私の推し
「ただいま〜」
今日もまた、仕事を終えて帰宅。いつもの様に玄関の引き戸を開けながら、帰宅したことを告げると、木霊のように母親の声が返ってくる
「おかえり。晩御飯もうすぐできるから」
佳菜子は職場から車で10分ぐらいのところにある実家に、父と母、そして祖母の4人で今は暮らしている。3つ離れた姉は5年前に結婚して、今は隣町に住んでいる。通勤着を脱ぎ捨てて、部屋着に着替えると、夕飯の匂いに誘われてリビングに降りた。今日の夕食は、生姜焼きだ。ダイニングテーブルに4人揃ったところで、食べ始める。今日も一生懸命に働いた分、ご飯が美味しい。ささやかな幸せを噛みしめていると、しばらくして母が何かを思い出したかの様に、口を開いた
「そういえば、あんたと仲良かった
由香は幼馴染で、中学生までは毎日一緒に学校に行き、中学ではバスケットボール部で共に汗を流した大親友だ。高校は別々のところに行ったが、休みの日なんかはよく街中に一緒に遊んでいた。高校卒業後、由香が県外に就職し、それからは自然と疎遠になった。最後に会ったのは7年前の成人式だったかと思う。「ふーん、そうなんだ」と、そっけない返事をする佳菜子は、残ったご飯の上に生姜焼きを乗せて掻きこみ、味噌汁で胃に流し込む。そして、足早に「ご馳走様」と言って、自室に戻る。母がそんな話をする時、決まって言う“あの言葉”を聞きたくなかったからだ
『あんたも、そろそろ“いい人”見つけて、ね?』
部屋のドアをバタンと、閉めてベッドに転がる。ベッドの上のクッションにパンチを何発か放ったあと、天井を見つめながら大きな独り言を捲し立てる
「田舎の農協と実家の往復生活のどこに、素敵な出会いがあるの?あそこにいるのは、冴えない男か、脂ぎったおじさんばかり。この間”お見合い”って言って持ってきた話だって、45歳のトマト農家か、50歳の米農家のおじさんだったじゃん!」
ひとしきり毒を吐いて、一旦落ち着いた佳菜子はスマホで“推し”の動画を観て、気持ちを切り替えようとする。
『やあ、どうも。雲母坂颯斗です』
画面に映った“推し”の姿に、佳菜子のテンションは一気に上がる。王子様系なのに、どこか天然。普段はイケボなのにホラーゲームが苦手でキャーキャー言ってしまうところも魅力的だ。これまで彼氏というものが出来たことのない佳菜子にとって颯斗は“推し”であり、“理想の彼氏”なのだ
恍惚の表情で、推しのトークに酔いしれながら、時折、1回3000円のスーパーチャットに乗せて、佳菜子なりの“愛”を文字に乗せて投げ銭する
『お、かなかなさん。いつもスパチャありがと〜♪お仕事、お疲れ様♪』
『自分の投げたスパチャを“推し”が認識して返事をくれた!』嬉しさのあまり足をバタバタさせながら、推しが私の名前を呼んでくれた、心配してくれた事実に悶える。もう死んでもいいと思えるほどに幸せな気持ちを遮る様に、メッセージアプリの通知が鳴った
『ゆか: かなこ〜ひさしぶり〜』
邪魔をされた苛立ちで少し舌打ちをするが、画面にプルダウンしてきた、思いがけない由佳からのメッセージに驚く。颯斗の配信が終わり、お風呂を済ませてから由佳に返事をする
『かなこ:ひさしぶり〜そういえばお母さんから聞いたんだけど、結婚するって、マ?』
すぐに“既読”がつき、返事が返ってくる
『ゆか:マ』
『ゆか:式は6月にやる予定だから、また案内送るね』
『かなこ:ゆか〜 おめでとう!式絶対行く!』
『ゆか: ありがと〜 あとさ、来週の土曜空いてる?久しぶりに遊ぼうぜぃ!ぜい!』
