第1章 昭和テニスマン 壁で妖精と再会す ツンデレでびっくり

第一章 再会 四月五日(金)


一 今日は春休み最後の日だ。

 僕は、朝五時に起きて、丼にご飯山盛りにして、卵三個かけて、お醤油を回しかけ、スプーンでグリグリ混ぜて、あーウメーって、かきこんだ。これは完全に飲み物だね。ゲフー、食ったー。

 ジャーに残ったご飯で、塩だけの大きなおにぎりを握ってラップして、R22とボール二個を一緒にリュックに詰め、自転車で家を出た。テニスシューズとジャージ、まだ少し寒いのでウィンドアップを羽織る。

 旧甲州街道を西に向かい、分倍河原から南に折れて、府中市総合体育館へ。自転車置き場のすぐ前が、テニスの壁打ち用の壁だ。昼間来ると混んでてやりにくいから、早朝に来ることが多い。お、やった、誰も来てない。今日は貸し切りだ。


二 壁は長さ三〇mくらい。ネットの高さに白いラインが入っている。僕は、一番奥に陣取ってリュックを置き、ラケットとボールを取り出し、壁に近づいて、軽くアップを始める。

 薄いグリップでラケットを持ち、フォアハンドをポンと壁に当て、返ってきた球を体重移動しながら打ち返す。何度か繰り返した後、壁から少し離れてハードヒットする。だいぶ強い球が打てるようになったけど、コンチネンタル(一番薄い握り)ではスピンかけられないから、ネット超えてから遠くまで飛んじゃうんだよな。だからショートクロスが打てないのが弱点だ。

 ひとしきりフォアをやって今度はバック。スライスをかけて、ライン上に当てる。返ってきた球をまたライン上へ。おー、続くな。一球もミスらない。一歩も動かない。まるでマシーンだ。ずいぶん上手くなった。やっぱり継続は力なんだな。


 向こうからもう一人、誰か壁打ちに来たけど、バックに集中する。あれ? なんか近づいてくる? せっかくガラガラなんだからあっちでやってくれよ。って思ったら、

「もしかして、奈良君‥‥‥かな?」って、声が掛かった。優し気で落ち着いた声音だった。


三 顔を上げると、そこに立っていたのは、すっごく綺麗な女の子だった。

 テニスシューズにレモンイエローの短いキュロットスコート。上はアイボリーのTシャツに白いヨットパーカー。すごい色白で小顔。栗色の髪を白いキャップの穴から出してる。リボンはスコートに合わせてレモンイエロー。とっても可憐だ。だけど、うう、どこで会ったっけ? 思い出せ。向こうは僕のこと知ってるんだ。そしたら、

「奈良君。バックのスライス、ずいぶん上手くなったのね。見違えちゃった」って、さも前から知ってたように言ってくるので、

「あのー、すみません。ホントに申し訳ないんですが、どちらかでお会いしましたでしょうか?」って丁寧に返したら、

「なっ! あんた私のこと覚えてないの?」って、ぱっちりした二重のアーモンドアイを吊り上げて、プンプン怒り出しちゃったよ。やばいやばい、ツンデレなのか?


「いや、必死に思い出してるんだけどさ。えー? どこで会った?」

「ほら、去年のインハイ予選よ! あんたが真司君に負けて男子部員に慰められてたっていうか、逆に慰めてた時に、私手振ってあげたでしょ!」

「‥‥‥あー、思い出した。W実業の美人選手! あんときの?」

「やっと思い出したのね。ずいぶんつれないじゃないのよ」

「いや、そりゃ覚えてないだろ。一年近く前の話なんだし。全然変わってるし」

「え? そんなに変わってる?」

「うん、去年は日焼けしてて黒かったし、手足も鍛えられてて太かった。今は選手って感じじゃないな」

「そうなの。去年のインハイで一六に残ったんだけど、それで一区切りにしたの。私身長一五〇㎝しかないのね。上背のない、脚が速いだけのストローカーって、ほんとに掃いて捨てるほどいるのよ。特に女子ではね。テニスは好きだからこれからも続けるけど、現役選手はもう終わり」


