邂逅 三
良かった。本当に良かった。
ちゃんと生きていてくれた。
こんな私でも、誰かを生かすことが出来た。
眩暈がするような感情の渦が押し寄せて、私は廊下の真ん中で静かに膝を抱えて蹲った。
血塗れのあの人を見た時、臓腑の奥底が凍てつくように痛んだ。息をしていると気付いた時には全身が沸騰してどうにかなってしまいそうだった。
怖くて怖くて仕方なかった。
目の前で零れ落ちていく命の欠片が、何かの拍子で消えてしまう灯のような体温が、この世の何よりも恐ろしい。
助かって欲しい、死なないで欲しいなんて切実な願いが、所詮はただのエゴでしかないことは分かっている。
それでも、まずは話をしなくては。
何となくキッチンに立つ。とにかく、お腹が空いてしまった。
冷蔵庫の中には多めに買っておいた牛乳にチーズ、バター、それからベーコン。野菜室にはイエローパプリカとズッキーニ、玉ねぎもまだ残っている。余っているトマト缶が沢山あるので、これは沢山使ってしまおう。
まずは玉ねぎの皮を剝き、みじん切りにする。パプリカとズッキーニも水洗いした後に小さめの角切りに。手元で量産されていく切れ端を潰さないように丁重に包丁から落としていくと、白、黄色、黄緑のサイコロが良い塩梅に混じり合う。三色のコントラストが無機質なまな板を彩ってくれるおかげで、殺風景なキッチンが少し明るくなった気がした。
野菜の下準備が出来たら、次は鍋での作業に取り掛かる。ステンレスの深鍋を火に掛け、バターを二欠片落とすと、薄黄色のキューブがじゅわりと音を立てて蕩けていった。溶けたバターで玉ねぎとベーコンを熱し、中火で炒める。すると白い粒が次第に透き通り、薄紅色の塊に纏わり付きながらしんなりと柔らかくなっていった。そこに水と顆粒スープを入れ、更にパプリカとズッキーニ、そしてトマト缶を加える。真っ赤な果肉を潰しながら煮立てていると、爽やかなトマトの香りが部屋中に広がる。私は思わず腹に手を当てた。深夜にこんな匂いを嗅いでしまったのは失敗だったかもしれない。まあ一緒に食べた方が警戒されないし、どうせ明日も仕事だし、却って都合がいいのかもしれない、なんて自分に言い訳をしながら二人分の冷や飯を取り出す。鍋を満たすトマトの中にポトリと落とせば、白いお米がみるみるうちに鮮やかなスカーレットに染まった。グツグツと気泡が浮かんできた頃合いを見計らって塩と胡椒、そしてトマトに次ぐ主役のチーズを加えれば、どこに出しても恥ずかしくないトマトチーズリゾットの完成だ。
満足のいく出来栄えに口角が上がる。折角なら、もう少し何かを作ってもいいかもしれない。生憎この時間だし、客人を待たせる訳にはいかないので、なるべく手早く作れる一品。リゾットなら単体でも問題はないだろうから、時間を掛けておかずを追加するよりは飲み物の方がいいかもしれない。常備菜は和風の味付けばかりでそぐわないし、結局使わなかった牛乳を余らせておくのも何だか気になってしまう。牛乳を使う何かで、それから温かくて心が安らぐようなもの。気持ちのいい音を立てる鍋の火を弱めて、パックの残りを確認すると丁度いい量が余ってくれていた。
使っていなかった小鍋にカップ二杯分の水を注ぎ、火に掛ける。二つの鍋に注意を払いつつ、戸棚の前に移動して今回使う茶葉を選んだ。職業柄、茶葉はいくらでも置いてある。今回は紅茶のアッサム。丁度いいタイミングで沸いたお湯に焦げ茶色の葉を丁寧に加え、無色透明な水が温かみのある赤茶に染められていく様子を二分ほど見守っていく。ここでお湯を沸騰させたら香りが台無しになってしまうので、火加減には気を配る。
頃合いになったらいよいよ牛乳の出番。冷蔵庫から取り出したばかりの冷たい牛乳を注ぎ入れ、同程度の弱火で少しずつ熱していく。沸騰直前で火からおろせば、フツフツと音を立てる綺麗なベージュ色の液体が、小さな白い湯気を立ち昇らせながら静かに揺れていた。煮出して作るロイヤルミルクティーの出来上がり。