由佳からの遊びの誘い。久しぶりに会えると思うと心が踊った。そしてキャラクターのスタンプ一つで、その誘いを“快諾”したのだった
そして、次の土曜日の昼過ぎ。佳菜子は電車で1時間揺られて、待ち合わせ場所である都内の駅構内にいた。もう既に待っていると由香からは連絡がきていたが、それらしい女性は見当たらない。オロオロしていると、柱の辺りから派手目な雰囲気の女性が、こっちに向かって駆け寄ってきて、急にハグされた
「かな〜!ひっさしぶりぃ!変わんないねぇ」
嗅ぎ慣れないきつい香水の匂いと、身に降りかかった出来事に混乱しつつも、女性の顔をよく見ると、親友の面影があり、ようやく由佳だということが認識できた。その途端、佳菜子も嬉しい気持ちで溢れ、由佳を少し引き離して、気持ちを伝える
「久しぶり!ずいぶんと可愛くなったんじゃない?あと、結婚おめでとう〜」
感動の再会の後は、あらかじめ予約したお店、フレンチダイニング『Bistro Marseille (ビストロ マルセイユ)』へ。グラスの白ワインで乾杯したら、適当に注文した
「これ、あたしの旦那〜」と言って見せてきた写真には、決してイケメンではないが、優しそうな雰囲気の男性が、由佳の隣で笑顔を見せていた。『ああ、由佳はこの
「かな〜、終電は大丈夫?気にしないんだったら私のおすすめの店があるんだけど?」
「大丈夫。大丈夫。最悪、ネカフェかカラオケでオールすればいいからさぁ。ゆか、連れてってよぉ」
由佳はニッコリと笑って、佳菜子の手を取り、慣れた足取りで夜の街を歩いていく。煌びやかに光る看板と、行き交う人々の表情は、普段の見慣れた田舎の風景に比べると、佳菜子には眩しく感じた。だが由佳が一緒にいると思うと、不思議と安心感があった。そう感じているうちに、あるビルの前で立ち止まる
「このビルの2階。私よく行ってるんだぁ。イケメン多いし、めっちゃ楽しいよ」
看板には、ラグジュアリーな書体で『CLUB STARDUST』と書いてある。普段の佳菜子なら、近寄らない店だが、気が大きくなっているのもあり、言われるがまま少しカビ臭いエレベーターに乗った
クラブミュージックのかかる、少し薄暗い店内で、飲み放題のビールを居心地が悪そうに飲む佳菜子の横で、由佳は“推し”のホストの話に大袈裟に相槌を打って、バカ笑いしている。とても来月籍を入れる花嫁とは思えないほどの下品さだ。佳菜子の隣にも取っ替え引っ換えでホストが座るが、あまり雑談が得意でない佳菜子は、愛想笑いが精一杯だった。『ああ私には不釣り合いな空間だ。正直もう帰りたい』という気持ちになってきた
すると、店の騒がしさとは相反する、ゆっくりと落ち着いた感じの男の声がした
「こういうとこ初めて?分かるよ。“どうしたらいいかわからない”って顔してるもん」
そう言いながら佳菜子の横に、ゆっくりとホストが座った。だが先ほどまでのホストたちとは違う雰囲気を纏った、落ち着いたイケボだ。元々声フェチな佳菜子は、パッと酔いが覚める様な気持ちになる。振り向き、ホストの顔をまじまじと見る。薄暗いからよくわからないが年は40手前辺り、オールバックヘアーに切れ長の目。まるで漫画の中の“イケおじ”の様な雰囲気にぴったりなその大人びた声。佳菜子は一瞬にして心を鷲掴みにされた
「はじめまして、お姉さん。楽しんでいただけていますか?この店のNo.1、
ホストは名刺を差し出して自己紹介をし、そして、「楽しんで」と一言いうと、また別のテーブルに行ってしまった
「そろそろお時間ですが、延長なさいますか?」
