令和に降臨した昭和テニスマンとテニスの妖精

小田島匠

プロローグ 一年前 有明テニスの森公園 妖精の記憶に残った男

~ プロローグ ~ 六月二四日(日)


一 ああ、よく拾ったわね。

 だけど、やっと追いついて上げただけ。甘いボールがバックに返ってくる。私は素早くボールに近づき、一瞬の間を取って視線をストレートに送り、だけどダブルハンドでクロスに叩き込む。相手の子はフェイントにつられて重心移動してたから、一歩も動けない。クロスに突き抜けていくボールみて「ああ‥‥‥」って空を仰ぐだけ。


「ゲームセット&マッチバイ吉崎。W実業高校の吉崎杏佳(きょうか)さんが八―一で勝ちました」 アンパイヤが試合終了を告げる。私はネットに近づいて、相手の選手と握手を交わす。ああ、手で眼を擦ってる。三年生なのか、インターハイ逃したんだもんね。でも、泣くのはどうなの? だいぶ差があったわよ。

 これで東京都ベスト8。今年もインハイ切符を手にした。去年は三回戦負け(ベスト三二)。今年はどこまで行けるかしら?


二 すぐに有明テニスの森一番コートに移動する。エントランスくぐったとこにある観客席のあるコート。真司君の試合まだやってるかしらね。急がないと。手塚真司君は私の一年後輩の二年生。去年は一年生だけどインハイに出て、一回戦を突破した。身長一七〇㎝ないくらいの小柄な選手なんだけど、抜群のスピードとスタミナ、そして類まれなセンス。本人は嫌がってるけど、顧問の先生から「牛若丸」って時代錯誤なあだ名で呼ばれてる。今年のW高期待の選手だ。

 コート見えてきた。ああ、まだやってるな。間に合ってよかった。

 って、あれ? 六オール? なんで? 真司君なにやってんのよ。次ブレークされたら負け濃厚じゃないの。ええと、相手は、え? 都立K高? 都立の選手が都のベスト一六まで上がって来てんの? って、デカ! デカい! 何あれ? 一九〇㎝は余裕で超えてるんじゃ‥‥‥。あんな選手がいたのか。パンフを見ると、都立K高の二年生、奈良裕(ゆう)。


 真司君のサービスゲーム。小さいからフラットサーブは打てない。スライスをかけてクロスへ、奈良君をコートから追い出し、前に詰める。奈良君は長身だから追いついて、真司君のバックサイドにロブ気味の球を上げる。小柄な選手の泣き所だ。だけど真司君も半ば予想してて、前には詰め切っていなかった。サービスライン付近でボールに追いつき、奈良君のバックへ深いボレー。あれ? バックじゃない。奈良君サウスポーなんだ。ああ、だけど真司君、それ緩い、浅い、これは逆襲される。一発で抜かれる。って覚悟したら、奈良君はボレーみたいな薄いグリップのままストレートに弱々しいパッシングを放った。薄いグリップじゃクロス打てないものね。真司君はそれを読んでで、もうストレートに寄ってる。そしてネット際にドロップボレー。上手い。奈良君は一歩も動けない。一五―〇。

 真司君が次々とポイントを重ねる。驚いたことに、奈良君は、ワングリップだ。コンチネンタル(注 典型的な薄いグリップ。スピンをかけにくい)のまま、フォアもバックも、ボレーも全部こなしている。いまどきそんな選手、ただの一人もいないわよ。それじゃ、スピンかからないから、クロスに打てないじゃない。バックなんかスライスしか打てないから、パスが遅くて、全部真司君に追いつかれてる。もしかして初心者? のワケないわよね。都の六回戦だもんね。

 ゲーム手塚。これで七―六。王手だ。インハイまであと四ポイント。

 

 サーブ交代。奈良君は、ボールをポンポンと二回つき、スッとトスを上げる。左足を右足に添えて、胸を開き、ラケットを直立させる。無理のない、綺麗なフォームだ。身体が弓なりに反りかえって、でもそれが少し前にあげたボールに向かって戻りながら、肘が先行してラケットヘッドが遅れて出てくる。身体全体を鞭のように使った、ゆったりとしたフォーム。だけど、そこで、「パンッ!」という炸裂音と共に、ええっ! ボールが消えた‥‥‥。

