第5章 決めろ、インターハイ! 昭和テニスマン人生最大の大勝負!
第五章 ジーニアス(天賦の才) 六月
一 団体戦が終わったら、一か月でシングルのインハイ予選だ。
六月に入ってすぐ、組み合わせがネットで発表され、杏佳の予想通り、僕は東京都の第一六シードになり、ベスト一六で第一シードの手塚真司と対戦することになった。つまり、どっちかがインハイを逃すことになる。
僕は、インハイ予選に集中するために、部活のみんなに謝って、月曜日は杏佳と平和の森で練習させて貰う事にした。金曜日も杏佳と練習するから、週二回だ。木曜日は学校で部活だけど、杏佳も手伝いに来てくれて、ホントに感謝で頭が上がらない。このお礼は結果を出すことで返さないといけないな。
二 四月からずっと杏佳に見て貰って、僕は全体に二ランクくらい腕を上げた感じだ。もうスピンサーブは自在に使えるようになったし、フォアのスピンも大丈夫。試合で十分使えるレベルだ。バックのスピンだけは、まだ精度が良くない。ストローク戦ではどうしてもスライスに頼ることになる。なのでバックは、当面、リターンとパスだけ、スピンで打つことにした。
そして、毎回の練習内容も、手塚戦を想定したものとなった。
「今日は、セイバーの練習しよう」
「セイバーって何?」
「SABR(セイバー)。Sneak Attack By Roger(ロジャーの奇襲)の略ね。史上最強ロジャー・フェデラーの得意技。まあ、要するにリターンダッシュなんだけどさ。特にセカンドサーブなんかで、内緒でススってサービスラインまで詰めておいて、ライジングでポンって相手コートに深く返して、そのままネットに詰める戦術。あんた、バックのスピンのリターンできるようになったんだから、これ使わない手はないわよ。真司君はサーブはあんまり強くないから、ファーストからやってもいいと思う」
「サービスリターンをそのままアプローチにしちゃうのか。だけど、いいサーブ入ると『弾かれて終わり』とかなりそうだな」
「まあ、そうなんだけどね。安全にリターンしても、ストローク戦に持ち込まれて、振り回されて、どのみち最後にやられるでしょ? だから確率半々以上ならよし、って思ってセイバーやればいいのよ。別に真ん中に返ったっていいの。カウンターのリターンだから相手も対応難しいしね。とにかく真司君には十分な態勢でショットさせないことが大事」
「なるほど。守備に回ったら、どっちみちやられるから、こっちから先に攻撃仕掛けるんだな」
「そのとおり。それに、これが決まりだすと、フォルトが増えるわよ。際どいとこ狙って強いサーブ打たないとセイバーでやられちゃうから」
「ああ、なるほど。そうだろうな」
「それじゃ、練習してみよう。あんたサウスポーだから、真司君に限らず右利きの選手は、スライスサーブをあんたのバックに打ってくる。それをブロックするように、カウンターでストレートにリターンしながら前に詰める。ってのが基本的な形になるわね。じゃ、やるわよ」
サービスライン付近から実際にリターンしてみると、結構難しい。サーブが速いし、そんなに跳ねないから、「ポポンッ」ってハーフボレーみたいな形になって、方向も長さもコントロールしにくい。もちろん、ネットしたりオーバーしたりミスも頻発する。だけど、一〇球、二〇球と打つうちに、少しずつ慣れてきた。ホントにバックスイングゼロで、当てて押し出すだけ、っていうイメージでいいんだな、ってことが分かってきた。
「ああ、いいじゃない。ちょっとずつ出来るようになってきた。もっと数打って覚えよう」
「これいいな。相手からしたら、サーブ打ってすぐ深く返ってくるから、慌ててパス打たないといけないんだもんな。浮いた球が返ってきそうだ」
「そうして、いくつかうまくいくと、そのうち必ずフォアにサーブ打ってくるようになるから、山張ってフォアの握りで待ってるといいわよ。それをスピンで相手バックに打って前に出ればいいんだ」
「予想と逆になったら、瞬時に握り替えるの大変そうだけど、まあもともとがギャンブルみたいな戦術だからな。そうなったら『なんとか返ればいいや』くらいに割り切っておくか。ネット付かずに後ろ下がったっていいんだし」
「そうね。裕は、まずサービスゲームは落とさないから、四つあるリターンゲームの一つを取ればいい、くらいに考えとけばいいんだよ。それで八―六か八―五で勝てるんだから。‥‥‥それじゃランダムで出すよ。今日のところはなんとか返せる程度でいいから、徐々に精度上げていこう」
「そうだな。よし、来い!」
三 「はーい、それじゃ、最後にゲームやろう。今日はね、リターンは全部セイバーでね。あと、サーブのバリエーションも広げよう。じゃ、まず裕のサーブからね」って杏佳がボールを放ってきて、いつもの四ゲームマッチ開始。
最初のポイントは僕が取り、続けてアドコートからサーブの態勢に入ると、杏佳が、「それじゃスライスサーブのトスを上げて、だけどセンターにフラットを」って言ってきた。
「そんなの練習でもやったことないぞ。いきなりじゃ無理だろ」
「大丈夫よ。ボールの左側擦らないで、そのまんまフラットに打てば自動的に真ん中にいくわよ。やってみなって」
「ホントかなー。まあ、じゃ、一応、やってみるか」って言いながら、僕は身体の少し外側にトスをあげ、擦りたくなるところを抑えて、逆に肘を内転させながら打ち抜いた。って、あれ? ホントにセンターに行ったぞ。ライン際に綺麗に着弾して、待ってた杏佳が僕のフォアに返してくる。そんな大したリターンじゃなかったけど、僕は一瞬ボーっとしてたので、反応が遅れ、慌てて返球するもネットにかける。
杏佳がネットのとこまで出てきて、
「ほらー。ボーっとしてないの。ネットに詰めなさいよ。今の前に出てきてたら簡単に決められたでしょ? 集中、集中」って釘を差してくる。
「ああ、いや、そうだな。センターに打てたんで、ちょっと驚いちゃってさ」
「これ、すごく使えるはずよ。みんな、トス見た瞬間に『来る!』ってススッとバックに寄るでしょ。そうしないとあんたのスライスサーブ取れないからね。だから、若干コースが甘くなっても、同じトスでセンターに打てたらすごく大きい。逆取られてまともなリターンはできないし、次からセンターもケアして、バックに寄れなくなるから、スライスサーブがさらに活きてくる」
「ああ、そうか、それが駆け引きなんだな」
「そう。裕のスライスサーブは強力だから、まずはスライスばっかり打ってればいいけど、まともなリターンが返って来るようになったら、センターも混ぜること。そうすると、またスライスもリセットされるわよ」
「なーるほど。勉強になるな。そんなのこれまで誰も教えてくれる人いなかったよ」
「で、さらに一歩進むと、相手ももう両方ケアするの放棄して、山張って左右のどっちかに飛ぶようになるから、そうなったら、こないだのH高戦の初球みたいに、真正面のフラットサーブを打つといい。左右どっちかに飛んでるんだから、真ん中に打っとけば大丈夫。仮に飛んでなくても正面のサーブは返しにくいからチャンボが返ってくるしね」