 一五〇? そんなに小さい? 僕が思わず、上から下までジーって見てたら、

「あー、今、『ほんとにチビだな』って思ったでしょー?」って睨んでくるから、

「いや、そんなこと思ってない。全然別の事」

「じゃ、何なのよ」

「えー、言わなきゃいけない?」

「いいから言いなさいよ」

「それじゃ正直に言うけどさ‥‥‥去年も綺麗だなって思ったけど、今はもっとずっと綺麗だなって。白くて長い脚がとっても素敵だなって。小さいって言うけど、手足が長くて小顔だから全然そう見えなくって、すごくスタイルがいいんだなって。こんな美人ホントにいるんだなって。できたらパーカー脱いだ胸も見てみたいなって、思った」


 そしたら、その子は、

「な!」って言って、小ぶりなピンクの唇を真っ白な両手で覆って、真っ赤になっちゃった。内股になってフルフルしてる。攻め専門なんだ。守りに回ると全然受け身取れないんだ。なんか可愛いじゃないか。

だから、ここは追撃だって思って、

「さらに言うと、こんな娘と友達になれたらいいなって、だけどなんか性格キツそうだし、美人は三日で飽きるっていうから、もうちょっと知ってからじゃないと危険かなって、思った」って言ったら、その子は、

「そ、そんな余計なことまで言わないでいいわよ! もう、バカ!」って言って、左手で口塞いだまま、僕の腕をペチって叩いてきた。はは、なんかこういうの嬉しいな。


「ああ、自己紹介まだだった。知ってるみたいだけど、俺は奈良裕(ゆう)。K高の三年。府中駅のそばに住んでる。名前教えてくれよ」

「私は、吉崎杏佳(きょうか)っていうの。アンズの『杏』に風味絶佳の『佳』」

「えーっ? あの吉崎杏佳? 吉崎って言ったら、去年の東京女王じゃないか。あれ、お前のことだったのか?」

「お、『お前』って、一応、私、あんたの一年先輩なのよ。今、W大の一年。法学部」

「あれ、そうだったのか。ごめん。知らなかった」

「まあ、いいわよ。私もこないだ一八になったばっかりだしね。すごい早生まれなの。三月二九日生まれ」

「なんだ。俺は来週の一二日が誕生日だから、二週間しか違わないんじゃないか。そんなんで学年分かれるんだな。それじゃお前のことは『杏佳』でいいか? 俺も『裕』でいいよ」

「うん、それでいい。そうしよう。裕、よろしくね」って言って、杏佳はちょっと小首傾げて眼を細め、綺麗な微笑みを浮かべて、右手を差し出してきた。これ絶対自分が美人だって分かってる人の仕草。って分かってても、やられちゃう。

 僕はシャツでゴシゴシ手を拭いてから、

「こちらこそ、よろしくな。杏佳」って言いながら、そっとその手を取った。指が細くて、しっとりとした、小さな手だった。


四 「ねえ、壁打ち見てていい? 一年でどう変わったか、見てみたいの。さっきのスライス見せてよ」

「えー、いいけど緊張しちゃうな。上手くできるかな?」って言って、僕は壁に近づいて、フォアで球を出し、跳ね返ってきたボールをバックで上から下に、「キャッ!」とカットして壁に打ち返す。ボールはライン上に当たって返り、それをまたカットしてライン上に、ああ、できるな、いつもどおりだ。何度も何度もライン上に当て、僕は一歩も動かずマシンみたいに打ち続ける。

「すっごーい! 全部一点に当たってるじゃないの? それに、なんか地を這うみたいな打球よ。珍しい球筋よね。あと、前傾のフォームがカッコいい。打つときボールを流し目で見るのがなんともいい」

