昼と夜 六
最早本性を隠す気はないのか、それとも敢えて晒け出しているのか、人畜無害な優しい男の仮面はもう欠片も残っていない。蛇のように粘ついた視線でじっくり舐められる感覚に、手足が硬直して全身から血の気が引いていく。
この人は今、部下が世話になっていると口にした。思い当たる節なんて一人しか居ない。
結城さんの上司ということは、即ち彼もまたあちら側の住人なのだろうか。
「本来は私の方から速やかにご連絡するのが筋でしょうに、今まで音沙汰がなかった無礼をお許し下さい。報告が上がっていなかったものですから……よろしければ、これから彼と会う予定の日を教えて頂いても?」
彼の言葉に私は思わず瞠目した。報告が上がっていない、なんてことがあるのだろうか。いっそ心配になるくらい義理堅くて真面目なあの人が、必要事項の報告を怠るとはあまり思えない。それに次の訪問日を聞いてどうするのか。あまりにも不可解な言動に触発されて、凍りかけていた脳味噌が加速して動き始める。
グルグルと回り出した思考が一巡りした頃、ごく小さな電撃が私の頭を掠めた。
そもそも、この人が本当に結城さんの上司だという保証はどこにもないのだ。
結城さんの仕事について深く追及するつもりはないが、彼が何やら大変な立場にいることは想像に難くない。この場で何も知らない私が不用意な発言をしてしまえば、場合によっては彼の不利益に繋がり兼ねない。
なら、私の回答は決まっている。
竦む喉を叱咤して声の震えを抑えながら、必死に口角を押し上げて笑顔を作る。目は決して逸らさない。結城さんの覇気とはまた質が異なる、絡み付くようなプレッシャーを跳ね返すように、細い瞳に見え隠れする深淵を真っ向から見返した。
「お気遣い頂きありがとうございます。ですが、何のことかよく分かりません。わざわざお礼をして頂くようなことをした覚えはありませんから。お客様もお忙しいと思いますので、どうかお構いなく」
視線は背けない。結城さんの不利益になる可能性が少しでもあるのなら、私が折れる訳にはいかなかった。だって、死と隣り合わせの世界に生きている彼を無理矢理引き留めたのは私なのだ。守ってみせるとか、そんな身の程知らずなことは考えていない。ただ、あの人ともう一度ご飯を食べたい。その為なら、私は何だって出来てしまう。
予想外の返答だったのか、ずっと緩やかに弧を描いていた彼の口元が僅かに歪んだ。彼の怒りに触れてしまったのかと一瞬身構えたが、仕立ての良いスーツの懐から物騒な鉄の塊が覗く気配はなかった。それどころか、ニタリと吊り上げられた糸目からは、どこか珍獣の興味深い生態を目の当たりにした生物学者のような興味深げな色が覗いている。
「素人のわりに肝が据わったお嬢さんのようですね。あの堅物が妙に気に入るのも納得だ」
外れ掛けていた仮面がついに砕け散った。いっそ胡散臭いくらいに徹底された敬語の端々から見え隠れする本性は、正直身震いするほど不気味だった。
「失敬、試すような真似をさせて頂きました。結城が一般人に保護されたと聞いてからやたらと仕事を詰め始めたものですから、少し気になって訪ねてみたのですが。なるほど、貴女のように明朗で聡明な女性であればあの朴念仁が気に入るのも無理はありません」
彼は何やら独り言を呟きながら私の全身をしげしげと眺め、納得したように大きく頷いている。毒舌ではあるものの、どうやら本当にあの人を知っているようだった。ここまで来れば安心しても良いように思えてくるけれど、やはり危険な匂いはどうやっても拭い切れない。
「そう睨まないで。危害を加える気はありませんから、肩の力を抜かれては如何ですか?」
「無茶言わないで下さいよ……」
向こう見ずにも思わず突っ込んでしまうくらいには無茶な話だ。初対面の得体の知れない紳士、しかも恐らく堅気ではない人物を前にして身構えない人間がいるのか。結城さんの時は安堵と後ろめたさで警戒心は抜け落ちていたが、今は思考回路も正常な、正真正銘の素面である。彼自身も分かって言っているのだろう、気分を害した様子もなく肩を竦めて笑っていた。