「おー、そうか。サッカーのPKと同じ理屈だな。どうせ飛ぶんだから真ん中蹴っとけ、みたいな感じか。杏佳師匠、ホントに勉強になります。それ、早速頂きます」
「うん。インハイ予選まであと三週間だから、残り六回の練習で詰めていこう」
と言いつつ、
「ゲームセット&マッチバイ杏佳! スコア四―〇!」
「ひー、またまた完封されたー。‥‥‥もう杏佳師匠がインハイ予選出た方がいいんじゃないでしょうかー?」
「あはは、そんな気弱なこと言ってんじゃないわよ。これだけハンデ貰ってるんだから勝てるの当然でしょ? だけど、今日はあんたがセイバーやってきたんで、キープするの大変だったわよ。前からサーブする分、カウンターで深く返ってくるときついからね。まだセイバーの精度が低いからなんとかキープ出来てるけど、そのうちゲーム取られるようになるんじゃないかな」
「仮にリターンで二ゲーム取っても、二―二の引き分けが精いっぱいじゃないのか?」
「そうだけど、実際の試合はサーブのコースも球種も自由に打てるんだから、練習よりずっと楽でしょ? 私と二―二なら、実質四―〇だよ」
「ああ、そういう見方もあるか。まあ、そうかもな。それじゃまずは引き分けを目指そう。だけど本番まで一回くらい勝つぞ」
「へへーん、まあせいぜい頑張りなさいよ。べーっだ」って言いながら、杏佳は綺麗な黒い瞳をベローンって指で下げて、赤い舌をチロって出してきた。
「キーッ。悔しいー。憎たらしー。覚えてらっしゃい!」って返したら、
「あー、もう忘れた!」だって。はは、やっぱり杏佳は可愛いなー。
四 六月二九日(土)
杏佳の車で、首都高に乗り、レインボーブリッジを渡って有明テニスの森公園に向かう。一年ぶりの有明だ。
前週に昭島市の昭和の森テニス場で三回戦と四回戦が行われ、シード選手の僕は三回戦から登場。ちなみに、K高の他の部員は、雄介が二回戦に進んだのみで、あとは全て一回戦で姿を消している。
三回戦と四回戦の相手は、どちらも都立高校の選手で、本気でサーブを打つとあんまり返ってこず、セイバーもバンバン決まって、相手がフォルトばかりになったので、大勢が決してからはサーブを抑えてボレーを中心に組み立て、セイバーも封印してリターンゲームはストローク中心に戦った。練習台に使ったみたいで悪いんだけど、やっぱり試合で試さないと身に付かないので、勘弁して欲しい。なので、どっちも数ゲームずつは落として、八―二と八―三だった。これで東京都ベスト三二。会場を有明に移して、今日は、五回戦から決勝戦までが行われる。
「そういえば、W大の推薦、立候補したの?」
「うん、した。全部で五人いたって聞いたな」
「ライバルいるの?」
「うーん、どうだろ。成績は俺が一番いいんじゃないかな。もともと一人強力なライバルがいたんだけどさ、そいつにはK大の政治の推薦に回って貰ったんだよ。水泳部の主将で生徒会長。クラスメイトで仲がよかったんで、談合して志望校分けたんだ」
「あっぶなーい。生徒会長って、そりゃ強力よね」
「うん。助かった。かぶってたらヤバかった」
「それじゃ、今日インハイ決めて、推薦確実にしよう」
「そうだな。受験勉強は全然してないし、推薦ダメだったら浪人決定だもんな」
有明に着いて、駐車場に車を入れ、杏佳が車用のスニーカーを脱いで、五㎝の黒いヒールサンダルに履き替える。今日の杏佳は少し色落ち加工したストレートのブルーデニムに、上は黒のタンクトップとプラチナのネックレス。そして、「日焼けしたくないから」って言って、薄いパープルのふんわりしたシャツを羽織り、髪はアップにして大きなおだんごにまとめている。
露出度少な目とはいえ、タイトなタンクトップなので、鍛えられた綺麗な胸が屹立して、ちょっとだけど白い谷間も見えて、そこにプラチナのオープンハートが埋まって、キラっと光ってる。いい、これ、いい。大人セクシー。だけど、部員どもには刺激が強すぎるな。見せたくないな。
ケータイで雄介に連絡を取り、部員たちと合流。六人全員が応援に来てくれたんだ。
「裕先輩、杏佳コーチ、おはようございまーす。うわー、コーチ、今日もまた一段とお美しいですねー。目のやり場に困っちゃんですけど」
「ありがとね。別に見たっていいわよ。そういう服なんだし」
「おお! それじゃ遠慮なく拝見させて頂きます!」
「おい‥‥‥。調子に乗ったらいかんぞ。谷間は俺んだからな。ほかはいいけど。ははは」とか言いつつ、試合の行われる九番コートに移動する。もう手塚は一番コートに入ってた。第一シードだから、一番コートで試合やるんだな。
九番コートに着くと、まだ前の試合をやっていた。だけど七―二だ。もうすぐ終わるな。対戦相手らしき選手が立って見ていたので、
「次、試合ですね。宜しくお願いします」「こちらこそ。ずいぶん大きいですねー」って言い合いながら握手した。割と大きい選手。一八〇近くあるな。M大付属のユニフォーム。ただ、第三シードが同校の選手だったから、№2か。どうも二年生っぽいな。もちろん都の三二に残るくらいの選手だから、油断は禁物だ。
お、試合終わったぞ。さあ、行こう。僕は、レクシスを張り替えたばかりのブイコアと試合球を持って、きれいな青と水色のツートンカラーのハードコートに足を踏み入れた。もちろん、今日もパツパツの昭和ウェアだ。こないだと色違い、黒いラインのタッキーニ。マッケンローみたいに華麗なサーブ&ボレーを決めるぞ。
五 試合が始まった。裕は、今、ウォームアップしてる。緊張した感じはない。相手は結構大きな選手で、ストロークはオーソドックス、ボレーも上手い。ああ、サーブもいいのね。偏ったところのないオールラウンダー。
フィッチをして、サーブは裕から。
裕のサーブはこの一カ月でさらに良くなった。ジムで体幹を鍛えている成果か、軸が安定してコントロールが良くなり、フォルトが減った。スピードは相変わらずだし、腹筋と背筋の筋力が上がって、スピンサーブの落差とバウンドが大きくなった印象だ。
「8ゲームマッチプレイ!」の声が響き、裕は「お願いしまーす」と言いながら、スッとトスを上げる。身体を反らせ、ラケットを直立させて、一瞬静止し、そこから鍛えた腹筋で一気に前傾しながらボールに肘をぶつけていく。
「パンッ!」って、炸裂音とともに、閃光が相手を襲う。挨拶替わりのフラットサーブを正面に打ち込んだ。正面でいいならば、もう九割方入る。
あ! だけど反応した。触った。なんとかバックハンドで当てた。ボールは力なく上に飛び、裕はネットに詰めて叩こうとする。が、リターンはそのまま落ちてきてネットにかかった。一五―〇。
裕はアドコートに移動して、予想通りトスを少し外側にあげる。スライスサーブ。相手も反応して予めバックに寄る。しかし、裕のサーブにはそんな想定も通じない。ネットを超えてから鋭く落ちたボールは、サイドライン内側で跳ね、さらに外へ。相手選手も必死にラケットを伸ばすが、当てるだけで精一杯。力ないリターンがサイドを割った。三〇―〇。でも、この選手、届くのね。M大付属の№2。割とやるか?
