躇わずに脳天を撃ち抜く。

脳髄がスパークするような刹那の高揚と頬にかかる生温い雫。

焦げ付くような匂いと共に、目の前のガラクタが派手に爆ぜていった。

死臭を漂わせながら静かに横たわる夜の帳の腹の中で、ミンチになった脳漿と砕けた頭蓋骨が屑ゴミのように散乱する。狙った獲物の息の根を淡々と止めていく狩人の横顔には、動揺や憐憫なんて生温い感傷は欠片も浮かんでいなかった。

たった今始末した男から視線を外し、用心深く周囲を警戒する。床に転がった物体がピクリとでも動けば、或いは僅かにでも息をしていれば容赦なく射殺した。

数分もすれば、水面のような沈黙だけが空間を支配する。

全てが終わった。そう認識すると同時に、眠っていた感覚が覚醒したかのような激しい熱に冒された。焼け付くような痛みが全身を焦がす。呼吸が荒い。流石に無茶だったか、なんてこの期に及んでもまだどこか他人事の思考に今度こそ乾いた笑いが漏れた。もう足元も覚束ない。

やっぱり、くたばっちまった方が楽なんだろうな。

今はただ、ぼやけた思考の隙間を縫うように込み上げてくる無気力に身を任せてしまおうか。抗う力はもう残っていなかった。

そして、二十を超える人間をたった一人で殺戮した恐るべき怪物は、夜の静寂に膝を付いた。

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