終電に間に合った佳菜子は、駅で由佳と別れ、独り家路まで揺られていた。胸がドキドキして視点もボーっとして定まらないのは、お酒のせいだけではない。『あれは一体なんだったのだろう?』と、『STARDUST』のさっきまでの光景を、脳内で反芻していた。TETSUYAの顔と声を思い出すたび、頬が緩み顔がニヤけてくる。こんな気持ちになったのは、雲母坂颯斗にハマった時以来だ。よし、今日から私は“TETSUYA推し”だと心に決めた佳菜子だった
それから佳菜子は、毎週のように『STARDUST』に通った。No.1なので、なかなか席には付いてくれなかったが、付いてくれた時は仕事の愚痴をうんうんと聞いてくれたり、時には優しい言葉と共に頭をポンポン、そして肩を優しく抱いてくれた。
もうすっかりTETSUYAの虜になった佳菜子は、もっと私だけを見てほしいと思うようになり、メイク道具や服、ネイルにお金をかけるようになった。グッズやポスターを全て売り払って、資金の足しにした。いままで適当にやっていたメイクもSNSの動画を参考にしながら試行錯誤を繰り返した。同僚から「最近綺麗になったんじゃない?もしかして、彼氏?」と聞かれると「まあ、そんなとこかな」と答えられる自分が嬉しかった。母のお小言も減り、いい事づくめだった
佳菜子はいつしかこんな田舎を出て、TETSUYAと結婚して、都会のマンションで暮らすことを夢見るようになった。TETSUYAの”No.1“になるために努力するのが生き甲斐になった。店ではTETSUYAのために、高いシャンパンを躊躇することなく注文。今までコンプレックスだった奥二重の目も二重にした。薄暗い店内でも、TETSUYAは「佳菜子、また可愛くなった?」と気づいてくれた。あんなに苦手だったコールが楽しいと感じるようになったのも、私が綺麗になっていくのも全てTETSUYAのお陰だ
「あんた、これはちょっと使いすぎよ!」と母がクレジットカードの明細書を持って、部屋に入ってきた。ノックも無しに入ってくるばかりか、勝手に人の郵便物を開けておいてなんだと、佳菜子は怒鳴る。「自分で稼いだお金をどう使おうと、私の勝手でしょ!早く出てってよ!」母が部屋から出ていき、床に落ちていた明細書の請求額は120万円。夏菜子の月収の半年分より多い額だ。思わぬ高額請求に、一瞬ゾッとするが、これも“TETSUYAの妻になるための投資“だと思うことにした
だが、現実は厳しかった。車を買おうと思って貯めたお金は、すぐに溶けた。給料のほとんどはTETSUYAに課金、足りない部分はおばあちゃんにおねだりしていくらか借りた。だが、お父さんにバレて怒られてからはそれができなくなった。夜遊びが祟り、居眠りや遅刻が増えた。ミスも増え、上司に叱られ続けた結果、佳菜子は精神を病んでしまった
薄暗い部屋で佳菜子はベッドに寝そべりながらスマホをいじっている。ボサボサの髪に、肌荒れで吹出物だらけの顔に不自然なほど濃いメイク。ガリガリに痩せ細った体躯は、数ヶ月前の彼女とは似ても似つかない。今は仕事を休職し、精神科に通って処方された薬を飲んでいる。だが相変わらず、ほんの少しの傷病手当と消費者金融で借りたお金を元手に、『STARDUST』に通っている
最近はTETSUYAも忙しいのか、全然会えないことを気にしていた
「今日は、TETSUYAに会えるといいな」
起き上がり、ベッドの上に放置された胸元が大きく開いた”勝負服”に着替え、誕生日プレゼントにTETSUYAにもらった高級ブランドバッグを携えた佳菜子は、一縷の希望を胸に部屋から出た
終わり
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