天龍軒のラーメン (一)
ビルが乱立する都心のオフィス街から、一つ細い路地を入ると、一軒の古いラーメン屋がある
店の名前は『
そんな、どこの街にもあるような、小さいラーメン屋だ
とある土曜日のランチタイム。この『天龍軒』で事件は起きた。正午過ぎだと言うのに、サラリーマン風の男が1人、カウンターでスマホをいじっているだけ。店内にはテレビと、カンカンと中華鍋の音だけが、響き渡る
引き戸がガラリと開き、老人が1人、
「いらっしゃい、あらシゲさん!今日は少し遅いのねぇ」
「ちょっとヤボ用がね。ああ、チャーシューメン。あとビールも」
常連客の1人、シゲさんはカウンターに腰掛けた
シゲさんこと
15年前に、自身が経営していた建設会社を、息子に譲って隠居してからは、ほぼ毎日来てくれる。厨房で大きな中華鍋を力強く振るいながら、先客の炒飯を作る吉彦は、注文を聞いて、ぶっきらぼうに返事をする
「シゲさん、お医者さんに尿酸値が高いってまた怒られるわよ」
みゆきはピッチャーを片手に、カウンターの上にお冷を置く。シゲさんは、お冷を一息に飲むと、いつもの調子でこう言うのであった
「みゆきちゃん、固いこと言うなよ〜。なぁ、ヒコちゃんよぉ」
また引き戸がガラリと開いて、今度はいつも来てくれる近所の高校の、ラグビー部の学生がやってきた。今日は、後輩と思わしき子と一緒だ
「ばあちゃん、こんちは!学生ラーメン2つ。腹減ってるからさ、麺とライスは大盛りで!」
「
孫に話しかけるような、優しい口調でみゆきが出迎える。そして、声を張り上げ、注文内容を伝えると、厨房から吉彦の返事が返ってくる
「おい、ラーメンと炒飯出るぞ」
「あいよ」
みゆきは厨房に入ると、ラーメンと炒飯を慣れた手つきでトレーの上に載せて、お客さんの前に提供する
「はい、おまちどうさん。ラーメンと炒飯ね」
先客の男の前に、熱々のラーメンと炒飯が置かれた
炒飯は、卵とネギ、焼豚の切れ端とかまぼこが混ぜ込まれたパラパラのご飯が丸く形成され、紅生姜が天盛りにしてある
先客の男は、パチンと割り箸を割り、一心不乱に食べ始める。その間に、みゆきは出来上がったチャーシューメン、栓を抜いた
ラーメンと炒飯を平らげた男は、お冷を飲んで幸せそうな顔で、フーッ息をつく。卓上の爪楊枝で歯の掃除をしてから、席を立った
「ご馳走さんでした」
「また来てくださいねぇ。最近は暑かったり寒かったりするから、体に気をつけてくださいねぇ」
レジで会計を終え、立ち去る男に、みゆきは優しい言葉をかけて見送った
いつもの『天龍軒』の風景。角の高い位置に置いたTVの音をBGMに、シゲさんは麺を食べ終えて、汁に浸かった焼豚とメンマで、チビチビとビールで一杯。学生たちは、ライスを汁の中に入れてワシワシとかきこんでいる
するとまた引き戸がガラリと開き、見慣れない若い3人組の男が入ってきた。みゆきがいらっしゃいと言う前に、そのうちの1人がみゆきに尋ねる。
「あの、『麺どうch』なんですけど、おばあちゃん、ここ撮影OKですか?」
『麺どうch』は、城南大学で経営学を学ぶ学生のカズヤ、サブロー、そして撮影係のアキラの3人で活動している、今若者たちに人気の“ラーメン系インフルエンサー”だ。歯に衣着せぬ、辛口コメントでその店のラーメンを評価するスタイルが特徴的で、彼らが取り上げた店は、瞬く間に客足が増えるほどの影響力がある
しかし、そんな彼らを知らないみゆきは、よくわからないが“撮影”と言っているので、TVの取材だと思い、丁寧に断った