「はは、ありがとな。この一年こればっかりやってたから、上手くもなるよ。ストレートしか打てないんだけどさ」

「え? なんで。壁打ちしかしないから?」

「そう、だってクロスに打ったら、都度ボールを取りにいかないといけないじゃんか。隣の人にも迷惑だし」

「そりゃそうだけどさ。あと、トップスピンは打たないの。バックの」

「打たないんじゃなくて、打てない。ちょっとフラット気味に速い球を打つことはあるけど、順回転は打てない。習ったこともないし」

「じゃ、パスとかどうしてんの?」

「スライスでストレートに打つか、対角線にロブ打つだけ。たまに牽制のためにスライスでクロスに打ってみるけど、球が遅いから大抵拾われてネット際にドロップボレー落とされるな」

「まあそうなるわよね。コンチ(ネンタルグリップ)じゃショートクロス打ちようがないもんね。いつか厚い握り覚えないと、ずっと弱点のままだわ」

 杏佳は、両手を腰に当てて、口を一文字にして「むーっ」て顔して考えてた。あ、えくぼ美人なんだ。いいじゃないの。


「それじゃ、フォア見せて。また私球出すわ」って杏佳が言いながら、僕の反対側に移動した。

「それじゃ、いくよー」って杏佳が球を出し、僕は薄い握りでフェイスを地面と平行に振り、ボールは低く飛んで正確にラインの少し上に当たった。

「OK。今度は少し強く」 杏佳が少し強めに球を出し、僕は前に体重移動しながら、ハードヒットする。ボールは勢いよく、ライン上にバシっと当たって跳ね返った。

「いいじゃない。今、薄い握りってあんまり見ないけど、なんかエレガントよね。ラケットが小さいとなおさらそう感じるわ。でも、やっぱりスピンは打てないの?」

「うん、ちょっと擦り上げるくらい。でもあんまり回転かかんないな」

「うーん、そしたらね。打つ前に膝折って、伸ばしながら、ラケット少し上に振り抜いてみて。うん、そう、それでいい。それでやってみて」って言って、杏佳が少し優しい球を出す。僕は、言われた通り、膝を折った低い姿勢から、起き上がりながらラケットを強く上に振り抜く。って、あれ、上の方に飛んだボールが、壁の前で鋭く落ちながらラインのはるか上に当たり、順回転がかかってるから大きく跳ねて僕の前まで返ってきた。


「なんだ。打てるじゃない。いいスピン。フォアなら、なんとかなりそうね」

「え? なんで。コンチのままなのに」

「スイングじゃなくて、膝で回転かけたのよ。膝折って、起き上がりながら打つと、平行に振ってるつもりでも、フェイスの軌道が斜め上になるわよね。だからスピンかかるのよ。厚いグリップみたいな、グリグリのトップスピンは無理だけど、ショートクロスはなんとかなるんじゃない?」

「ああ、そういうことか。これは驚いたな」

「実戦で使うにはもう少し練習必要だろうけど、壁打ちでも練習できるからやってみなよ。跳ねてくるからさ、さっきのスライスみたいに何球も続けて出来るわよ」

「おー、そうか。ありがとな。目からうろこだな。練習してみるよ」


「じゃさ、サーブ打ってよ。あのサーブ」

「いいよ。サーブだけは得意だからな」

 僕は、何度か縦振りして、二、三球、軽く壁に打って、

「そんじゃ、打つぞ」って言って、スッとトスを上げ、身体を反らし、そこから前傾しながら肘をボールにぶつけにいき、最後にシュッと縫い目を撃ち抜いた。と同時に、壁のライン上で「コポーン!」て音がして、ボールが力なくポトっと落ちて転がってきた。