 センターのライン上が一瞬光ったような気がしたら、ボールはコート後ろの壁に「コポーン!」って音立てて激突してた。私には見えなかった。真司君もピクリとも動けなかった。こ、これはすごい。本物だ。私、何度もコートサイドでプロの試合見たけど、こんなの見たことない。まさか都立にこんな選手がいたとは。‥‥‥これは競るはずだ。

 今度はアドコートからのサーブ。またセンターにフラットサーブ。だけど今度はネットのコード(白帯)に「パシーン」と当たり、上に跳ねる。ボールはどっちに落ちるかな。ああ奈良君だ。フォルト。セカンドサーブは、あれ? またフラットなの? 今度はクロスに打ち抜き、今度も真司君は一歩も動けなかった。薄いグリップしか使えないんだ。だからスピンサーブ(注 ネットを越えてから落ちる安全なサーブ)打てないんだ。サウスポーなんだから、せめてクロスにスライスサーブ(注 横にスライドするサーブ)打てれば楽にポイント取れるのに‥‥‥。なんて極端な選手なんだろう。

 三〇―〇 今度もセンターにフラットサーブ。だけど、真司君は山張って跳んでた。ラケットには当てた。けど、弾き飛ばされて四〇―〇。サーブに圧倒されてる。

 次のサーブでも、真司君は山張ってセンターに跳んだ。さっき弾かれたから、両手でラケット持ってる。あ、まさにそこ。奈良君のサーブがラケットを直撃する。弾かれた? いや、ボールは上に上がった。ネット付近に落ちて、高く跳ねる。奈良君はボールに近づいて、スマッシュの態勢。これで七オールか。仕方ない。あれ、ボールが戻ってる? 変な回転かかってるのね。奈良君はあわてて縦に構えたラケットを振り下ろすけど、ああ、ボールはネットのはるか下に「ガサッ」と突っ込んだ。持ち替えてフォアでスピンかけたら何の問題もないのに、ぶきっちょなんだ。

 

 そしたら、観客席から、

「裕せんぱーい。なにやってんのー? それプラマイ二ポイントじゃんかー?」って声が飛んだ。

「バカ、よせ。ドンマイ言えよ。お前」

「だって、今の惜しくもなんともないだろ? ドンマイもなにもないだろ?」

そしたら、奈良君が、

「はは、うるせーよ。黙って見てろ。俺にはサーブとボレーしかないんだから、返ってきたらもうダメなんだよ。ストローク戦で手塚に勝てるわけないだろ」だって。

割り切ってんのね。面白い子ね。


 四〇―一五 普通に考えればまだまだ奈良君有利。またセンターにフラットサーブを打ち込む。だけど、ちょっと長い? 主審がフォルトをコールする。奈良君はちょっと不満そうだけど、どのみち見えないんだから文句付けられないわよね。セカンドサーブもフラット。ああ、イライラする。スピンサーブ打てないの? あんたなら頭の上まで跳ねるわよ。その間にネットに詰めなさいよ。だけどフラットサーブはネットの白帯にパシンと当たって、ダブルフォルト。四〇―三〇。


 あれ? 今気づいたけど、あのラケットなに? 銀色で小さい、板みたいに薄いラケット。四角いからヨネックスよね。オレンジのライン。あれは‥‥‥確か、R22だ。ナブラチロワ(注 往年の名選手。女子史上最強クラス)が使ってた、伝説の、昭和のラケット。あんなの使ってる人まだいるんだ。絶対今のラケットの方が性能いいのに。よく見たら、その白いパツパツの短パン、今見ないわよね。ポケットにボール入れるとポコンってなるやつ。そんなの一体どこで買ったのよ。なんか、もう四〇年前にタイムスリップしたみたい。だいたい今どきサーブ&ボレーなんて絶滅危惧種でしょ。昭和のビッグマンが令和五年に降り立った感じ。


 四〇―三〇から、奈良君はクロスにサーブを打って愚直に前に詰める。真司君は山が当たってダブルハンドで何とかクロスに弾き返す。奈良君はフォアボレーをストレートに。真司君はリターンでコート外に出てたから苦しいけど、どうにか間に合う。クロスに視線を送ってフェイントかけて、ああ、意外、ストレートにスピンかけてロブだ。上手い。さすがだ。奈良君は慌てて後ろに下がって、でも長身だから追いついて、ボレーで真司君のバックへ。でももう球が死んでる。真司君は余裕でボールに追いついて、片手バックの構え。さあどうする。ストレート、クロス? 

