バーボン小僧
幼かった頃の私は、父に連れられた映画館で観た、“西部劇の男”に憧れた
白黒映画で、タイトルも内容もよく覚えていないが、カウボーイハットを目深に被り、腰には愛用の
映画館を出た後、私は父に、あれは何?と尋ねる
「酒だよ。バーボンって酒を飲んでるんだ」
そう、父は教えてくれた。『バーボン』、なんて、かっこいい言葉なんだと、当時の私はいたく感動した
そして時はすぎ、私、
ある日の接待の帰り。接待相手の社長さん、同席していた部長、課長がそれぞれ乗ったタクシーを見送った私は、当てもなく夜の街を歩く。煌びやかに光るネオンや、ライトアップされた看板が賑々しい。「お兄ちゃん、可愛い子いるよ。どうだい?サービスするからさぁ」なんて声は、今の俺にはお呼びでない。すると、一軒の小さな店が目に止まった
『BAR ウェスト』
その看板を見た瞬間、私の脳裏に幼き頃の思い出が蘇る。あのパタパタした扉じゃないが、ここはBAR。男たちが酒を飲む場所だ。かつて憧れた“賞金稼ぎの
「いらっしゃいませ」
少し暗い店内は、赤いチョッキに黒い蝶ネクタイ、髪をきちっと角刈りに整えた、中年のマスターと、カウンターの隅で、ピーナッツをツマミに“ダルマ”を美味そうに飲む、白髪の混じる中老の男が1人いるだけだ。どうぞと促され、入り口のコート掛けにジャケットを掛けると、カウンターの真ん中辺りに座る
「凄え、これ全部酒なのかよ」
私は思わず息を呑む。それもそのはず、私の知ってる酒はビールに焼酎、日本酒、それに“カク”に“アカフダ”、“ダルマ”。それにお得意先の社長さんが好きな“ジョニクロ”ぐらいのものだ。ここにはそれ以上の、英語で書かれた読めないラベルの貼られたボトルが、ところ狭しと並んでいる
「何を召し上がりますか?」
マスターの男の声で我に返った、“賞金稼ぎの
「バーボン」
私は子どもの頃から憧れた、“
「バーボン、ですか......え〜、どのバーボンをお召し上がりでしょうか?」
一瞬、時が止まる。私はこのマスターは、“バーボンも知らないモグリ”だと思った。一向に出てくる気配がないので、急かすように言う
「バーボンと言ったら、バーボンでしょうが。バーボンだよ!」
すると、隣で“ダルマ”を飲んでた中老の男が口を挟む
「
その言葉にムッとした私は、男を睨みつけた。もし本物の
「まあ、そう怖い顔するな。よく聞け、カウボーイ。いや、バーボン
するとマスターは、申し訳なさそうに、カウンターに数本の瓶をズラリと並べながら、低く落ち着いた優しい声で、話始めた
「バーボンっていうのは、アメリカンウイスキーの一種で、トウモロコシを主な原料に使って、主に、ケンタッキー州と言うところで作られたものを“バーボン”と呼ぶんです」
私は急に恥ずかしくなり、顔を真っ赤にして下を向いた
「生意気なこと言って、すみませんでした......」
と蚊の鳴くような声で謝罪すると、“ダルマ“の男は、気にする素振りも見せず、豪快に笑った
「誰にだって間違いはある、気にするな。若者は素直が1番だ。それより、せっかくマスターが何本か用意してくれたんだ。おじさんのお節介だ、一杯ご馳走するよ」
目の前にズラリと並ぶ、読めないラベルの瓶の左から2番目にある、赤い蝋が垂れたような意匠の瓶に心奪われた私は、それを指さす
「『Mark’s Maker(マークズ・メイカー)』ですね、かしこまりました。飲み方はいかがしましょう?」
「じゃあ......おまかせで」
「はい、かしこまりました。では『オン・ザ・ロック』でご用意します」
マスターは慣れた手つきで、氷の塊をアイスピックで丸く削り、幅広なグラスに落とすと、その上からキッカリ1ショット分の
「お待たせしました。『Mark’s Maker』オン・ザ・ロックです」
グラスの中で、
「美味しい。これが“バーボン”......これがウイスキーの味なんだ......」
これまで接待の席や、連れて行ってもらったキャバレーなんかで、ウイスキーの水割りを飲んだことはあったが、美味しいと思ったことはなかった。だが今、それが大きく覆ったのだった
その晩は、その一杯だけで帰ったが、私はすっかりウイスキーの
“ダルマ”さんやマスター、他のお客さんと色んな話をしながら、ジャパニーズ、カナディアン、アイリッシュ、スコッチ、そしてバーボンを含むアメリカンの色んな銘柄を飲んだ。するとそのうちに、自分の好みの味がわかってきて、その日の気分で、銘柄や飲み方を選べるほどに詳しくなった
だが、マスターや“ダルマ”さんは、いつまで経っても私のことを、バーボン
あの衝撃的な出会いから、40年の月日がたった。私はちょうど、あの頃の“ダルマ”さんぐらいの年齢になった。足繁く通った『BARウェスト』は、10年前、マスターが亡くなって店をたたみ、“ダルマ”さんは、音信不通、多分もうこの世にはいないだろう。最後の最後まで、彼の素性も本名も知ることはなかった
2人の子どもたちは独立し、仕事は定年退職。今は妻とふたり暮らしだ。時折、こうして小遣いをもらい、行きつけのBARの扉をくぐる
「いらっしゃいませ、こちらへどうぞ」
「いつもの」
それは『Mark’s Maker』オン・ザ・ロックだ。マスターは慣れた手つきで私の前にそれを置いた
薄暗い店内で、グラスに入った琥珀色の液体を傾けると、芳醇な香りと甘さと共に、『バーボン小僧』と呼ばれていた、若かりし“あの頃の自分”を思い出した
終わり
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