「ああ、ボール割れちゃった。ノンプレッシャーのボールはすぐ割れるな。あと一個しかないや。フラットサーブもう終りね」って言ったら、

「すごーい! ブラボー! すごいサーブ。あれ二五〇㎞くらい出てるんじゃないの? もう見えないわよ。ボールどころか、ラケットもよく平気ね」

「ああ、そうだな。ラケットは去年サーブで一本折れた。あと二本しかないから大事に使わないと」

「あれ打たれちゃ、相手はたまんないわね。打点が高いから、角度ついて全部入るのね。今身長いくつあるの?」

「今一九六㎝。まだ少し伸びてる。二mは恥ずかしいから勘弁して欲しいな」

「一九六‥‥‥。サイズがなくてフラット打てない人がほんとに気の毒になってくるわね」

「なんでサイズがないとフラット打てないの? 速い奴一杯いるぜ」

「んなこと分かんないの? 背が低くて、打点が低い人が速いサーブ打ったらどうなるのよ。ネット超えてから」

「‥‥‥ああ、遠くまで飛ぶのか。そうか。パワーがあっても、物理的にサービスラインに収まらないのか」

「そうよ。だからみんな仕方なくスピンサーブ打ってるんじゃないの。そしたら、次、スライスサーブ打ってよ。インハイ予選で最後に打ったやつ」


 僕は、トスをほんの少し外にあげて、ボールの左側を擦るようにサーブを打ち出した。イメージは対角線だ。ボールは少しだけ横にスライドして、ライン上にパシンと当たり、斜め横に跳ねていった。杏佳が追っかけて拾ってくれる。

「いいじゃない。アドコートのサーブはもう七割がたあれでいいんじゃない? 仮に相手が届いても大きくコート外に出てるわけだから、オープンコートにボレーしとけばいいんだもんね。だけど、あれだとサイドラインから外にフォルトすることも多いでしょ?」

「うん。スピードつけてクロスに打ってるからしょうがないなって、諦めてたんだけど」

「ボールの真横じゃなくて、気持ちその上を擦ってみなよ。ラケットの軌道は横じゃなくて斜め上。ほんの少しでいいから」


 僕は、再びトスを少し外側にあげて、今度は、ちょっとだけ軌道を斜め上に、そしてボールの左上を擦る感じで振りぬいた。そしたら、ボールはスライドしながら、「クッ」と鋭く落ち、ラインのずいぶん下に当たり、また転がっていった。

 杏佳は、ボールを拾って返しながら、

「ああ、いいじゃない。ボール落ちたでしょ? 横回転だけじゃなくて、縦回転の要素も入ったからね。『トップスライス』って言う人もいるわね。野球で言う『縦スラ』ってやつなのかな。ボールの上を擦る分、最初のうちは下に飛ぶのは仕方ないから、練習するといい。これが打てたら、もっと手前のサイドライン狙えて角度もつくし、ネット超えて落ちるから安定するわよ」

「うん、これいいな。ありがとう。練習してみる」

「もう少し握り厚くして、もっと擦り上げるのがスピンサーブ。バウンドしてから逆方向に高く跳ねるようになるわよ。まあ段階踏んだ方がいいから、まずはトップスライスからね。私もまたこの壁来るだろうから、それまでフォアのスピンとトップスライス練習しておきなよ。できるようになったらまた次の教えてあげる」


五 「ねえ。せっかく誰もいないんだから、スペース縦に使ってラリーしようよ。裕の自転車ネットにしてさ」って杏佳が言ってきた。

「いいな。じゃ、チャリ取ってくる」って応えて、金網から出て、自転車を引いて戻ってきたら、杏佳はパーカー脱いでアイボリーのTシャツになっていた。左手首には白のリストバンド。シャツから除く真っ白な首筋と両腕が眩しいな。だけど何よりこの胸が魅力的。想像してたよりずっと大きかったな、って思ってジーっと凝視してたら、