「ごめんなさいねぇ。ウチ、こんな店ですから、TVはお断りしてるんです」
すると、その若者の表情がパッと明るくなった
「じゃあ俺たちTVじゃないんで、撮影OKってことですね!」
アキラと呼ばれた若者が、おもむろにスマホを取り出して撮影を始めた
「『麺どうCh〜』!イエィ!どうも〜メン狂いカズヤと...」
「コッテリ大好き、サブローです!」
急に始まった何かに理解が追いつかないまま、みゆきは、若者たちを座敷席に案内する
「はいっ、と言うわけで、今日の企画は『ボロいラーメン屋のラーメンは、意外と美味い説』を検証していきたいと思います!イエーイ!ヨイショー!」
“聞きづてならない言葉”を聞いて、シゲさんのビールを飲む手が、ピタリと止まった。長年の付き合いから、嫌な予感察したみゆきは、シゲさんをまあまあとなだめる。そんな様子もお構いなしに、カズヤと名乗った若者は続ける
「今回は偶然見つけたここ、『天龍軒』です!いやーボロいですね、汚いですねー。まさに、この企画にぴったりです!サブローどうよ?」
「メニューもほら、ラーメンの種類もトッピングでカサ増し、サイドも餃子か炒飯。あとは瓶ビールとジュースだけのシンプルスタイル!いやー、これは期待が出来ますねー」
「と言うわけで、早速注文!今日も辛口チェックで行きますよー。おばあちゃん、ラーメン2つね」
ハッとしたみゆきは、注文内容を厨房の吉彦に伝える。暫くしてラーメンが出来上がると、みゆきはそれを、お盆に乗せて運ぶ
「おまちどうさん、ラーメン2つね」
テーブルの上に置くや否や、カズヤが口火を切った
「はい、きましたラーメンです。いやー地味ですねー!全く
「でも、”めちゃうま“かもしれないじゃん。カズヤ、偏見ダメ絶対」
「ハイハイ、反省してまーす。では、実食!」
一通り能書きを垂れた2人の若者は、ようやく割り箸を割って、食べ始める。麺とスープをひと啜りずつすると、大袈裟なリアクションをとる
「あー、ハイハイハイ、なるほどねぇ〜。はい、“説”立証失敗〜!いや、不味くはないんだけどさ、普通。思った以上に普通。普通すぎて、コメントありません。サブローは?」
「うん、確かに普通だわ、このラーメン。スッキリし過ぎて物足りない。パンチ欲しいね、パンチ。もっと背脂ドーン、ニンニクバーンみたいなさ。それか、1500円ぐらいにして、オシャレラーメン路線で...いや、この店じゃ無理か」
無礼な若者たちは、下卑た笑いを浮かべて、この店の一杯を
「ガキども!いい加減にしろッ!!」
もう我慢できなくなったシゲさんが、カウンターに拳を激しく叩きつけて怒鳴る。一瞬で静まり返る店内。怒りに体を震わせながら、席を立ったシゲさんは、ものすごい剣幕のまま、若者たちの席の前まで来た
カズヤと名乗った若者が、反省する様子もなくヘラヘラした口調で口を開く
「あの、おじいちゃん。撮影中なんで、静かにしてもらえますか?俺たち『麺どうch』って名前で活動してるインフルエンサーでして、知らないかもしれないけど、結構”有名人“なんですよ。正直に食べた感想を言っただけで、そんな怒んなくても...」
しかしその言葉は、シゲさんの怒りに燃料を
「お前たちがインフルエンザだか何だかは、知らねぇけどな、ヒコちゃんのラーメンを、分かったような顔でバカにすんじゃねぇ!このラーメンはなぁ!」
今にも掴みかかりそうな雰囲気に、あわててみゆきが間に入る
「シゲさん、もうやめてちょうだい!お客さん。もうお代は結構ですから、お帰りください!」