デュースコートから、今度はトスを背中にあげてスピンサーブ。そうね、この試合の間にいろいろ試しとこう。だけど、試合開始直後で身体がキレてない。スピンのかかりもイマイチで、コースも正面に行っちゃった。それでも逆方向にボヨーンと跳ねて、相手はエンドラインの二mくらい後ろからリターンを強いられる。裕はドロップを選択せず、バック側に深くボレーを返す。相手は必死に追うが、これはもうロブだろう。予想通り、コンチのバックで上に高く上げてきた。もちろん裕は予想してて、もうサービスラインまで下がっている。高い。いったん落とせ。落とした。そしてグラウンドスマッシュをオープンコートに叩き込む。ナイス。これで四〇―〇。
そして、アドコート。裕は、また外側にトスを上げる。相手が今度は大きくバックに寄る。あれかな? そうだ。裕はボールをカットせず、そのままフラットでセンターへ。少し甘いコースだったけど、バックに寄っていた相手は、「あー」って見送るしかない。サービスエース。一本目。ゲーム裕。スライス返されるまで続けていいって言ったのにね。まあいいか。練習ね。
相手にとってはすごくダメージの残る一ゲーム。実力差を痛感、これは強い、サービスを破るのは至難、ということは自分のサービスキープは絶対条件、と思いながらコートチェンジしてるはず。
さあ、第二ゲーム。裕はセイバーしない。当然よね。どんなサーバーか分かんないだもんね。相手は長身だけあって、なかなか速いサーブを裕のバックへ入れてきた。裕はスピンの握りでブロックしてバックへ深く返球。前には出ない。相手はスライスで裕のバックへ。しばらくスライスの繋ぎ合いが続く。だけど、裕のスライスは強力だ。上から下に高速スイングで強烈な逆回転をかけ、ボールを相手コート深くに侵入させる。「シュッ」って滑るだけで、全然跳ねない。相手はたまらず四球目が短くなる。裕はそれをスライスでクロスへアプローチ。深い。相手はなんとか追いつき、フォアで無理にショートクロスにパスを放つけど、真ん中に寄り、裕がオープンコートにポンと決める。〇―一五。
この相手、ストロークはそれほど大したことはない。真司君には遠く及ばない。
そうなるとできることは、サーブ&ボレー。相手はアドコートから対角線にサーブを打って前に出る。裕をコートから追い出して一発で決めるつもり。が、フォルト。次はセカンドサーブ。安全にバックに入れて、また繋ぎ合いでしのぐほかない。‥‥‥しかし、そこには裕がいた。
セイバー。バックのスピンでブロックして相手バックへ。不意を突かれた相手は慌ててヘナチョコの返球。ネットに詰めてた裕の餌食に。〇―三〇。
これは絶対ファーストいいとこに入れないとだめだ。「フォルト!」。セカンドも叩かれるから強めに。「ダブルフォルト!」。〇―四〇。気持ちはとても良く分かるわ。
もう裕は無理しない。深く返してストローク戦にお付き合い。フォアとバックのスピンも駆使してる。ちょっと、あんた練習してるでしょ? あ、バックをネットにかけた。もう、まだまだ練習しないとだめね。
裕のミスで一ポイント取られたけれど、相手もミスして、ゲーム二―〇。
第三ゲーム。裕のスピンサーブがコーナーのいいところに落ちた。コートの遥か外まで跳ねて、相手は高い打点でハードヒットするけど、十分ネットに詰める時間のあった裕がドロップボレー。こんなの追いつけるはずがない。一五―〇。
アドコートからは基本通りスライスサーブ。だけどさっきのセンターの残像がある相手は、トスを見ても予めバックに寄れない。慌てて追うも、ラケットの先をボールが通過。エース二本目。三〇―〇。
もう山張って飛ぶしかない。確率二分の一。当たれー! って、そりゃそうなるわよね。だから裕はもう真ん中にバンバンとフラットサーブを叩き込む。どっちかに寄ってる相手は、完全に逆ではないからラケットは届くんだけど、まともに返らない。一本はサイドアウト。四〇―〇。もう一本は弱弱しくネットを超えるも、裕がバックのスピンでクロスへ。だけどアウト。もう、また練習してる! 四〇―一五。だけど、裕は次のサーブをきっちり入れて、相手がリターンミス。ゲーム三―〇。うん。もう大丈夫そうね。
「雄介君。私、一番コート見てくるね。また後で戻ってくる」って言い残して、一番コートに移動。ここは掘り込みになってて、コートの周りの柵に掴まって観戦できる。テニス中継と同じロケーションだ。私はW実業の選手と監督に分からないようにサングラスして日傘を差して観戦。目の前の試合はゲーム六―二。手塚リード。
真司君は、サーブはスピンで確実に入れていく。相手が嫌がるところに打って、有利な返球を待つ。ストロークに絶対の自信があるから、サーブでは無理しない。ストローク戦になってしまえば真司君のペースだ。ボールを左右に散らして、徐々に相手をコート外へ。最後にオープンコートに決めたり、逆ついたり、ドロップショット落としたり、変幻自在だ。足が速い、スタミナもある。テクニックとアイデアに溢れた魅力的なテニス。まさに牛若丸。
だけど‥‥‥、去年からあまり変わっていない。既に完成されているように見える。とてもよくまとまっている好選手だけど、私も同じだったからよく分かるの。残酷だけど、どこかで限界に当たる選手。
真司君、次頑張りなよ。裕は強いよ。
それも、すごく。
じきに試合が終了したので、九番コートに戻ると、こちらは七―二。
あ、二ゲーム取られたんだ。見たら、裕が楽しそうにストローク戦やってた。バックとフォアのスピンをバンバン打ってる。ミスって、「やっちゃったー!」とか頭抱えてる。まったくもう、あんたってば途中からそればっかりやってたんでしょう? あれ、でも、なんか上手くなってるわね。使い物になってる。やっぱり真剣勝負の実戦って、急速にスキルが身に付くのね。