 奈良君はネットにベッタリ詰めてパスの角度を潰している。あの長い腕ならどっちに来ても届くだろう。

 

 と、その刹那、真司君がグリップを厚く握り替えて、シュッとボールを擦りあげ、対角線に綺麗なトップスピンロブを放った。ボールのフェルトが黄色い霧になって舞う。あんなに強いんじゃアウトでは? って勢いだけど、大丈夫。きっついスピンのかかったボールは、頂点に達した直後「キャッ」って鎌首もたげてライン際で急激に落下する。奈良君は長い手足伸ばして必死に当てようとするけど、ボールはあざ笑うかのように、ラケットの先を通り抜け、そして、エンドライン手前で跳ねた。

奈良君は尻もちついて、

「あー、やられたー。手塚、お前、ホントに上手いなー! 感心しちゃうよ、はは」って笑ってる。なんだか面白い子ね。しかも、今気が付いたけど、顔がいい。すっごいイケメン。長めの黒髪を真ん中分けにして白いヘアバンドで止めてる。クラシックなハンサム。この子、絶対人気あるわよね。


「裕せんぱーい、何言ってんのー? そんな余裕ないでしょー。次のポイント取られたら負けなんだよー? インハイ逃すんだよー」

「バ、バカ、お前余計なプレッシャーかけるなよ」

「だって、ほんとのことじゃないか。だいたい裕先輩、人柄良すぎてガツガツできないからいつも肝心なとこで勝てないんだよ」

「そのとおり、そのとおりなんだけどさ。うう、裕せんぱーい、勝ってー、お願いー」って男子部員が胸の前に両手握って必死に応援してる。健気だな。だけど女子はいないんだ。


 さあ四〇オール。真司君のマッチポイント。サイドの選択権はサーバーにあるから、奈良君が主審から「どっち?」って聞かれてる。奈良君は、コートに座ったまま、「あー、じゃ、こっちでいいです」って、あんた、ちゃんと考えなさいよ。インハイかかってんのよ!

 

 アドコートから奈良君がトスを上げて、サーブを放つ。また、火を噴くようなフラットサーブがセンターを突き抜ける。真司君の読みは外れた。ちらっと右を向いてボールを見送るしかない。これでゲームカウント七オール。なのに‥‥‥、

「フォルト!」って主審の声が響いた。え、長いの? うそ? いや、今の入ってたわよ。落ちたとこのラインが白くなってるもの。奈良君もラインの上をじっと見ている。真司君は見えなかったんだから仕方ない。でも、今のポイント明らかに奈良君よ。ああ、でも奈良君はクレーム付けないんだ。(まあしょうがないか)って、苦笑いしてポケットからボール出してる。あんた! そういうとこなのよ。もっとガツガツしなさいよ! ああ、イライラする。だって、次、最後のサーブなのよ。フォルトしたらあんたの夏が終わるのよ。てか、さっきからバカの一つ覚えみたいにフラットサーブばっかり。せめてスライス打ちなさいよ。長身のサウスポーなんだからスライス打ってれば大丈夫よ。仮に真司君追いついても、コートのはるか外なんだから、返しのボレーで余裕でしょ? って、なによ‥‥‥一体私どっちの応援してるのよ。真司君でしょ? だけど、この人、奈良君、気になるわよね。完成度三割くらいだけど、なんか魅力的な選手よね。


 あ、トスをちょっと外にあげた(注 横回転がかけやすい)。スライス打つんだ。なんだ打てるんじゃない。最後の最後で宝刀抜くんだ。真司君もトスで分かって、コートの外に走ってる。サウスポーだから、落ちてからさらに外に逃げるわよ。クロスに返すなら完全にボール追い越さないと。

 って、思ったら、サーブがちょっと低い? ああ、白帯に当たりそう、当たった。ボールが上に跳ねて、どっちに落ちる? ああ、ネット超えた。レット? 打ち直し? だけど、そうか、サウスポーだから、入射角でネットに当たってから右に跳ねるわよね。ボールは、ネットを超えて、だけど右に跳ねて、サイドラインの、ほんの少し外に、落ちちゃった‥‥‥。


「ゲームセット&マッチバイ手塚。W実業高校手塚真司選手が八―六で勝ちました」って、アンパイヤが宣言した。あんたね、さっきミスジャッジしといて、よくそんなすっきりした顔で言えるわよね。まあ、フォルトに見えたんなら仕方ないけどさ。よくあることなんだけどさ。なんか釈然としないわよね。

 真司君はなんか疲労困憊した様子でネットに近づき、奈良君は笑顔で握手を求め、「いやー、強いな。やられたよ。インハイも頑張ってな!」って爽やかに声かけてる。だからあんたそういうとこなのよ。潔よすぎるのよ。上に行きたいんなら、もっとギラギラしなさいよ!


