ぼくとお母さん (前編)

 おババアを『お母さん』と呼ばなくなってから、もう四半世紀以上経った。風呂とトイレ、あとは宅配を取りに行くとき意外部屋の外から出ない俺、阿部一夫あべかずおはいわゆる高齢引きこもりだ。高校生の時にいじめで不登校になった以来、54歳の今に至るまで、俺の行動範囲は、この家の中だけだ

 

 「おいババア!飯はまだか!」

 

 腹が減ったので、怒鳴りちらして早速ババアを呼びつける。暫くすると、弱々しい足取りで階段を登ってくる音が聞こえ、しばらくすると降りていった。ドアを開けて、トレーの上に乗った、まだ湯気をあげる野菜炒め定食を部屋の中に引き入れた


 この家は俺とババアの二人暮らし。親父は早くに死に、兄と姉はそれぞれ家庭を持っている。以前は盆や正月になると、よく子どもを連れて帰ってきてたみたいだが、俺は始終部屋の中。結婚式にすら出なかったので、それぞれの配偶者や甥、姪の顔もよく知らない。そんな甥や姪もまた、それぞれに家庭があり、ひ孫が4人もいる。ババアは、名実ともに“祖母ババア”なのだ


 片や、俺の方はと言うと、ストレスのない自由な生活を四半世紀に辺り楽しんでいる。好きな時間に寝起きして、ババアに飯を集り、ババアのクレジットカードで好きなものを買う。目の前のPCがコミュニケーションの手段で、ネトゲのボイチャでガキを煽り、SNSで不特定多数にクソリプを飛ばす。それにも飽きたら、違法エロ動画サイトでオカズを漁り、恋人ライトハンドで致すのであった


 トラブルの対処法も慣れたものだ。ババアが何か小うるさいことを言えば、「死んでやる」と脅すか、少し殴りつけると大人しくなる。若い時は、ババアがよく引きこもり支援団体の人をよく連れてきていたが、ある日その人がめちゃくちゃなことをほざくもんだから、ブチ切れて座卓をぶん投げた所、あたりはしなかったが二度と来なくなった。こうして俺は、この家の主人として悠々自適に暮らしているのだ


 そんな生活も、突然終わりを告げた


「おいババア!飯!」といつもの様に呼びつけるが、しばらくたっても来ない。次第にイライラしてきたので、渋々、出向くことにした

 

 部屋のドアを開けた瞬間、何かが焦げた様な匂いがした。「ババア!何か焦げてんぞ!」と文句を言いながらドカドカと階段を降りて、久方ぶりのリビングの戸を開けると、ババアがダイニングテーブルに伏せて寝ている。味噌汁が入っていたであろう小鍋は、真っ黒に焦げ、コンロは、“消し忘れ防止装置”が働いたことを知らせるランプが点滅している。「料理中に寝るなんて、なんてババアだ」と悪態を吐きながら体を何度も揺らすも、反応がない。そのうちババアの身体はテーブルを滑り、床に力なく転がった


 その時、俺は気づいてしまった。『ババアが息をしていない』ことに

 

さっきまでのイライラがスッと引いて、みるみる青ざめ、呼吸がだんだん荒くなる


「どどど、どうしよう!...あ、電話だ!電話をかけよう!ってどこに?だれに?警察?救急車?それとも...ああ!わからん!誰か!誰か助けて!助けて!助けてください!!」


 泣き言を喚き散らしながら、パニックに陥った俺は、無意識のうちに玄関を飛び出していた。


 大の大人の男が、外で泣き喚いている光景は誰が見ても異常である。暫くすると、誰かが通報したのか、パトカーが家の前に止まり、その30分後に2台の救急車が続いて止まった


 「阿部さん、阿部一夫さん、聞こえますか?」と、遠くの方で若い男の声が聞こえる。「あれ、俺どうしたんだっけ?確かリビングに降りたら、ババアが倒れてて、それから...ああ、なんだっけ?」それからまた沈黙の後、次第に目が覚めて視界がはっきりしてくると、無機質な白い天井が見えた。


 ここは病院の様だ。酸素マスクをつけられた俺は、どうやら気を失ってここに搬送されたらしい。目覚めたことに気づいた若い看護師ナースが、PHSで連絡をとると、医者である男がこちらに近づいてくる。上体を起こして簡易的な検査をしたのち、俺の腕に刺してあった針と、酸素マスクが外された。そして医者の男は神妙そうな表情で、口を開いた


 「阿部さん、落ち着きましたか?あなたには、伝えなければならないことがあります」これまでの人生の中で、こんな表情で迫られたことがない俺は、ドキリとして思わず唾を飲む。