最後は、相手が裕のバックにアプローチ打ってネットに詰めてきたところで、私が、「打て! クロス!」って叫んだのと同時に、裕がドカンとクロスにスピンでパスを放った。あんまりいいコースじゃなかったけど、高速だったので相手のラケットをかすめてコーナーで弾んだ。
「ゲームセット&マッチバイ奈良。スコア八―二で都立K高校奈良裕選手の勝利です」ってコールと共に両選手がネットを挟んで握手。裕が、
「いやー、楽しかったー。またやりたいな。ありがとうな」って爽やかな笑顔でお礼言ってる。 まったく人柄がいいわね。そういうのが肝心なとこで足引っ張らないといいけどね。だけど相手も楽しかったらしく、
「いやー、強かった。すごかった。参りました。またお手合わせする機会があったらお願いします! 次も頑張って下さい!」とか励まされてる。そうよね。裕の傍にいるとなんか幸せな気分になるわよね。弱点かも知れないけど、そこが裕のいいところよね。
五 コートから出ると、杏佳と部員たちが、
「ナイスゲーム!」って言いながら出迎えてくれた。
「ありがとな。杏佳に教わったスキルを全部試せた。ちゃんと全部使い物になった。次に向けて、収穫の多い試合だった」
「バックのスピン、ちゃんと打てるようになったもんね。だけど次は真司君だから、そうそう打ちやすい球は返してくれないわよ。基本はスライスでつないで、十分な態勢で打てるときだけスピン使うこと。さ、次の試合まで少し空くから、お弁当にしよう。前と同じだけど、また作って来たわよ」
「えー、裕先輩、いーなー」と部員たち。はは、いいだろう?。
木陰のベンチに移動して、部員たちは周りにシートを敷いて、みんなでちょっと早い昼食。あ、ここ、去年杏佳が手を振ってくれたとこだ。そんな思い出のベンチに座って、僕は、杏佳の作ってくれた梅干しのおにぎりを、「しょっぺー。うめー。でもすっぺー」って言いながら食べた。
「お、今日の卵焼き洋風なんだ。ベーコンと玉ねぎ、あ、チーズも入ってる。だからケチャかけて食べるのか。おー、うめー。愛情がこもってる。お前、ホントに料理上手なんだな。俺は幸せだよ」って褒めたら、杏佳は、
「いや、まあ、そんな大したものじゃ‥‥‥」って顔赤くして、人差し指で腿になんか書いてる。はは、相変わらず守りはユルユルだな。
「だけどね。おべんと食べたら、ちゃんと試合に向けて気合入れなさいよ。次の試合に、大袈裟じゃなく、あんたの人生がかかってるのよ。次勝ったら、W大の推薦貰って来年私の後輩になれるのよ。負けたら、あんた全然受験勉強してないんだから、浪人決定よ。たぶん。そのくらいの気持ちで」
「うん。分かってる。まあ、一浪してお前の二つ後輩ってパターンもあるかもだけどな」
「んな、逃げ打ってんじゃないの! 誕生日二週間しか違わないのに二つ後輩になったら恥ずかしいでしょ? ‥‥‥それとね、真司君に遠慮は要らないからね。W実業、団体で都の決勝まで行ったから、インハイ行けるの。だから、次、あんたが真司君に勝ったって、彼、インハイ逃したりしないのよ」
「え? そうなのか。それは朗報だ。それじゃ、勝っても気の毒に思う必要ないんだな」
「『朗報』って、あんたも人がいいわね。‥‥‥まあ、普通、試合前にこんなプレッシャーかかるようなこと言っちゃいけないんだけど、あんた肝心なとこで優しさ発揮しちゃったり、潔くなったりしそうで心配なのよ」
「そうか、まあ、そうだな。自分でも分かってるんだけどな。だけど、手塚、こないだの様子だと、なんか俺に思うとこあるようだったけど、いいのか? 前に何があったか知らないけどさ。知りたくもないけどさ」
「な・に・も・な・い! 嘘じゃない。遠慮は全く要らない」
「‥‥‥そうか。分かった。そういうことなら、お前の言葉を信頼するほかないからな。全力でぶちかましてくる」
と、そこに雄介が、
「前の試合六―三です。そろそろ移動した方がいいですよ」って言いながら、一番コートから駆け付けた。
「よし。行くか、人生最大の大一番!」
「そうよ。あんたの力、解き放ちなさい。だけど頭はクールにね」
六 私は部員たちと一緒に、W実業の反対サイドの柵に陣取って試合観戦する。サングラスと日傘も忘れない。裕は、コートに降りて、今、真司君と軽くストロークしてる。どっちも調子よさそうだな。って思ってたら、後ろから、
「あれ? 杏ちゃん?」って声がかかった。
「ああ、米山さん。お久しぶりです」 私はサングラスを取って会釈する。
「ほんとに久しぶりだね。一年近く会ってなかったかな」
「去年のインハイではお世話になりました。サポートありがとうございました。頂いたラケット、今でも使ってますよ。選手引退しちゃって、米山さんには申し訳なかったですけど」
「いいよ。ラケット四本くらい。競技続けるかだって、選手本人の意志が最優先さね。今日は真司君の応援に来たの? 彼、ほっといても連覇濃厚だと思うけどね」
「ええと、まあ、それもあるんですけど‥‥‥あ、いや違います。すみません。真司君じゃなくて、今対戦してる奈良裕選手の応援なんです。今、私が指導してるんです。かなりいい選手なんです。彼のブイコア、去年米山さんから頂いた二本ですよ。すごくいいラケットだって言ってました」
「へー、そりゃ嬉しいね。しっかし、ずいぶん背の高い選手だなあ。あれだけ手足長いと、俊敏さはどうかな。正面のボールの捌(さば)きとか」
「身長は一九七㎝です。あとは見てれば分かります、ふふふ」
サーブは裕から。
「8ゲームマッチプレイ!」の声とともに、裕はデュースコートで、いつもどおりポンポンと二回ボールをつく。真司君は軽くポンポン飛んで、スッと低く構え、「さ、来い!」って気合を入れる。
裕、分かってるわよね。真司君含め、W実業の人たちは、みんなあんたのこと、フラットサーブとワングリップだけの不器用なビッグマンだと思ってる。
さあ、しょっぱなから度肝抜いてやりなさい!