とりあえず、彼が結城さんの上司であることは間違いないらしい。事情は分からないし、私がわざわざ理解する必要もないだろうけど、一応はこの人のお眼鏡に叶う対応が出来たと安心して良いのだろうか。
「お客様が何を仰っているのかはよく分かりませんが、私から申し上げられることは何もありません。ということでよろしいでしょうか?」
どちらにせよ、一度しらを切ったのならばそのまま切り通さなければいけない。首を捻りながらもう一度とぼけて見せた私を面白そうに眺めながら、彼は黒曜石のような黒髪を揺らして大きく頷いた。
「ええ、それで良いでしょう。賢いお嬢さんです」
どうやら正解だったらしい。小さな店に渦巻いていた凄味は消え失せ、彼が元通りの温和な笑みを浮かべた頃には、不自然に加速した心音も正常なリズムに戻っていた。
「それではあまり長居してもご迷惑でしょうから、私はそろそろお暇致しましょう」
「はい、ありがとうございました。本格的に夏になれば花茶の方も色々と追加で入荷出来ると思いますので、よろしければまたお越し下さい」
どんな事情を抱えていようが、何も手を出さない以上は単なる初見のお客様に過ぎない。予定の菊花茶はきっと気に入ってくれるだろう。何事もなかったかのように微笑んでみせると、彼はまた愉快そうに糸目を吊り上げて笑った。
「それはそれは。楽しみが増えましたね……では、またお会い致しましょう。」
紳士然とした笑顔を崩さずに深々と頭を下げ、彼は流れるような所作で踵を返した。そして音もなく開いた扉からするりと身体を滑らせると、鈍い音を立てて絶え間なく地面を叩きつける翠雨の最中に消えていった。
「何だったんだろう……」
最初から最後まで、とことん掴みどころがない不思議な人だった。結城さんと似ているところがない訳じゃないけれど、あの人よりもずっと得体が知れなくて空恐ろしい。ただ、道化人形のように飄々とした言動と立ち回りの奥底には、どこか拭い切れない人間らしい機微を孕んでいたようにも思えた。例えるなら、無機質で無感情で在ろうとしながらも、結局体温を手放せなかった人形といったところかもしれない。自分を保ったまま夜を往く烏のような結城さんとは、似て非なる在り方だ。いずれにせよ、血も硝煙も無関係なこちら側の世界ではまず存在しないような人達であることは、世間知らずな私でも容易く理解出来る。
あちら側との二度目の邂逅。
きっと世間から見た私という人間は、得体の知れない男を無防備に家に引き入れた挙句に裏の世界と関わることになった愚かな女、と言ったところだろう。
常識的で間違いがなくて、この上なく正しい意見だと思う。この状況をすんなりと受け入れている私の方が異常なのだ。
それでも私は、決して長くはない畢生の中に放り込まれた非日常を、どうしようもないくらいに手放し難いと思ってしまう。胃の腑が凍て付くような本能的な恐怖を経験しても、例え命が危険に晒されるような事態に巻き込まれたとしても、この泡沫のような非日常は死ぬまで私の心の中心に居座り続けるのだろう。
偽善でしかないことは分かっている。
それでも私は、あの刹那の中で選んだ道を微塵も後悔していない。
その判断が間違いだと云うのなら、正しさなんてものに何の価値があるのだろうか。そこまで考えてふと顔を上げれば、ガラス窓に私の歪んだ無表情が映り込んでいた。思わず苦笑する。結局私はどんなに望んでも一生善人になんてなれやしないのだ。
それでも、あの人の前でだけは物分かりが良くて心優しい『善い人』で在りたいから。
凝り固まった口角を強めに揉み解し、もう一度笑顔を作り直す。誰もいない店の中で笑っていても仕方がないけれど、しかめ面で俯いているよりはマシだった。
結城さん曰く、明日の訪問は四日前よりも多少早い時間になるとのことだ。幸いにも明日は定休日。丸一日余裕があれば、余裕を持ってもそれなりの準備が出来る。
どうしよう、楽しみで仕方がない。
結局私は単純な女なので、明日あの人に会えると思ってしまえば、何があっても問題なく乗り切れてしまうのだ。
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