 「残念ですが、お母様は搬送された時にはもう、亡くなられていました」


 一瞬、この男が何を言っているのかわからなくなった。ガバッと起き上がった俺は、矢継ぎ早に浮かぶ疑問と不安に駆られ、医者の男に掴みかかって捲し立てた。


 「ババアが死んだ?嘘だ、冗談だろ?適当なこと言いやがって!昨日まで俺の飯作ってたんだぞ?テメエが殺したんだろ!なぁ!これから俺はどうすればいいんだよぉ、なあぁあああああ!うう〜ぅ嫌だ!嫌だ!嫌だぁ〜!」


 次第にまた息が苦しくなってくる。そして視界がぐにゃりと歪み、ぷつりと意識が途切れた

 

 次に目が覚めた時には、傍らに初老の夫婦と、がっちりした体格の2人の男の姿があった。ぼんやりとした視界がはっきりしてくると、女の顔はババアにそっくりだ。なんだドッキリかよ、生きてんじゃねーか...と思ったや否や、痛みと共に、女の手のひらが俺の頬を打った


 「一夫!あんたが母さんを殺したんだ!この親不孝もの!」


 突然怒った出来事に、呆然とする俺と、涙で目を腫らし、息を荒立てている女。体格のいい男のうちの1人が間に入り、「まあまあ、めぐみさん落ち着いてください。まだそう決まったわけじゃないですから」と女をなだめる


 男たちはジャケットの胸ポケットから、記章バッジのついた手帳を取り出して俺に向かって掲げた


 「県警の小島と、同じく山本です。この度はご愁傷様でした。お母様の件で、少しお話があります。ああ、そのままベッドの上で結構ですよ」


 刑事ドラマでしか見たことない、“事情聴取”と言うやつを突如受けることになった俺は、ただオロオロするばかり。すると小島はにこやかな顔で、「一夫さん。我々は現場の話からして、“あなたがお母さん殺した”と疑ってるわけではないんです。ただ、ね。これも仕事なので、お願いしますよ」と言った


 その一言で、俺は安心し、ぽつりぽつりと思い出せる範囲のことを話した。しばらくすると小島の携帯が鳴り、病室から出ていく。その間は山本が話を聞いてくれた。一見強面だが、しっかりと俺の話を聞いてくれたし、関西訛りの話し方が芸人の様で、なんだか自然体で話をすることが出来た。こうして人と話すのは、実に久しぶりでなんだか嬉しくなってきた。


 しばらくすると、小島が戻ってきた。検視の結果は“急性心不全”で、事件性がないことも確認出来たそうだ。「ご協力ありがとうございました」と、小島と山本は病室から出て行った。 

 

 目線を夫婦の方に戻す。女の方はすっかり落ち着いた様だ。俺は、女に声をかける


「もしかして、姉ちゃん?めぐみ姉ちゃんなのか?」


 女は泣き腫らして疲れた顔を上げ、俺に向かって「久しぶりね」と言って微笑んだ。隣の男は夫のさとる、つまり俺の義兄と言うことになる。話を聞くと、あの後、ババアの緊急連絡先にあった姉ちゃんに電話が行き、隣町から40分かけて病院にきた。兄のひろしにも既に連絡済みで、明日の朝の飛行機でこっちに着くそうだ。葬儀やその他手続きがあるそうで、しばらく姉ちゃんは実家に泊まるという


 俺も状態が安定し、退院の許可が降りたので支度をして家に戻ることになった。義兄が運転する車に乗って、家まで向かう。窓の外をみると様変わりした俺の知らない街の風景が流れていく。まるで浦島太郎の気分だ。そうして揺られること15分、愛しのマイホームへ到着した


 「あら、恵ちゃん?それに一夫くん...かしら?聞いたわよ。靖子やすこさん、残念だったわね...これ家の鍵。物騒だから警察に言って預かっておいたの」


 隣人の武藤のおばさんも、しばらく見ないうちに年老いて、顔も皺くちゃ、すっかり腰も曲がっていた。家から一歩も出ず、なんの変化もない毎日を過ごした俺は、“老いること”知らなかった。今、”隣人の老い“を目の当たりにして、ようやく俺も歳を取ったことを痛感する。姉ちゃんから鍵を奪い取って、玄関を開けるとそそくさと廊下階段を上り、”俺の部屋“に帰還した。「ああ、やはりここが落ち着くなぁ」と言って布団の上のゴミをどかし、ベッドに転がると、そのまま眠ってしまった


続く

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