みゆきの肩に手を置きながら、シゲさんの目には怒りのあまり、涙が浮かぶ
「でもよぉ、みゆきちゃん。俺は悔しくて、悔しくて...よぉ!」
「ま、とにかく!ラッキー!タダ飯あざっす!」
そう言い放ち、そのどさくさに紛れて、『麺どうch』の3人が出て行こうとする。引き戸を開けて外に出た瞬間、背後から何かをぶつけられた
「しょっぺぇ!塩だこれ!」
とサブローが騒ぐ。振り返ると、塩の入った壺を抱えた吉彦が、真っ赤な顔して立っていた
「おいジジイ、何すんだ...」
カズヤが食ってかかろうとすると、吉彦は塩を掴み、もう一度3人に向かってぶつける
「出てけ!二度と来るな!!」
あまりの剣幕に、『麺どうch』の3人は、捨て台詞を吐いて逃げていった
事件から二日後、『天龍軒』にはひっきりなしに無言の迷惑電話が掛かってくるようになり、店の前には、常連客が入れないほどの行列ができていた
ただその客も変な若者の客ばかりで、やはりスマホをかざしながら一口、二口食べたら帰ってしまった
「塩撒きのサービスはありますか?」
「あの、暴力を振るってくる常連客がいる、って聞いたんですけど?本当ですか?」
「まずいんで、タダでいっすか?」
ヘラヘラしながら、変なことや、失礼なことを言う客ばかりくる。みゆきはふと、先日の若者達のことが頭をよぎった
みゆきの見立て通り、その原因は先日の『麺どうch』の若者達の仕業だった。彼らは、動画配信サイトの自分たちのチャンネルで、先日の出来事を投稿。『天龍軒』を古臭くて、味もイマイチ、常連客や店主が暴力的な、『最低最悪な店』だと紹介したのだ
それが瞬く間に拡散し、野次馬が増えたというわけであったが、ネットに疎い高齢者のみゆきや吉彦は、そんなことを知る由もなかった
キャパを超えた接客に、無残に残される味自慢のラーメン。それでも、笑顔で食べてくれるお客さんのために、老体に鞭を打って頑張る二人だったが、ついに、みゆきが体調を崩してしまった
みゆきが体調を崩し、店を休業してから、一週間がたった
以前として、迷惑電話がかかってくることもあるが、みゆきの体調はすっかり良くなり、明日からまた、店を開けることにしたので、明日からの仕込みを手伝う
仕込みが一通り終わり、店の裏口から自宅に上がろうとするみゆきを、吉彦が呼び止め、休憩室として使っている小上がりの座敷に座るように促す
いつになく真剣な眼差しをした吉彦に、みゆきは少し緊張する。吉彦は被っていた和帽子を脱ぎ、禿げ上がった頭を撫でながら、口を開いた
「みゆき、俺はもういい歳だ。そろそろこの店を畳もうかと思う」
「ええ、和彦さん。そろそろですかね」
みゆきは驚いたが、そう言って微笑んだ
そして、しばしの沈黙ののち、吉彦はタバコに火をつけ、昔の思い出を語り始めた
「そんなことも、あったわね」
時々、みゆきもそう言って笑った
「ついに俺たちには子宝はなかったけどよ、うちに来たお客さんが、俺たちの子どもみたいなモンだったよなぁ...」
今にも溢れそうな涙を誤魔化すように、吉彦は天井を見つめ、みゆきが入れたお茶をグイッと飲み干した
その時、店の電話が鳴った。またどうせ無言電話だろうと暫く放っておいたが、5分後にまた、かかってきた。渋々、みゆきが電話を取る
「はい、『天龍軒』でございます」
「あ、もしもしおばちゃん?元気にしてる?三田村です。淳です」
続く
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