裕には、ちゃんと考えは伝わってる。シンクロしてる。裕は、トスを後頭部にスッとあげて、背中を大きく反らせ、膝を深く折る。スピンサーブの構え。真司君が「!」ってなってるけど、コースが分からないから動けない。裕は、反らした身体を背筋で支え、そしてジムで鍛えた腹筋で一気に戻しながら、ボールを左上に擦り上げる。まるで、きつく湾曲したプラの定規が「ピンッ」って真っすぐに戻ってるみたい。
ボールは対角線に高く飛び出し、だけどネット超えたところで「ストーン!」と急降下。コーナーに着弾して、逆方向に「ギュイーン!」と高く跳ねる。真司君は、サーブが打ち出されてすぐにフォアに移動し、バウンドに合わせてリターンに入る。だけど、これは彼の長いテニス人生の中には存在しないサーブだった。ジャンプした真司君が伸ばしたラケットの、さらに上まで跳ねたボールは、そのままエンドラインのはるか後ろまでバウンドしていった。
跳んだが届かず、屈辱の空振り。真司君も、Wの応援団も、K高部員たちも、米山さんも、眼をまん丸にしてる。そして私は、静かに頷く。裕、ナイスサーブ。今までで一番いいスピンサーブだったわよ。まずは一五―〇。
裕はアドコートに移動。ここはスライスよ。返ってくるまでスライスでいいからね。裕は、身体の外にトスをあげ、真司君もバックに移動。裕はかまわず、高速スイングでボールの左上を擦り、サイドライン際に放つ。ネットを越えてライン際に落ちたボールはさらに右に切れて、飛びついた真司君のラケットの先を抜ける。さっきの選手は触れたけど、真司君はサイズがないから無理だ。三〇―〇。
デュースコートで、裕はまたさっきと同じコースにスピンサーブ。真司君はさっきの弾道を覚えてて、今度はうんと後ろに下がっていて、フォアでハードヒット。だけど、エンドラインのはるかに後ろからで、しかも十分な態勢が取れないから、コースは狙えず、真ん中へ。だけど、ああ、さすがね、ちゃんとスピンかけて裕の足元に落としてきた。裕はハーフボレーでポトンとネット際に短く落とす。真司君はあんな遠くからなのに、諦めずネット際にダッシュ。これは速い! まさか追いつくのか。ああ、追いついた。けど触るだけ。目の前のネットには裕が高い壁みたいに待ち構えて、今真司君が走ってきたオープンコートにポンとボレーを落とした。四〇―〇。
アドコートから裕はまたスライスサーブ。今度は思い切りバックに寄っていた真司君はなんとかリターンするものの、やっと追いついただけなので、ボールは力なくストレートに。楽々追いついた裕が、ガラガラのオープンコートにバックボレーを送り込んだ。ゲーム裕。ナイスキープ。真司君にはつらいゲームだ。ストローク戦に持ち込みたくても、ろくにボールに触れない。接点のないテニス。
第二ゲーム。
真司君は、コートを移動して、ボールをエンドラインにトントンつく。
きっと、(大丈夫。ストロークは下手だ。サーブをきっちり入れて、打ち合いに持ち込めばまず負けない。そして、どこかであいつのサーブを一つ破る)って思ってる。でもね、私、この二カ月半、それ見越して、裕を鍛えたのよ。
真司君がトスを上げる。まず間違いなくスライスをバックに打ってくる。コートから追い出せるうえに、低く滑って返球しにくいからね。ああ、やっぱり。サーブは対角線にスライドしながら弾む。‥‥‥だけど、裕はもうそこに詰めていた。
セイバー炸裂。裕は打てないはずのトップスピンで綺麗にストレートを抜いた。真司君は完全に不意を突かれて一歩も動けない。〇―一五。お見事。綺麗に決まり過ぎた感もあるけどね。
真司君がアドコートに移動、
(まあ、出会い頭で一つくらい決まることもあるさ。付け焼刃だろ? もう一回バックだ)って思いたいわよね。やっぱり、再び裕のバックにスライスサーブを放つ。またやられるわよ。裕は同じくバックのスピンでブロックしながら前へ詰める。リターンは真ん中深くに返ったけど、カウンターなので十分な態勢が取れない。パスの角度も付かない。すでに裕はネットにべったり詰めてる。これならどこにきても長い腕で取れる。真司君もそれ分かってるから、打つなら上、ロブをあげるしかない。けど浅くなる。裕が待ち受けて十分な態勢から爆撃みたいなスマッシュを真正面に突き刺し、ボールは真司君のはるか頭上を通過して金網の上段に当たって落ちた。〇―三〇。
こうなると、もうフォアに山を張っていい。デュースコートから真司君は裕のフォアにスピンサーブ。裕は前に出て、もう厚いグリップで待ってる。また、打てないはずのフォアのスピンで真司君のバックを打ち抜く。真司君は一瞬追ったけど、すぐ諦める。〇―四〇。速いサーブが打てないから、もうセイバーやり放題だ。
そうはさせじと、真司君は、アドコートから、フラット気味にバックに速いサーブを放つ。裕も、これはさすがに前に出られず、ブロックしてバックに返し、急いで後ろに下がる。真司君は裕のバックにスピンを打ち込み、裕はスライスでしのぐ。何球か往復した後に、突如真司君がオープンになった裕のフォアに打ち込む。裕はやっと拾って真司君のバックに、だけど浅くなった。真司君はスライスでストレートにアプローチしてネットに詰め、それを裕はコンチのバックで追う。真司君は(どうせストレートだろ。クロスに来てもスライスなら遅いから届くぜ)って思ってる。
裕、使いどころは今だ、三ポイントリードしてる、スピンでクロス打て。裕は、グリップを厚くして、思い切り「バコーン!」とクロスへ。真司君はストレートに寄ってたので、飛びついたけど、届かず。ボールはネットの真ん中を通過して、コーナーに着弾。ゲーム裕。二―〇。
今のも出来過ぎね。だけど、はったりなんて、派手な方が効くのよ。これでもう、真司君はネットでストレートに張れなくなった。打てる手が、次々とつぶされていく。
真司君は、まだ一ポイントも取れていない。混乱してるだろうね。不器用なビッグマンだったはずの裕が、全てが高レベルのオールラウンダーに変貌したように見えている。まあ、多少まぐれもあるんだけどね。まぐれでも、たまに実践できる程度の実力が付いたのよね。
ごめんね、真司君。
私、真司君が私のこと好きなんだってこと、ずっと好きだったってこと、気付いてたの。あなた本当に真摯で、穏やかで、チームに尽くせる人で、私も気になっていた時期があったのよ。
だけど、私、一年前のここで、裕に会っちゃったの。私と真司君があれほど望んでも手に出来なかった、輝くような素質に魅了されたの。それにね、裕は素質だけじゃない、すごく優しくて気持ちのいい男だったの。だからいつかまた会いたかったの。育ててみたかったの。再会するまでは、ほんとに育てることになるなんて思ってもみなかったけど。
ごめんね、真司君。私、もう、裕のものなの。
そして、私、どうやら、怪物を育てちゃったみたいね。