「‥‥‥どこ見てんのよ?」って、睨まれちゃった。

「いや、ごめん。どうしても視線いっちゃうな。以後気をつける」

「‥‥‥別に、見たっていいわよ。だって見たいんでしょ?」

「まあ、それはそうなんだけどさ」

「それでどうだった?」

「え?」

「私の胸、どう思った?」

「えー、また正直に言うの?」

「そりゃそうよ。だって、『ごめん』って言うくらいなんだし、どう思ったのかすごく気になるじゃないのよ」

「うん、想像してたよりずっと大きかったなって、だけど全体のバランス崩すほど大き過ぎないのがいいなって、ウェストが細いからアンダーが出て高さがあって、なんか作り物みたいにツンって盛り上がってて、とっても素敵な胸だなって思った。数字はよくわかんないけど、小柄だから、大きく見えても八三くらいなのかな。だけど実物見てみないと分かんないな。Tシャツが邪魔だな、って思った」って言ったら、杏佳は、

「バ、バカ! 何てこと言い出すのよ! 脱がないわよ!」って、両手握って肩を怒らせて真っ赤になっちゃった。

「いや、俺だって脱いでくれなんて不躾(ぶしつけ)なこと言わないよ。初対面なんだし。あ、二回目か。だってお前が正直に言えって言うからさ」

「うん、まあ、それはそうなんだけど」

「もっと言うとな、肩幅も結構あって、胸大きくて、ウェスト細くて、スコートがフワってしてて、そこから長い脚が伸びてて、スタイル完璧なうえに、色白で美人で、小顔で栗毛で、すごく可憐だなって、まるでテニスの妖精だなって、思ったぞ」

 そしたら杏佳は、

「‥‥‥うう、もう勘弁して」って言って、耳まで桃色に染め上げて、黙りこんじゃった。両手で顔覆って、つま先で「の」の字書いてる。こんなの初めて見たよ。

「お前、ホントに守りに回るとポンコツなのな。何もできなくなるのな」

「う、うるさい! ほら、ラリー始めるわよ! 後ろ下がって!」


 僕が、「この辺かな?」って後ろに下がって、自転車の向こうの杏佳に手を挙げたら、「それじゃいくよー。フォアに出すからフォアに返してねー」って言いながら、薄いグリップで丁寧に球を出してくれた。僕は、それを地面と平行にフラットで打ち返す。低い弾道で自転車を越え、杏佳のフォアハンドに返った。

 あ、今気づいた、球出しと全然違うフォーム。杏佳はオープンスタンスになり、分厚いウェスタングリップで、ボールを下から上に「シュ!」っと擦り上げた。トップスピナーなんだ。小柄だけどすごく大きなフォーム。ラケットが回転してフィニッシュで肘が高く上がり、スコートがフワっと広がって、白く長い脚が宙を舞う。ああ、ホントにテニスの妖精だな。バタフライだ。


 杏佳の打球は自転車のはるか上を越え、そして急激にストンと落下したあと、ギュンって大きく跳ねあがってきた。これはすごい。打球が生きてる。本物の選手の球だ。僕は、すぐ二歩下がり、落ちてきた球をまたフラットで低く返す。

 杏佳は「いいねー。それじゃ次スピンで」って言いながら、今度は少し打ちやすい素直な球を打ってくれる。僕は、さっき教わった通り、膝を落とし、それを伸ばしながらラケットを少し上に向かって振りぬく。今度は自転車のやや上を通過して、そしてキュッと落下し、杏佳のフォアに返った。

 「オッケー。じゃ、次フラットで、スピンと交互にね」って言って、杏佳がちょっと緩い球を返し、僕は言われたとおり、スピンで返す。


 ああ、楽しい。ラリーってこんなに続くものなんだ。スピンとフラットを交互にクロスに打ちながら、「これって、すごくいい練習なんじゃない?」って思ってたら、杏佳は、「次、バックいくよー」って言って、バックに返してきた。僕は前傾姿勢を作って、スライスで上から下に「キャッ」とボールを切ると、自転車すれすれの低い弾道でスーッと杏佳の付近まで滑っていった。

 杏佳は、「くっ」って声立てながら、なんとかコンパクトにはじき返し、僕はまた同じスライスを返す。だけど今度は少し浅くなった? そしたら、杏佳は、ボールを低い位置から擦り上げ、長いトップスピンを打ってきた。僕は後ろに下がってスライスで対処するが、ボールの回転に負けて、少し浮いてしまう。

 あ、気が付かなかった。杏佳はネットに詰めていた。僕が打ったヘロヘロのスライスを、薄いボレーのグリップで、「シュッ」っと擦ってドロップボレー。小さくあがったボールがスローモーションみたいに自転車のカゴに「ポン」って収まった。

 あー、やられた。お見事!


「ゲームセット&マッチバイ杏佳!」 杏佳が肩をすくめていたずらっぽく笑いかけてきた。

「なんだよー、それ。一ポイントマッチかよ。はは。だけどお前ホント上手いな。やられたよ。いい選手だ。ボールが生きてた。グンって跳ねてきた。最後ご愛敬でカゴに入れたのも秀逸」

「ふふん。そうよ。でもあんたのフラットとスライスもすごかったわよ。ネットすれすれなのに伸びてきて、しかもスッて低く滑るの。あれ、現代テニスには存在しない球筋よ。なんかレーザーみたい。重いし、対処に困った。だけど、やっぱりせめてバックのスピンは覚えないとダメね。決めのバコーンってのはスピンじゃないと打てないしね。また今度教えてあげる」

「へー、そうか。じゃ、よろしく頼むよ」

「ねえ、もうちょっとラリーしよう。なんか久しぶりに本気で打てて楽しいわ」


 僕と杏佳は、自転車挟んで、延々とラリーを繰り返した。相手が上手いと、こんなに続くんだ。しばらく打ち合っているうちに、だんだんお互いの球筋が分かってくる。きついスピン打ちそうなら予め下がって守りのショットを打ち、逆に緩く短くなったら力強く打ち込む。杏佳は予め体制低くしてライジングであわせて返してくる。僕は「おー、よくしのいだ。じゃ、リセットね」って言いながら優しい球を返す。それをまた杏佳がハードヒットして、今度は僕がしのぐ。二人の息が合ってきた。お互いの考えが伝わるようになって、それをやり取りしながら、気持ちをボールに乗せて往復させる。

 ああ、楽しいな。幸せだ。まるで、夢みたいな時間だ。


 って、思ってたら、もう一人壁打ちの人が来ちゃった。しょうがないな。これにてゲームセット。楽しい時間はあっという間だな。

「ありがとう。今日はこのくらいにしよう。すごく練習になった」って杏佳に声かけたら、

「私もこんな全力で打ったの久しぶり。裕、あんた、思ったよりずっと上手なんじゃない。私もすごく楽しかった。ありがとうね」って返してくれた。 


六 そのあと、壁打ちコートを出て、自販機でアクエリアス買って、二人でベンチに腰かけた。

「あ、おにぎりあるから半分あげる。俺がさっき作ったんだ」って言って、半分こにしてラップの方を杏佳に手渡した。杏佳は、

「えー? 嬉しい。お腹空いちゃった。半分でも結構でっかいね」って言いながら、一口かじって、

「ああ、塩気きつくていいわねー。身体動かしたあとはこういうの欲しくなるよね」って、また小首傾げて笑顔で僕を見てきた。栗色のポニテが揺れてる。可愛いな。

「うん、そうな。俺はこれ、『スポーツマンおにぎり』って呼んでる。白くなるくらい塩振るんだぜ」

「へー、そうなんだ。すごく美味しいよ」


 暖かい春の陽光に照らされて、二人でアクエリ飲んでおにぎりをかじってる。穏やかな時間だな。会話はないけど、なんかそれでいいって感じがする。前からずっとそうだったような、そんな感じだもん。


「ねえ、あんたの学校、コーチいないの? 選手やるなら、さっき教えたこと、全部イロハのイよ」

「そんな、コーチなんてとんでもない。弱小高なんだよ。三年は俺だけで、あとは二年が四人と一年が二人。休む子もいるから、大体いつも部活は五人くらいだな」

「そ、そうだったのか。じゃ、誰が教えてるのよ」

「いや、だから俺がコーチしてる。球出しばっかりやってる。初心者しかいないし、本気で打つと返ってこないから、つないであげるだけ」

「つ、つなぐだけって。もしかして、コンチで握ってるのはそういうことなの? 初心者の相手ばっかりやってるから?」

「うん。ワングリップは握り替え要らないから楽だしな。そればっかやってたら、それしかできなくなった」

「そうなんだ。なんか強い主義主張があってやってんのかと思ったら違うのか。じゃ、そのR22と、予選で着てたパツパツのウェアは?」

「どっちも親父が大学のときに使ってたんだ。ウチに三本あってさ。勿体ないから使うかって。でも、これいいラケットだぜ。小さいけど使いやすい」

「そ、そういうことだったのか。クラシカルって思ったのは本当だった。四〇年前の選手だったのか」

「いや、俺も別にこれじゃなくてもいいんだけどさ。一年のときショップに行ってもよくわかんなかったんだよ。初心者だったしな。そんじゃお下がり使うか? って」

「え? 初心者? ちょっと待って、あんた高校からテニス始めたの?」

「そうだよ。中学のときは美術部だった。だから俺、漫画上手いんだぜ」

「‥‥‥なんか眩暈(めまい)してきた。じゃ、あんたキャリア一年ちょいで、真司君追い詰めたの? 去年インハイで一六いった選手だよ」

「えー、『追い詰めた』って、なんか少し差があったように思うけど。実際、俺、あの頃、やっとまともにストロークできるようになった程度でさ、とにかくサーブとボレー以外は通用しないから、それだけで勝負してたら、するすると六回戦まで行けちゃたんだよ。さすがに手塚レベルには通用しなかったな、ははは。まあそれでもうちの学校じゃ奇跡みたいなもんだ」

「こ、これが才能。これが素質‥‥‥。なんか、すごく持て余してるけど、勿体ないけど‥‥‥。てか、あんた、そもそも学校じゃ練習になんないでしょ?」

「なんないな。それにウチの学校、ソフトテニスが強くてさ、硬式は弱小だから、週二回しか練習できないんだ。それも二時間。だから、週二回くらいここで壁打ちしてる。これが俺の練習場所かな。でもこれでずいぶん上手くなったんだぜ。今年はインハイ行けるんじゃないか?」

「か、壁打ちでインハイって人、聞いたことないよ‥‥‥。それじゃ、学校の部活は出ないでテニスクラブで練習したり、それこそW実業に出稽古に来たらどうなの? あんたなら歓迎されるわよ」

「いやー、いいよ。まあ、部員は、みんな下手なんだけどさ、可愛い連中なんだよ。俺が面倒みないと、あいつらだけじゃ練習になんないだろ。それにずっとコーチしてたら、ほんのちょっとずつだけどみんな上手くなってきたんだぜ。W実業の足元にも及ばないけどさ、今年は団体戦も一つ二つ勝てるんじゃないか?」

「そうか、それであんな人気あるのね。そりゃそうよね。‥‥‥それじゃさ、平日の夕方って、いつが空いてるの」

「部活は月木で、水と日はバイトが入ってるから、火と金かな」

「え? バイトって何やってんの?」

「府中駅の東側にある『緑寿司』で寿司握ってる。もう一年以上やってるから、ずいぶん上手になったぜ。中高年女性に人気でさ、日曜日なんて固定ファンが必ず来てくれるんだ」

「そ、それはこんな長身のイケメンが手ずから寿司握ってくれたら嬉しいわよね。なんか分かる気がする‥‥‥」


「で、なに平日の夕方って?」

「ああ、私ね、府中市のテニスコートに個人登録してるから、週末は抽選だけど、平日なら簡単にコート取れるのよ。例えば、金曜日コート取れたら、あんた練習に来る? 付き合ってくれる?」

「えー、それは願ってもない話だけどさ。なんか悪いじゃないか。俺、お礼なんてできないぜ」

「別にお礼なんていいわよ。私がそうしたいの。私の練習にもなるしね」

「てか、なんでそんなことまでしてくれるの? 今日初めて会ったばっかりみたいなもんなのに、なんかワケ分かんないだけど」

「そ、それは‥‥‥いくつか理由はあるんだけどね、こんな素質抜群なのに、こんな欠点だらけの選手見たことないから、ちゃんと育ててみたいのよ。ちょっとだけいじれば次々にステージ登っていけそうなのに、指導者がいないから持て余してて、なんか歯がゆいのよ。インハイ予選まであと二カ月半だから、どこまで完成度上げられるか、やってみたいの。まあ、RPGの育てゲーが好きなせいもあるかもだけど。それが大きな理由の二番目ね」

「二番目って、じゃ、一番はなんなんだよ。教えてくれよ」って言ったら、杏佳は立ち上がって、両手後ろに回して前かがみになり、シューズの踵トントンしながら、

「えー? そんなの内緒ー」って、人差し指を唇に立てて言ってくるから、

「なんだそりゃ? 俺には正直に言わせたくせに。ずるいぞ」って返したら、

「女の子にそんなこと言わせないの。時期がきたら、ちゃんと確かめられたら、そんとき言ってあげるわよ」って、尖った綺麗な鼻に小じわ寄せて釘を差してきた。

 OH! コケティッシュ! これは抵抗できない。是非、また今度にします。


「それじゃ、ラインと携帯番号交換しよう。また連絡するね。今日はいい日だったわ。まさか裕が府中に住んでたなんて全然思わなかった。初めて早朝にここ来てみたけど、ラッキーだったな。『早起きは三文の得』ってやつね。じゃ、またね」って言って帰りそうになるから、

「ちょっと待てよ。まだ聞いてないんだよ。お前はどこに住んでんだよ。府中なのか?」

「ああ、そうだ。さっき言いそびれたわね。私も府中市民。分倍河原のH病院の横の家に住んでる」

「あー? H病院の横って、ええっ、あの大豪邸? お前まさかH病院の令嬢?」

「えー、まあ、そういうことになるのかな。親が偉くても私には関係ないけどね」

「そ、そうだったのか。超金持ちなんだ。お嬢様なんだ。姫なんだ」

「ちょっと、なんかそんな目で見ないでよ。今さら態度変えるのなしよ」

「え? なんで俺が態度変えるの?」

「だって、そういう人、これまで一杯いたから‥‥‥」

「なんだかよく分かんないけどさ、親が誰でも、お前はお前だろ。親が何やってるかとか、金持ちかとか、そういうのでお前を見る目を変えたりしないよ。当たり前だろ? 俺が見て俺が評価してたお前の本質が変わったりしないんだから」

「‥‥‥うん、そうよね。絶対そうよね! 裕、去年も思ったけど、あんたって気持ちのいい男よね。じゃ、また近いうちに会おうね!」って、杏佳は両手で僕の右手を取ってブンブン握手して、ああ、あんときと同じだ、胸の前で手を振って、ニッコリ笑って走っていった。あっちは駐車場だから、車で来てるんだな。

 

 と思ったら、途中でクルって振り返って、口に手をあてて、遠くから、

「そうだー。忘れてたー。八三よー、私! 裕、ビンゴ!」って叫んでくるから、

「え? 何のことー?」って聞き直したら、

「バカ! 思い出しなさいよ。じゃね!」って言い残して、杏佳は去っていった。


 あー、行っちゃった。なんか風のようだったな。現実なのかこれ。夢でツンデレ妖精を見たんじゃないのか? ああ、だけど、八三って数字は覚えてる。バスト八三なんだ。よく当たったな。

 なんか杏佳、すごくチャーミングだけど、すごく振り回されそうな気もする。

 まあ、でも、今日はこれでいいか。僕も杏佳に再会できていい日だった。よな?

 どうせまた会えるんだから、杏佳のことはちょっとずつ理解していけばいいや。

 

 とりあえず、明日からフォアのスピンとトップスライスだな。部活で試してみよう。返ってこないかもだけど。はは。


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