リゾットは雑貨店で一目惚れした小皿に盛り付け、仕上げにオリーブオイルを一たらし。ミルクティーの方も小皿と揃いのデザインのマグカップを使う。ぬるま湯で温めておいたカップに目の細かい茶こしでこしながら慎重に注げば、アッサム特有の甘くて芳醇な香りが部屋中に広がった。
夜食ならこれくらいで十分だろう。二人分の小皿とカップをお盆に並べ、私はあの人が待つ寝室へ顔を出した。
「すみません、夜食の用意が出来たんですけど、今入っても大丈夫ですか?」
「……おう」
少し掠れた心地のいい低音に、そういえばこの人の声を聞くのは初めてだったことをふと思い出した。助けるのに夢中だったから気付かなかったけれど、もしかしてこの状況は拉致のようなものかもしれない。得体の知れない男、それも明らかに普通ではない彼の敵意に晒される可能性は当然ある。今更、私は身を震わせた。
意を決して扉を開ければ、すっかり目が覚めたらしい男が此方をじっと見ていた。
「時間がかかってしまってごめんなさい。不味くはないと思うんですけど……あ、そういえばアレルギーとかってあったりしますか?」
内心の動揺を押し隠して何とか話しかけると、無表情だった彼は一瞬戸惑ったように瞳を瞬かせ、何とも言えない様子で口を開いた。
「特にないが……。というか、俺はあんたの名前も知らない。気遣いには感謝するが、その前に少し状況を説明してくれないか」
頭を抱えたくなった。どうしてこんなに要領が悪いんだろう。これじゃあいきなり拉致した挙句突然料理持ってきた不審者である。通報されても文句は言えない。
「ご、ごめんなさい!名乗るのも忘れていました……初めまして、
「ああ。俺は…そうだな、
あまりの羞恥に両頬が熱を帯びていくので、私は慌てて顔を背けた。ああ、もう、恥ずかしすぎる。名乗り返してくれた結城さんの顔を見ないように努めながら、机の脇に置いていたちゃぶ台を引っ張り出して木目で覆われた小さな盤上にそっとお盆を乗せた。
「詳しい説明は食べてからでもいいですか?冷めてしまうので」
とりあえず声を掛けると、彼は案外素直に頷いてくれた。
広くはない部屋の中、小さな卓を囲めば自然と距離も近付いた。初めて間近に見る男の顔はかなり整っていて、夜を溶かしたような青みがかった黒瞳が鮮烈に目を衝いた。漆黒の髪と相まって、凪いだ夜の海のような印象を受ける。穏やかに見えるけれど、どこか底知れない何かを感じさせる独特の雰囲気を持った不思議な人だった。
向き合って座ったのは良いものの、結城さんはなかなかリゾットに口を付けなかった。代わりに、どこか探るような視線を何となく感じ取る。埒が明かないので先にリゾットを匙によそって口に運んだ。トマトの酸味を蕩けたチーズがまろやかに包み込み、口の中で程よい塩梅に混じり合う。野菜もいいアクセントになっていて、我ながらよくできた方だと思う。
私が躊躇なくリゾットを口にしたのを見届けて、結城さんもようやく小皿に手を付けた。赤い中身をまじまじと観察してから意を決したように口に運び、ゆっくりと咀嚼していく。そのまま無言で食べ進め始め、あっという間に小皿が空になってしまった。
「美味かった。ありがとう」
「もう?早いですね」
「ああ、そういう癖があるんだ……人が作ったものを食べたのは久しぶりかもしれない」
何でもないように呟かれた言葉は、どこか不思議な重みを含んでいた。結城さんは冷めたミルクティーを飲み干し、それまでピクリとも動かなかった顔を僅かに綻ばせる。だが、それは一瞬のことに過ぎない。改めて私を正面から見据えてきた視線は氷のように冷たく、刃のように鋭かった。場を支配する冷徹なプレッシャーをまともに受けて、手足が僅かに震えているのに気が付いた。目の前の生き物を、本能が拒絶している。心做しか息もし辛い。
「荒木さん、だったか。……単刀直入に聞かせてくれ。あんた、一体何者なんだ。どうして俺をここまで連れて来た?」
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