聖母の幻想

「おめでとうございます、心拍が確認できました」


 大橋浩子おおはしひろこ(32)は、小さな影の映ったエコー写真を、医師から手渡された。2つ歳上の夫、俊成としなりと結婚して、もう10年。諦めかけた長い不妊治療の末、30歳過ぎてようやく我が子を授かった

 

 妊娠初期は、酷い吐き悪阻つわりに苦しんだが、我が子に会える日を思うと、辛くはなかった。臨月りんげつで産休を取ってからは、SNSや育児雑誌を読みながら、赤ちゃんのいるキラキラした暮らしを夢見る様になった。可愛い子どもと雑貨に囲まれて、聖母マリアの様な笑みを浮かべる、子育て系インフルエンサー『あかりママ』の姿を自身に重ねて、にやける毎日だった


 そして、4月15日の午前9時32分。元気な産声があがった。午前5時半から分娩室に入り、痛みと苦しみに耐えた末に、この世に生を受けた娘を、疲労困憊ひろうこんぱいの身体で抱き上げる。その後三時間遅れで病室に到着した俊成は感涙しながら、「僕たちも、ついに“パパ”と“ママ”や」と言い、待望の我が子の誕生を喜んでくれた


 無事に退院した浩子を待っていたのは、キラキラした“赤ちゃんのいるくらし”とは程遠い、現実的な辛い育児の日々だった



 俊成の仕事は、残業が多いため、帰ってくるのが21時を過ぎることがほとんど。つまり浩子は、娘、美鈴みすずのお世話、炊事、洗濯、掃除を全てワンオペでこなさなければならない。計画的にやれば、憧れの『あかりママ』のように、『赤ちゃんが寝ている間に、録画のドラマを見ながら、ハーブティーを飲んでリラックス』なんてことができると、信じていた


 だが、それは到底無理だと悟るのに、そう時間はかからなかった。寝たと思ったら急に泣き出す、ミルクは吐き戻す、ウンチがオムツの横から漏れ出すなどの予想外のハプニングが多すぎるのだ。ようやく落ち着いた頃には、疲労困憊。ソファーに寝そべり、“睡眠不足と疲労”の回復を優先させる日々だ



 「ただいまー。ってまた、お惣菜?」


 ソファーで寝落ちしてしまった浩子は、目を擦りながら起き上がる。「ごめん...美鈴みすずがずっと泣いててそれで...」


 言い終わらないうちに、俊成のため息が言葉を遮る


 「ひろちゃん、あんなぁ、育休中やからって、ちょっと、だらしがないんとちゃう?家におる分、家のことちゃんとやってや...」 


 レンジで温めた食事を食べた俊成は、食器を下げることなく、そそくさとシャワーを浴びると、冷蔵庫から缶ビールを取り出し、ソファーに座ってTVを観ながら晩酌ばんしゃくを始めた。浩子はその間、食器を下げ、今のうちに溜まった洗い物をと、スポンジに洗剤をつけたとこで、美鈴が大声で泣き始めた


 「ひろちゃん、美鈴泣いてんで」


 『言われなくてもわかってる』と言う言葉を飲み込み、手についた泡を落として美鈴の元へ向かう。オムツはさっき取り替えたばかりだし、ウンチが出てる様子でもない。つまり『お腹が空いた』の泣きだ


 「待っててね、今ママが、美味しいミルク作るからね〜」

 

 体質のせいか、母乳の出る量が少なかった浩子は、早々に粉ミルク育児に切り替えた。分量通りすり切って哺乳瓶に入れ、熱湯で溶かしてから純水を加え、人肌ぐらいの温度に調整する


 「はいおまたせ〜、みーちゃん」


 泣きじゃくる美鈴を抱き抱え、哺乳瓶の乳首を口元に持っていくと、ものすごい勢いで飲み始めた。そんな懸命な姿を見ていると、思わず笑みが溢れる浩子であったが、一瞥いちべつくれて俊成パパをみると、相変わらずTVとスマホに夢中だ


 思わず、舌打ちをしたくなる気持ちを、これまた飲み込んで、懸命な我が子の姿で中和する。空になった哺乳瓶を外し、縦抱きにして背中をトントンと叩くと可愛らしく「ケプっ」とゲップが出た。そのままゆらゆらトントンしているうちに、また眠ってしまった美鈴。シンクの洗い物や、畳まれてない洗濯物に“目をつぶり”、当てにならない俊成パパをリビングに置いて、美鈴を抱いたまま、寝室代わりの座敷に向かった