三 真司君が引き揚げてきた。なんか、ぐったりしてる。

「真司君おめでとう。インハイ決めたじゃない。ちょっと苦戦したけど、よかったね」って声を掛けたら、

「ああ、杏佳先輩。ありがとうございます。苦しかったです。奈良は、上手くも強くもなかったけど、なんというか、こう、すごかったです。俺がこんなに一生懸命走り回って、ゲロ吐きそうになってやっとキープしてるのに、次のゲームではサーブ四発で終わりなんです。接点がないんです。俺のテクニックも、ボールに触れなければどうしようもない。駆け引きもヘッタクレもない。あいつは俺の生きてきたこの競技には存在しない選手でした。あのクラスには、俺は、到底、なれない‥‥‥」

「だって、真司君が勝ったんじゃないの。なんか打ちひしがれてるみたいだけどさ、勝ったのは真司君なんだよ。奈良君はインハイ行けないの。真司君今年インハイ一六とか八まで行けるんじゃない。頑張んなよ」

「うん、今日は勝ったし、俺もインハイの八とか、将来的には全日本の一〇位とか二〇位にはなれるかも知れないけど、あいつにはなれない。結局、世界に出ていけるのは、ああいう男なんじゃないかって、本当に今日痛感しました」って、真司君はちょっと俯(うつむ)いて、まるで惨敗したみたいに声を絞り出した。


 そしたら、木陰のベンチの方から、ワーンって泣き声が聞こえて、見たら、奈良君の周りに男の子が集まって、そのうちの一人が奈良君に抱き着いて、

「わーん! 裕先輩が負けちゃったー! インハイ逃しちゃったー! わーん、わーん」って、小柄だから胸までいかないで、奈良君のお腹に顔埋めて泣いてる。なにこれ? ボーイズラブ?

 奈良君は、その子の頭撫でながら、

「はは、泣くなよ、雄介。応援ありがとうな。俺も頑張ったけどな。手塚は強かったよ。完敗とまではいかないけど、二歩くらい及ばなかったな。まあ、また練習しようぜ。来年があるさ」って声掛けてる。みんな後輩なんだ。奈良君キャプテンなんだ。

 って思ってたら、みんなで奈良君持ち上げて、ワッショイワッショイ胴上げしてる。楽しそうだな。奈良君も両手あげて「ひゃっはー!」って笑ってる。まあ、都立でインハイ一歩手前までいったら相当よね。奈良君、きっとみんなのスターなのね。あこがれなのね。

 雄介君、まだ奈良君にくっついてグシグシ言ってる。奈良君は、

「もういいって。終わったんだよ。今年はこれで終戦だ。さてと、みんなですき家で牛丼食って帰ろうぜ! 応援ありがとうな。今日は俺のおごりだ、特盛で食おう! おしんこと卵も遠慮するなよ!」って宣言して、おー、裕せんぱーい! ステキー! とかみんなで叫んでる。はは、すごくいいな。競技とは一線を画した、なんか爽やかな雰囲気。これが青春って感じ?


 そうして私が笑顔で奈良君たちを眺めてたら、雄介君が気付いて、

「裕先輩。なんかさっきからすごい美人がこっち見てますけど、誰? 知り合い?」って、ちょっと詰問調で聞いてた。奈良君は、

「いや、知らない人だな。Wのユニフォームだ。さっきの試合見てたのかな」って答えて、長身をかがめてペコって会釈してきた。


 私は奈良君にあわせてニッコリしながら、胸の前で手を振って、あれ? ちょっと慣れ慣れしかったかな? って急に恥ずかしくなって、肩すくめてクルって反転して、部員の元に駆けていった。


 それが、私と裕の出会いっていうか、きっかけだった。その後、こんなに長く続くことになるとは、ほんとに夢にも思わなかったけど。

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