ぼくとお母さん (後編)

 どのくらい寝たのだろう。常に遮光カーテンが引きっぱなしの俺の部屋は、昼も夜もわからない。トイレに行こうと部屋のドアを開けると、ふんわりと味噌汁の香りが漂ってきた。おそらく恵姉ちゃんが食事の支度をしているのだろう。ただ俺は、この階段を降りてリビングにいくのが怖かった。先日の光景が、未だ脳裏に焼きついて離れない。途端に気分が悪くなり、トイレに入って嘔吐する。落ち着いた後も、どんどん不安が押し寄せてくる。逃げる様に自室に戻り、布団をかぶってガタガタと震え「悪夢なら覚めてくれ!」とただ祈るばかりだった


 ドアを叩く音と、自分を呼ぶ男の声で目が覚めた。


 「一夫、俺だ。ひろし兄ちゃんだ。顔を見せてくれ」。のっそりと起き出してロックを外し、ドアを開けると、確かに兄ちゃんの面影がある初老の男が立っていた。俺は、兄ちゃんの後ろについて階段を降りて、脱衣所に向かう。そこで“きたきり雀”のスエットを脱ぎ捨て、シャワーを浴びた後、そこら辺にあった新品の服や下着に着替える。ババアはこれまでも、俺の服や下着を買ってくれていたので、封を切ってないものがまだあったのだ。着替え終わり、リビングに出ると兄ちゃんはソファーにどっかりと座り、くつろいでいた。聞くところによると、姉ちゃん夫婦は、葬儀の手続きやらでもう家を出たという


 「一夫、ちょっとドライブに行こう」。ソファーから体を起こした弘は、俺の手を引っ張って外に連れ出すと、形見となった軽自動車に乗れと言った。渋々応じて助手席に座る。弘は運転席に座ると、何処かに車を走らせた


 無言の車内はなんだか気まずく、車窓の風景が陽気なラジオと共に、ただ流れていく。俺は気の利いた話の一つでもと思ったが、何一つ思い浮かばない。そのうち、弘が沈黙を破る


「すまなかったなぁ。お前に何もしてやれなくて」


 思いがけない謝罪の言葉に、少し戸惑った。いじめがきっかけで引きこもり始めたものの、時が経つにつれどうでもよくなって、ただ親の金で暮らしていた。なのになぜ、兄ちゃんが謝っているのだろうと思った。「...何で謝んだよ、意味わかんねぇ。...ところで兄ちゃん独りだけど、家族は後で来るの?」と尋ねると、少し間をおいて、弘が口を開く


「うちのはな、去年死んだよ...乳癌でな」


 俺は、しまったと思った。何気なくのつもりでいたのにどうやら地雷を踏んでしまったようだ。あたふたする俺を横目に、弘はフッと微笑んだ。「気にすんな。今は一人暮らしだけど、盆正月なんかは息子夫婦も帰ってくるし、まあ気楽にやってるよ。それにな、来月、俺にも孫が生まれるんだ。信じられるか?俺が、“おじいちゃん”って呼ばれるんだぜ」。ハハハと笑う弘の姿は、思い出の中にいる“兄ちゃん”と、何も変わらない感じがした。髪の毛もすっかり白くなって、目尻の皺も増えたけど、寸分の狂いもなく“兄ちゃん”だ


 俺と兄ちゃんはその足で床屋へ行き、髪と髭を整えた。そして、葬儀の段取りをしていた恵から連絡があり、教えられた葬儀場までドライブを続けた


 「一夫、弘。案外早かったわね」葬儀場のホールで、恵が待っていた。弘と一夫は連れられて、遺族控室に入る。中には既に簡易的な祭壇が設けられ、棺が安置されていた。小窓からは、既に死化粧を施され、静かに眠るババアの姿があった。ああ、やはりババア死んだんだと思った


 それから、恵側の姪家族と甥家族が、ババアから見てひ孫にあたる子供を数人連れて、控室入ってくる。当然、“誰?あの人?”という視線に居た堪れなくなり喫煙所に逃げた。メンソールのタバコに火をつけてフーッと紫煙を吐く。そして心の中で『あれが、甥っ子や姪っ子か。遊びにきてた頃は、俺の部屋にも声が届くくらい、ギャーギャーうるさい餓鬼だと思っていたけど、もうすっかり大人じゃないか。俺の何倍もずっと...』と、心の中で呟く