 そして季節は流れ、9月。美鈴は首が座り、寝返りなんてもう、お手のものだ。成長、いちじるしい美鈴と比べ、相変わらず俊成は、『美鈴と遊ぶこと』意外の育児をしない。浩子もすっかり諦めて、アテにしていないようになっていた


 「そういえば、大阪のお義母かあさん。明日、お昼の新幹線で来るんだったっけ?」


「そうや、だから部屋も綺麗にかたづけんと」


 人任せで、自分からやろうとしない夫に向かって、ため息をつくと、ダイニングからリビングに移動する。リビングに設置したベビーサークルの中でニコニコ笑いながら遊ぶ美鈴は、もうそろそろお座りができそうだが、“起き上がり小法師”のように、ゴロンゴロンと転がっている


 正直なところ、浩子はお義母さんが少し苦手だ。別に悪い人ではないのだが、絵に描いたような『大阪のオバチャン』で、距離感が近く、お節介が過ぎる。顔を会わせるのは、俊成と一緒に大阪に帰省した時以来、実に3年ぶりだ


 翌日。背中に美鈴をおんぶして、食器を片付けていると、インターホンが鳴った


 「お邪魔します。早苗さなえです。大阪のばぁばがきたで」


 モニタカメラ越しに見た義母は、やはりヒョウ柄の服。それに大荷物を抱えてマンションの廊下に立っている。いかにも、“おのぼりさん”な感じが、恥ずかしく思った浩子は慌てて玄関まで行き、ドアを開けると、ニコニコした義母が、矢継ぎ早に話しかけてきた。


 「あら〜浩子ちゃん。久しぶりやね。元気しとった?これ、お土産の豚まんと、ロールケーキ。あと美鈴ちゃんの肌着とおもちゃ!これ、赤松屋あかまつやうてん。ええなぁ、あそこの店。ホンマ安くて可愛いのだらけで、ばあちゃんえらい困ったわ〜。あら、おぶさってるのが美鈴ちゃん?ホンマかわええなぁ〜。後からでええから、抱っこさせてや」


 少したじろぎながら、お土産の袋を受け取る


 「...はぁ、ありがとうございます...。お母さん、立ち話もなんですから、どうぞ上がってください」


 「せやな。ほな、一晩お世話になります」


 お義母さんをソファーに座らせると、浩子は、お土産の豚まんを冷蔵庫にしまった。それからロールケーキを切り分けて、お茶を出そうとする。ところがその矢先、背中の方で“ツンとした匂い”と共に、美鈴が大声で泣き出した


 「どしたん?」


 「多分、ウンチが出ちゃってそれで...」


 「ほな、私がオムツ換えるさかい、おんぶ紐外し。美鈴ちゃんをちょっとかりるで」


 言われるがまま、おんぶ紐を外して美鈴を渡すと、お義母さんは、手際よくオムツを取り替え、まだ泣き止まぬ美鈴を抱き抱えて、ゆらゆら揺れる

 

 「ほ〜ら美鈴ちゃん、はじめまして。大阪のばぁばやで〜」


 美鈴は安心感からか、すぐに泣き止み、スヤスヤと眠ってしまった。お義母さんは、美鈴をそっとベビーベッドに下ろした


 「お義母さん、すみません」


 「ええって、こっちも可愛い孫を抱っこ出来て、挨拶までできたんやから、むしろハッピーやで。それにな、ウチの俊成のお嫁さんやから、浩子ちゃんはもう、ウチの“娘”同然や。娘が困ってたら、心配して、時に助けるのが“親”ってもんや。遠慮せんでええ」


 浩子は、ハッとした。『私、お義母さんのこと誤解していたのかも...』今までは苦手だった義母だったが、美鈴が生まれ、母になったからこそ、“親の気持ち“というのが少し分かった気がした


 「お茶淹れてくれたんやろ?おおきに。ほな、冷めんうちに、ケーキと一緒にいただきまひょか」


 ダイニングテーブルに向かい合うように座り、浩子は義母と、”仲の良い実の親子“のように他愛もない話に花を咲かせた。安心感を覚えた浩子は、ある悩みを、お義母さんにぶつけてみることにした