第三ゲーム。
展開は一方的になりつつある。裕はデュースコートからセンターにフラットサーブ。対角線のスピンサーブを予想して下がってた真司君は慌てて飛びつくもラケットを弾かれる。一五―〇。
アドコートからはまたスライスサーブ。真司君は極端にバックに寄ってたけど、それでも追いつくので精いっぱい。対角線にロブを上げるが、浅くなりスマッシュの餌食。三〇―〇。次もまだスライスで大丈夫。
真司君が山張るようになった。裕は今度は正面にフラットサーブを叩き込み、バックに寄ってた真司君は手を伸ばして当てるが、まともな態勢で打てず、大きくアウト。四〇―〇。あっという間に差が開いていく。
アドコートからまたも裕はスライスサーブ。真司君はもう隣のコートに片足入れるくらい。滑ってくるボールを完全に追い越し、クロスへ全力でスピンかけてリターン。きれいなフォーム。ボールはネットを越えて鋭く落ちる。ストレートをケアしてた裕は飛びついたけど、届かない。ラケットの先を抜けた。四〇―一五。真司君初ポイント。さすがだ。ついに対応して逆襲してきた。
次のデュースコート、裕は最初のと同じスピンサーブを対角線に。だけど、真司君は山張ってて、フォアの強烈なリターンをストレートに。遠くから飛んでくるから、裕も追いつきはしたけど、返しのボレーをネットにかける。だけど気にしなくていい。山が当たる確率は半々。山が当たっても返ってくるだけで、即ポイント取られるわけじゃない。四〇―三〇。
さあ、裕、次はあれよ。
裕は、スッと外側にトスをあげ、真司君はまた急いで移動して隣のコートに足を踏み入れる。今だ。裕はボールを擦らず、腕を内転させてセンターに。もうハーフスピードでいい。追いつけるはずない。七割の力で飛んだボールはセンターライン内側に跳ねて、そのまま通過。一〇mも遠くにいる真司君は、(外れろ!)って願いながら横目で見送るだけ。ゲーム裕。三―〇。これでスライスはまたリセット。
「‥‥‥すごいな。こんな選手が都立にいたんだ」 信じられないという顔で、米山さんが私に言ってきた。
「私も去年初めて見て驚きました」
「スケールだけのビッグマンじゃない。フットワークもいいし、ショットも器用だ。まるで左利きのフェデラーだな。サーブはマッケンローだし。プレー全体がエレガントで魅力的だ。おまけに顔がいい」
「まだまだこれから進化しますよ。キャリア二年ちょいなんですから。今は素質だけでプレーしてる感じで、基本技術をもっともっと磨く必要がありますけど」
「杏ちゃん、すごい選手発掘したんだな。あとで紹介してくれよ」
「いいですけど、誰にも渡しませんよ。今、私が大事に育ててるんですから、愛弟子なんですから」
「はは、わかってるって。だけど俺、ヨネックスのスカウトだからさ。ツバつけとかないとな」
第四ゲーム。
真司君が突如として渾身のフラットサーブを放つ。対角線深くコーナーを抉り、前に出ていた裕はラケットを弾かれる。
「なんだよー。手塚、お前、こんなすげーサーブ打てるんじゃないか。今まで隠してたのか。はは」って、裕が笑顔で相手のプレーを称える。
「うるせーよ。俺だって本気出したら速いんだ。お前にはちょっとだけ負けるけどな」って言い返しながら、真司君も笑ってる。一五―〇
確かにね、セイバーを避けて、ストローク戦に持ち込むにはこれしかない。強いサーブを入れ続けて、守りのリターンをさせるほかない。
‥‥‥でも、それは、今まで確率悪くてやらなかったことを、無理にやらざるを得なくなったってこと。劣勢を認めたってこと。いつまでも続くものではない。
真司君はアドコートからもフラットを対角線に叩き込む。だけどフォルト。オーバー。打点が低くて球が速いから、上下の角度がつかず、どうしても遠くまで飛んでしまう。セカンドはスピンで仕方ない。だけど、セイバーされて、無理な態勢のパスはネットに。一五―一五。
そのあと、二ポイントずつ取り合って、四〇―四〇。さあ、次のポイントは重要だ。ゲーム三-一と四-〇ではえらい違い。四-〇になったら、裕のサーブを二つ破らないと負ける。
真司君はデュースコートを選択。おそらく対角線にフラット。裕も予め下がって、分の悪いセイバーを避けている。やっぱりフラットサーブ打ってきた。「フォルト!」 長い。さあ、セカンドサーブ、どうせクロスにスピンかスライス。裕はもう隠さず、バックの握りでサービスライン手前に詰めてプレッシャーをかける。
そこに真司君がトスをあげて、あ! フラットだ。しかもセンター。ギャンブルに出た! 裕、返せ! せめて触れ! ああ、ラケット弾かれた‥‥‥。握り替えが間に合わなかった。
が、同時に、審判から「ダブルフォルト!」のコール。ボール一個分長かった。センターはサービスラインまで距離がないからね。クロスなら入ってたのに。
ゲーム裕。四―〇。これは、もう時間の問題だ。
七 ああ、何やってもダメだな。奈良、お前、ほんとに強いな。すごく俺のこと研究してきた感じがする。まあ美人コーチにはオレのこと筒抜けだからな。この間、ずっと俺の対策練ってきたんだろう。
もっとも、それがなくても勝てたような気はしないな。分かってた。去年の段階で、もう並ばれていた。一年もたったら、お前のキャリアは倍になるわけで、俺は殆ど止まってるんだから、追い抜かれるのは当然だよな。
もう、俺も、あるはずのない才能信じてプロを目指すのは、今日限りやめるよ。小さい頃からずっとテニスやってきて、東京は獲れたけど、お前がこんな軽やかに飛び越えていくのを下から見てたら、俺はここまでだ、もう潮時だって、ようやく踏ん切りがついたよ。‥‥‥ああ、光ってる。眩しいな。俺が喉から手が出るほど欲しかった、テニスの才能。
しかも憎たらしいことに、お前、すげーいい奴なんだよな。気持ちいい男なんだ。一緒にテニスしてると楽しいんだ。本当に悔しいけど、杏佳先輩が惚れこむのも良く分かるんだ。だって、俺も惚れちゃいそうだもんな。
去年から先輩が三人抜けて、最後の一年は、全国レベルが俺一人になって、頑張って部を支えて来たけど、やっぱり戦力ダウンは大きかった。オーダーやりくりして、なんとか団体でインハイ決めて、これで俺も責任果たしたんじゃないかな。
ああ、でもお前と一緒に高校でテニスしたかったなあ。絶対、お互い伸ばし合えたのに。ダブルスなんて楽しかっただろうな。
まあ、そんなこと考えても、詮無いことだ。まだ試合は続いている。俺の出来ることを最大限やることに集中しよう。
奈良がデュースコートからサーブを打つ。俺はさっき飛んだから、今度は正面だろう。ほら来た、分かってたぜ。だけど、うわっ、速っ。なんとかストレートに低くリターンを落とす。奈良はフォアボレーをクロスに深く返すほかない。俺ははそれを予期して走り出してる。さあ、追いついた、充分の態勢、どっちだ?