 一服して戻ってくると、葬儀場のスタッフに声をかけられる。喪服の相談だ。礼服の一つも持っていない一夫の為に、恵が貸衣装の手配をしてくれていた様で別室に連れていかれ、メジャーを使って採寸。その後、「明日用意しますので」と一言言って解放された

 

 そして通夜。前日の夜は、一度弘と共に家に戻った。シャワーを浴びてからPCの前に座るも、ゲームもオカズで一発致す気も起きず、ふーっとため息をついてベッドに横になると、そのまま眠ってしまった。気づいたら朝。弘に起こされた後、身支度を整え、姉ちゃん家の車に乗って葬儀場まで行く。


 俺はただ、その辺をブラブラしたり、一服したりして暇を潰していたが、弘に呼ばれ、喪服を着る。そのうちゾロゾロと親戚が集まってくる。当たり前だが、叔父や叔母も随分と歳をとってる。色々と話しかけられて、「ええ」とか「まあ...ハハハ」などと対応する。もうとっとと、帰りたくなってきた


 一通り通夜が終わり、棺が控室の祭壇に安置された。控室の端っこで、通夜振る舞いの食事を適当に食べ、時折ビールを飲みながら物思いに耽る


 「ババアが死んだってだけで、こんなに悲しむ人がいるんだなぁ...どうせ俺が死んでも、誰も悲しまない。でも、それはそれで嫌だなぁ...」


 少しウトウトし始めた時、弘と恵の声がした。もう、控室には俺たち姉弟きょうだいしか残っていなかった。


 「“寝ずの番”は、俺たちでやろう。せっかく姉弟揃ったんだ、お袋に最後、仲良いところ見せるってのも供養になるんじゃないか?」と、赤ら顔の弘が言うと、恵もクスクスと笑って、「そうねぇ、それがいいわ」と言いながら布団を3枚、川の字に敷いた。


 こうして、いい年こいた中高年の姉弟は、半世紀以上の時を超えて、布団をくっつけて眠る。最初こそ気まずさと慣れない枕に寝付けなかったが、恵や弘と、昔話やとりとめのない会話をしていると、安心感からかそのうち眠ってしまった。次の朝、今まで経験したことのないくらい、スッキリと目が覚めた。引きこもって半世紀以上、これほどまで爽快に、目覚めたことがあっただろうかと思うほどだった


「おはよう、兄ちゃん、姉ちゃん」


誰かに“おはよう”と言ったのが久しぶりで、少し声は上擦ってしまったが、自然と出た挨拶。恵も弘も「おはよう」と、返してくれた


 坊さんの読経と線香の香りに包まれた空間で、参列者が見渡せる遺族席は、一夫にとって居心地が悪かった。葬式は粛々と終わり、一行は呈茶室へ。精進落としの弁当を食べてしばらくすると、葬儀場のスタッフが、「そろそろ出棺です」と告げた


 蓋が少しずらされた棺の中で、たくさんの花に囲まれて、ババアが眠っている。皆さめざめと泣きながら、お別れの言葉と共に花を入れていく。なんて辛気臭い儀式だと思いながら、少し離れたところから見ていると、「一夫!お母さんにお別れを言いなさい!」と涙声の恵が一喝する。おそるおそる棺に近づき、安らかなババアの顔を観た途端、俺の体は膝から崩れ落ち、感情が堰を切ったように溢れ出した


「お母さん!お母さん!すまんかった...!ごめんなさい!...おかあさん、おかあさん!」


 謝罪、後悔、感謝。その他あらゆる気持ちが、嗚咽と共に滂沱の涙となる。まるで小さな子どものように泣き喚き、その涙は霊柩車のサイレンが鳴り響いた後も、しばらく続いた


 その後、俺は兄ちゃん、姉ちゃんの協力で福祉に繋がることができた。実家を売却し、引きこもり支援団体が営む施設に入った。今はそこで農作業の手伝いなどの軽作業をしながら、社会復帰を目指している。友達もできた。同室の山ちゃんだ。一回り以上年下だが、自然と馬が合う。「おーいカズちゃん、そろそろ食堂行こう」と、山ちゃんに誘われたので、「おう」と返事をして、腰をあげる。ふと後ろを振り返ると、机の上に置いた、小さな遺影の“お母さん”が微笑んだ気がした


 終わり

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