 「お義母さん、私、ちゃんと母親ママとして出来てるでしょうか?」


 少し呆気に取られた顔で、お義母さんが聞き返す


 「話聞く限り、ちゃんと、“おかあちゃん”やってるがな。なんか悩んでることあんなら、言いや」


 浩子は、憧れの『あかりママ』ようになれず、俊成にたしなめられるほど、家事もままならない自分が、情けなく感じていることや、母親としての“自覚”が足りてないのではないかと思うことを、あけすけに話した

 

 浩子の目には涙が浮かぶ。以前、実母に同じことを話したとき、母は『そんなことで、悩んでないでしっかりしなさい!“お母さん”なんでしょ?』と、まともに取り合ってくれなかったことを思い出したのだ。そして、『こっちのお義母かあさんにも同じこと言われるのだろう』と無意識に身構えた


 するとお義母さんは、予想に反しケラケラと笑った


 「真面目やなぁ、浩子ちゃん。もっと肩のチカラ抜きや。さっきも言うたけど、あんたはちゃんと“おかあちゃん”やで」


 呆気にとられた浩子は、泣き顔のまま顔をゆっくり上げる。するとお義母さんは目を細め、聖母マリアのように微笑んだ


 「浩子ちゃん。『うちはうち、よそはよそ』やで。さっきスマホで見せてくれた、“モデルさんのおかあちゃん”もカメラ回ってないとこで、子ども怒鳴りつけてるかもしれへんで?ええか、“子育て”っちゅうもんは、何も、競争じゃあらへんし、“綺麗事”だけではどーにもならへんもんなんや。そんな中、おかあちゃんがやらなアカンことは、『子どもにひもじい思いさせず、元気に育てること』や。もうそれが出来てるんやったら、上出来やで」


 その言葉にまた涙が溢れてくる。すると義母は立ち上がり浩子を抱きしめた。浩子がひとしきり泣き終わると、今度は美鈴が起きて、泣き始めた。ミルクの時間だ。浩子はミルクを作りに、お義母さんは美鈴をあやしに行く。ミルクを渡すと美鈴は、お義母さんに抱かれながら、ミルクを美味しそうに飲んでいる。思わず見惚れてしまったその姿は、宗教画の様な“神聖さと慈しみ”に溢れていた


 ハッと、リビングの時計を見ると、もう16:30を過ぎていた。今日は俊成も定時で帰ってくると言っていたので、これから買い出しに行って、夕飯の準備をせねば間に合わない。いそいそと支度をして、お義母さんに留守番を頼もうと一声かけようとした。しかし、“タッチの差“で、お義母さんの一言が遮った


 「ええやん、今日は外で食べよ。ばぁば、ご馳走するさかい。ああ、お金なら心配いらへん。昨日パチンコでたんまり勝ったんや。寿司でも焼肉でもどーんとおまかせや!だから浩子ちゃん、あの俊成バカムスコが帰って来るまで、のんびりしとこか。”女子会“の続きや」




 大阪のお義母さんが帰ってから、はや2週間が経った

 

 「ママ〜美鈴のオムツどこだっけ?」


 俊成は、浩子に教えられた場所から紙オムツを取り、美鈴を仰向けに寝かせて、サイドの縫い目からオムツを破いた。オムツの中には立派なモノが出ている。臭いに参りそうになりながらも、たどたどしい手つきでなんとかオムツを取り替えた


 あの日の晩、帰宅した俊成を待っていたのは、お土産の豚まんだけではなかった。お義母さんの“大カミナリ”が落ちたのだ


 『ええ加減にし!アンタはもう、美鈴ちゃんの“おとうちゃん”なんやで!“子どもの世話はおかあちゃんの仕事”なんて、言うてる時代じゃもうあらへんのやろ?しっかりし!あとな、“おかあちゃん”の話はしっかり聞いてやるのも旦那の仕事や。浩子ちゃん泣かせたらアカン!』


 まるで、小さい子どものように叱られて、シュンと小さくなった俊成を見るのは初めてだった。それが効いたのか、俊成は少しづつ美鈴のお世話、そして家事をしてくれるようになった。そして浩子はあの日以来、気持ちが軽くなり、もうSNS上の“育児”を“幻想ファンタジー”と割り切り、憧れとして真剣に追い求めなくなっていた。


 「ママ!来て!美鈴が“つかまり立ち”しそうだよ!」


 浩子は決定的な瞬間を見逃すまいと、洗濯物畳みを一時中断し、リビングの2人の元へ駆けていくのだった


終わり

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