俺は、ストレートを目で牽制して、奈良が一瞬詰めたところで、さあ良く見とけ! これがトップスピンロブだ! 俺はバックの厚い握りでボールを擦り上げ、対角線にロブを放つ。フェルトが黄色い霧になって目の前を舞う。奈良はロブも警戒してたらしく、急いで下がるが、このロブは極上だった。奈良は長い腕を伸ばしてジャンプしたけど、ボールはそのずっと先で急落下し、エンドライン上で高く跳ねた。
奈良は、コートに尻もちついて、
「あー! また今年もやられたー! お前のあれ、ホントいいなー。今度教えてくれよー」とか笑ってる。まったく憎めない男だ。
「へへっ、やだね。これは俺の専売特許だ」って返して、「さあ、まだマッチポイント続いてるぞ。最後まで気を抜くなよ。まくるからな」って言ってアドコートに移動する。さあ、いよいよ、長かった俺のシングルス人生最後のポイントだ。
金網に杏佳先輩もいるな。
俺の散りざま、よく見ておいてくれ。
八 裕のマッチポイントは続いている。どっちもヒリヒリする展開のはずなのに、なんか楽しそう。ポイントごとに笑い合いながらやってる。仲良しの二人が遊びでゲームしてるみたい。
あれ、真司君何やってるの? 隣のコートまで入って行って、ライン跨いで構えてる。「あー、ここに来るんで。すみません。すぐ終わりますから」って謝ってる。そして、「奈良! ここにスライス打ってこい! 全力で返すから!」って叫んでる。裕は、「えー? なんだよそれ」って言いながら、ニヤッとして外側にトスを上げてる。あーあ、そんなのに乗っちゃって。センター打っとけばいいのに。あんたどこまで甘ちゃんなのさ。男子のやることって良く分かんない。
裕は、左腕をしならせて、ボールの左上を鋭くカット。打ち出されたボールはネットを超え、ライン際で落ち、さらにスライドをして、片手バックを構えた真司君の前へ。予めそこにいなきゃ絶対取れないサーブ。真司君はストレートに逃げず、殆どネットと並行くらいの角度でクロスにスピンを落とす。裕は逆を取られて一瞬対応が遅れたけど、長い手足を伸ばして飛びつく。ダイブした。ああ、届いた。ボールはネットを山なりに超えて、ゆっくりとコートの真ん中に落ちる。これなら真司君は十分間に合うだろう。逆襲だ。
けれど、もうそのとき、真司君はラケットを下げ、笑顔でネットに向かっていた。そうか、始めから最後のポイントにするつもりだったんだ。裕も起き上がって、笑顔でネットに向かい、握手しながら、
「いやー、すげーリターンだった。さすがだったな手塚! 目に焼き付けておくよ」
「あー、もう、お前にはやられたよ。俺の全部を出し尽くしても及ばなかったな。だけど楽しかった。インハイ頑張れよ。期待してるぞ」ってポンポン肩叩いて声掛け合ってる。
ゲームセット&マッチバイ 都立K高校奈良裕 スコア八―一。
断トツの優勝候補、昨年王者の手塚真司を粉砕。まさにアップセット。
だけど、見ていた数少ない観客は皆が分かっていた。
これは、番狂わせでは、ない。
ラケットバッグを下げた裕が引き揚げてきた。K高の部員たちと一緒に、
「裕、ナイスゲーム、お疲れ様。そしておめでとう! インハイ決めたね。あとW大の推薦もきっと大丈夫だね」って声掛けて労った。私、嬉しくてピョンって飛んで抱きついちゃった。だけど、ゲゲっ、イヤー、汗びっしょり。忘れてた。はは、まあいいわ。今日は二人で目指してきた特別な日だもんね。そしたら、雄介君が裕の背中に抱きついてきて、サンドイッチ。こら、あんた、どさくさに紛れて何やってんの? と、思ったらほかの部員も集まって抱きついてきて、こんな暑いのに、みんなで押しくらまんじゅうしながら、「やったぞー! 裕先輩おめでとうー!」ってギューギューしあった。
裕は、「はは。ありがとうな。みんな喜んでくれて、すごく嬉しいよ。だけど、手塚から見えるから、あんまり喜ぶのはやめて、移動しような」って、相変わらず優し気なこと言ってる。
お昼を食べたベンチに移動し、裕は、冷たいお茶飲んで、シャツを着替える。次の試合は何時からかな。さっきのは事実上の決勝戦だったけど、最後まで気を抜かないで行こう。って思ってたら、裕が立ち上がって、
「大会本部に行ってくる。みんなはここに居てくれ」って言って、室内コート棟へ歩き始めた。ん? ちょっとびっこ引いてる? 私は慌てて追いかけてって、
「ちょっと、どうしたのよ? 次の試合あるんだから身体休めとこうよ」って言ったら、裕は私見て、眼を細めて微笑んで、
「ごめんな。次の試合はないんだ。棄権する」って、さらっと言ってきた。
「えー? なんでー?」
「最後のポイントで逆取られて足ひねった。ほら」って、右足のソックスを下ろすと、ああ、青黒く腫れあがっている。一目みて、プレー続行は無理って分かる。
「そうだったのか‥‥‥。全然そんな風に見えなかったけど」
「最後のポイントがあんな変則になったからな。それで怪我したんじゃ、手塚が気にするだろ。だから我慢してた。まあ、嬉しくて、あんまり痛くなかったというのもあるけど。もう今は、ちょっと無理だな。イテー」
「えー? 私、あんたが優勝するの楽しみにしてたのにー。あんな挑発に乗っかるからよー。裕のバカー」
「あはは、ごめんごめん。だけど、あれやられちゃ、そりゃ乗るだろ? 納得して終わりたいってのが伝わってきたしさ」
「私、裕が優勝したらご褒美あげようと思ってたのにー。持ち越しになっちゃったじゃないの。もう、バカー」
「え? ご褒美って何? なにくれるつもりだったの?」
「そんなの内緒よ。内緒。女の子に言わせんじゃないのよ」
「それ、形のあるもの?」
「あるって言えばあるし、ないって言えばないわね」
「禅問答かよ。それじゃ、物?」
「物ではないわね。どっちかというと精神的な活動ね」
「ああ、大体見当がついた。そうか、それは惜しかったなー。今から湿布してテーピングして出らんないかな」
「やめときなさいよ。あれじゃ無理よ。インハイ本番まで一カ月ちょい、充分間に合うから、悪化させないで早く治そ」
「そうだな。来週末のミックスダブルスには間に合うといいな」
「でも無理しないで。金曜夜に練習出来ればよし、くらいに考えとこう。だけど‥‥‥」って言いながら、私、裕の胸に両手ついて、そのまま固まっちゃった。
「お、どうした」
「少しこのままにしといて。悔しい‥‥‥ちょっと泣く」
裕は、「はは、そうか」って言って、両手を私の背中に回して、優しくさすって、上から「こんな形で終わっちゃって悪かったけど、今日はありがとうな。インハイ決められたのもお前のおかげだ。試合中も、お前がずっと俺の中にいてさ、お前の声の通りにプレーして勝てたんだ。ホントにお前は俺の可愛い勝利の女神だよ」って、ささやいてくれた。
それ聞いて、私、「ちょっと」どころじゃなくて、わんわん泣いちゃった。
