邂逅 二

きっと、最初から何処かが壊れていたのだろう。

 人間という生き物は生まれ落ちた時から環境に支配されるものだ。歪んだ親の元に生まれた子供は歪み、まともな親に育てられれば当たり障りのない人間になる。平和しか知らない子供は、平和を知らない子供とは決して相容れない。どちらにせよ、人であるからには逃れられない呪縛の一種なのだろう。稀に自力で縛りを打ち破ることが出来る者も出てくるが、たいていの人間はそうではない。骨の髄まで染み込んだ価値観に雁字搦めにされながら生きていく。

呪縛と加護は表裏一体だ。綺麗な倫理観に囚われ息苦しさを覚えた人間は背徳に魅せられ、時に道を踏み外す。しかし踏み外した瞬間に大概は終わりへのカウントダウンが始まる。自覚は出来なくとも、捨てきれない倫理観と腐った道徳はジワジワと心身を蝕み、遅効性の毒のように神経を削り取って少しずつ少しずつ破壊していく。逆もまた然り。沼の魚が清流では生きられぬように、歪な心は清廉な理想論に耐えかねて砕けていく。

加護を失って身を滅ぼした人間を何度も見てきた。ごく普通の家庭に生まれ育ちながらも人を殺めた自分だって、いつかは破滅の道を辿ることになると信じて疑わなかった。

でもいつまで経っても頭の螺子が弾け飛ぶことはなく、代わりに自らの手で築いた屍の数だけが増えていく。どれだけ人を殺しても、どれだけ道を違えても、身も心も価値観も変わりはしなかった。

変わらない人間など存在しない。染まらない人間なんてごく稀だ。そういう連中も別に強い信念や高潔な志を持って居た訳でもない。それは大抵、先天的に心に鬼を棲まわせていた天性の悪党だ。だから自分も同じように、最初から正常ではなかったに違いない。生まれた時から何処かが壊れていて、ガラクタの頭に染み込ませた倫理観を信じて歩いていただけ。だから自分はどちらの世界でも生きていけた。真相はたったそれだけのことなのだ。

なんて、結局はどうでも良い話に過ぎないが。元がどちら側に寄っていたかなんて関係ない。自分は平穏な世界を手放した。それだけの話だ。

阿修羅とまで呼ばれた男がどれだけ望もうが、死臭のしない世界にはもう二度と戻れない。結局自分は修羅の道を選んだのだ。

怪物は孤独に夜を往く。

いつか闇に取り込まれ、呼吸が止まるその日まで、荒い呼吸を繋ぎ続けるだけだ。

 夢うつつの中でさえ反芻される仄暗い覚悟に、男は思わず笑いそうになった。そしてふと気が付いた。どうやら、自分の意識は未だ現世にあるらしい。

擦り切れた命が次第に舞い戻るような感覚に、男は重い瞼を動かした。まだぼんやりと滲んだままの意識の中、最後に見た光景が脳内を駆け巡る。痛む身体を反射的に抱えると、何やらふわふわとした何かが掌に触れた。

武器取引の為に訪れた廃倉庫で謀られたことは覚えている。その後全ての敵を殲滅し、自分もそれなりに深手を負って倒れたことも、何となく脳裏に浮かび上がってきた。

そうだ、そうだった。熱を孕んで疼く頭を抑えながら、ジグソーパズルのように散らばる映像を必死に拾い集める。確か、男は襲撃を受けて港の倉庫で意識を手放した。最後の意地を振り絞って外に出たものの、押し潰すような痛みと脱力感に耐え切れずに硬いアスファルトの上で力尽きたはずだ。

なら、この感触は一体?

次いで鼻を衝いた木の匂いに、男は堪らず飛び起きた。周りを見渡すと小汚い廃倉庫とは似ても似つかない飴色の壁が目に入る。寝かされていたベッドの脇に鎮座するローテーブルには室内を照らす瀟洒なデザインのランプシェードが置かれ、その横には数冊の本が積み上げられていた。その向こうに設置された本棚にも所狭しと大量の書籍が収納されており、この見知らぬ空間が誰かの居室であることを示唆している。内装は全体的にシンプルで、レースのカーテンや古びたドレッサー、枕元にはクマのぬいぐるみが置かれていた。

壁に掛けられた時計が示す時刻は午前二時。取引が破綻したのが夜の九時半を回った頃だったので、男は最低でも三時間以上は眠っていた計算になる。

血塗れの衣服は脱がされたようで、代わりに妙に親父臭い趣味のスウェットとパンツに身を包んでいる。撃たれたはずの右肩には包帯が巻かれているのが分かった。

ここは、何処だ。

 潜んでいた残党に拉致されたのか?否、それにしては扱いが丁重過ぎる。ならば第三者に連れ去られたと考えるのが妥当だろうが、目的が全く読めない。誰が何の為にこんなことを?

 数々の死線を潜り抜けてきた男の明晰な頭脳が急回転を始めた時、静かなノックの音が夜明け前の薄闇を揺らした。男は反射的に身構える。懐に手を突っ込むも、生憎今は武器の類は身に着けていない。そもそも手持ちのものは銃や通信機も含めて全て紛失しているはずだ。絶望的な状況の中、せめて反撃の機は逃さぬようにと両の拳に力を込めた。

「……失礼します。開けますよ……?」

 足音は一人分。武装している気配もない上、聞こえてきたのは人畜無害そうな穏やかな声。緊迫を搔き消す穏やかな雰囲気に、意表を突かれた男は思わず目を剥いた。

 ゆっくりと開かれた扉の向こう側から、一人の女が静かに現れた。年の頃は恐らく二十代前半。後頭部で束ねられた長い髪と、銀フレームの眼鏡で縁取られた目元が理知的で何処か硬質な雰囲気を醸し出している。しかし、柔和に弧を描いた口元には温厚さが滲み出ており、折れそうなほど華奢な体躯は欠片の武力も有しているようには見えなかった。

 明らかに一般人。しかも小柄で無力な女が、一体何の用だと云うのか。

 訝しむ内心を隠さずに目の前の女を観察していると、女は驚いたように目を見開き……何故か、心底嬉しそうに微笑んだ。

「良かった……!起きたんですね!このまま起きなかったらどうしようかと……体調は大丈夫ですか?」

 男は思わず耳を疑った。告げられた内容を上手く呑み込めず、返事も碌に出来ずにその場に固まる。今、この女は何と言った?

戸惑いと衝撃で膠着した男を見て何を思ったのか、女は困ったようにまた笑った。

「ごめんなさい、目覚めたばっかじゃ何も分かりませんよね。何か食べるものを用意して来るので、少し待ってて下さい」

 そう言い残し、踵を返すと女は再び姿を消した。



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