九 大会本部で、怪我のため次戦を棄権することを伝えて、湿布とテーピングを貰って、杏佳に応急処置して貰った。競技委員長は、
「手塚君に圧勝したのに残念だったねー。まあ、怪我をしっかり治して、インハイは頑張ろうね」って励ましてくれた。
ベンチに戻って、部員たちに棄権することを説明したら、「えーっ?」って騒然となってたけど、もちろんすぐ事情を理解してくれて、「今日はインハイ決めましたからね。それで十分だと思いましょう。それじゃ、裕先輩おめでとうの胴上げ!」ってことで、去年と同じ場所で、杏佳も混じってワッショイワッショイ胴上げ。楽しー、ヒャッハー。
と思ってたら、近くで誰かがジッと見てるな。
「あれ? 手塚。見てたのか。お前の前で胴上げしないようにって思ってたんだけど。わざわざ来たんじゃしょうがない。勘弁してくれ」
「そんなことはいいよ。あれだけやられたら、かえってスッキリするだろ。だけど怪我で棄権だって? さっきの最後のか?」
「いや、夢中でやってたから分かんない。試合後に痛み出した。俺さ、ケチってハードコート用のシューズ買わずに、オムニ用の履いてたんだよ。やっぱグリップ効きすぎてグキっとやったな。そういう準備の面も含めての実力だからな。今日はここまでの選手だったんだって納得してる」
「はは、なんだかお前らしいな。まあそう言ってくれると少し楽になるよ。‥‥‥それから杏佳先輩」手塚が杏佳の方を向き直り、
「え、何? 私?」って、杏佳が人差し指を自分に向ける。
「奈良は去年よりずっと上手くて強くなってた。よくここまで鍛えた。杏佳先輩、ほんとに優秀なコーチだよ。‥‥‥それと、俺は今日、二人から引導渡されて、プロの選手になるのは諦めました。究極のレベルではパワーとスピードにひれ伏すしかないって、自分の限界がよく分かりました。実は前から薄々分かってたんだけど、今日、はっきり突きつけられた。背中押してくれてありがとう」
「そうか、そうするのか。うん、いいんじゃない。私も同じだったから良く分かるの。真司君、すごく上手なのに、なかなか伸びなくて、だけどチーム背負って、なんか苦しそうだったから、楽になってもいいのにな、って思ってた。‥‥‥それにね、うまく出来ているもので、一つのことを諦めると、また同じくらい大事なものが手に入るから、心配要らないわよ。ねっ!」って言いながら、杏佳は顔を傾けて僕に微笑みかけた。え? それ、僕のことなんだ。
手塚は僕を見て、「はは、奈良か。確かにこの男には無限の可能性を感じる。こんな素材、今まで見たことなかった。杏佳先輩が育ててみたくなるのも分かる。だけど、お前、まだまだ下手くそだから、今度一緒に練習しよう。オレもいろいろ教えたいことがあるんだ」って言ってきた。
「お、いいな。宜しく頼むよ。お互い、インハイ控えてるからな。頑張ろうな」
「ああ、怪我、早く直せよ。じゃ、杏佳先輩も。また」って言って、手塚は背中向けて、かっこよく去っていった。
と思ったら、もう一人いた。五〇がらみのおじさん。誰?
「杏ちゃん、忘れないでよ。紹介してよ」って言ってきた。
「ああ、米山さん。ごめんなさい。裕、こちらはヨネックスの米山さん。さっきの試合見てて、裕に挨拶したいって」
「奈良裕くんだね。試合見てたよ。君、いい選手だねえ。全然知らなかった。これからの伸びしろもすごくありそうだし、注目させて貰うよ。これ、名刺」
僕が名刺を貰って見てみると、「株式会社ヨネックス 営業第一部部長 米山修二」って書いてある。ヨネックスの営業部長って、すごく偉い人なんじゃない。取締役とか?
「ありがとうございます。『米山さん』ということは、創業一族ですか?」
「一応そうなんだけどさ、分家の三男なんで、出世ラインからはちょっと外れてるな。まあ、それをいいことに、好き勝手に外回りやって、いい選手見つけては囲い込んでるんだ」
「米山さんは開発よりも現場が好きなのよ。これまで何人も優秀な選手スカウトしてプロに育ててる。相馬眼ってやつなのかな」
「まあ、そういうわけで、今日はダイヤの原石見つけたから声掛けとこうと思ってさ。インハイまで使ってみたいラケットや用具があったら言ってよ。違う銘柄のラケットを試してみるのもいいと思うよ」
「ありがとうございます。だけど、このブイコア二本は大切な人から貰った大事なラケットなので、インハイまではこれでいきます。もう慣れちゃってますし」って言ったら、米山さんが「へー」って表情で杏佳を見て、杏佳が顔赤くしてる。あれ、なんか変なこと言ったかな。
「あ、でも、もし頂けるのであれば、今日着てたみたいな八〇年代のウェアと、新品のR22を一本お願いします。どちらも個人じゃ手に入らないんです」っておねだりしたら、
「ははは、なんか随分マニアックなもの欲しがるんだな。まあ、探しておこう。ウェアはそれだけ大きなサイズなら、売れ残ったデッドストックがあるかも知れないな。じゃ、また連絡するよ。俺もインハイ行くから、またその時会おう」って言って、米山さんは帰って行った。
十 以上の次第で、突然の終戦になっちゃったけど、僕のインハイ予選はこれにて終了。東京都ベスト8 インハイ進出。ま、でも上出来上出来。
その後、例によって、すき家で打ち上げ。杏佳はこないだのグエグエで凝りたのか、今日は並盛牛丼に卵かけて「これってもう飲み物よねー」って言って、ニコニコしながらスプーンで美味しそうに食べてた。さらに「デザートもいい?」って僕に聞いて、プリンも付けてた。おう、どんどん頼め。
部員たちとは有明でお別れ。僕は杏佳の車に同乗して、「いいって。大丈夫だよ」って言ってるのに、そのまま府中のH病院に強制搬入。吉崎院長先生が直々に診察してくれた。
院長は、杏佳と並んで座る僕をじーっとみて、やや険しい眼差しで「ほう、君がねえ‥‥‥」と言うので、背中にゾクっと緊張が走ったが、続けて「奈良ちゃんの息子かー! いやー、男前だな。何、足ひねったのか、どれ?」とか明るく言い出したので、ズルッと脱力。お母さんがうまく言ってくれてたのだろう。
レントゲンとエコー検査を受けたところ、「ああ、大丈夫そうだね。骨折はないし、靭帯損傷も殆どない」ということで、冷感湿布と弾性包帯で固定してくれて、
「はい、これでいいよ。大した捻挫じゃないけど、少なくとも五日間は運動せずに、安静にしてな。明日のバイトは休んで、足高くして寝てた方がいいぞ。急性期に立ち仕事はきついからな」とアドバイスしてくれた。急なお休みで大将には悪いけど仕方ない。何より大事に至らなくてホッとした。
せっかく杏佳がエントリーしてくれたんだから、土曜日のミックスダブルスは万全の状態で臨みたいな。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます