第38話 奪還 6/6

 幾松は竹の棒で、必至に川の底を突き続けた。鴨川の水深は、人の腰くらいまでしかなく、船を漕がなくとも船上から棒で川底を十分に押すことができる。竹の棒は以蔵があらかじめ船の中に用意しておいたものだった。川の流れに船を任せているだけではスピードが遅く、追手に追いつかれてしまう。しかし、女性の力では、そう早くは進まない。それでも掌の痛みに耐えながら、幾松はひたすら川底を突き続けた。追手の新選組隊士たちは全部で四人。

「止まれ、止まらんと斬るぞ!」


 隊士たちはそれぞれにドスの効いた大声で叫びながら、川沿いの河原を追走してきた。幾松が乗る船との距離は次第に詰められていき、隊士たちがばしゃばしゃと服を来たまま川の中に入ってきた。幾松は対岸に逃げようと船を押したが、間に合いそうにない。

「おまんらっ、おなごを相手に大の男が寄ってたかって何をしちゅうがぁ」

 隊士たちの背後から大声が聞こえた。あまりの大声に隊士たちだけではなく、幾松までが一瞬固まってしまった。

「何やつだぁ、新選組のやることに口出しするなっ」

 隊士の一人が、そう吐き捨てるように言うと、再び川の中へと進んで行こうとした。しかし、その男がいつの間に背後に立っていて、乱暴に答えた隊士の襟首を片手で捕まえて、後ろに放り投げた。隊士は一瞬中に浮いたかと思うと、川の浅瀬に尻から落ちた。


「きさまぁ、邪魔立てするなら斬る」

 四人の隊士は抜刀した。

「何者だ、名を、名乗れ」

 四人の隊士はその男を取り囲んだ。

「名乗る程のもんじゃーないけんど、元土佐藩士・坂本龍馬っちゅうがぜよ」

「坂本龍馬だと。攘夷活動を煽っている討幕派のあの坂本かあ。女は後でいい。こいつを先に引っ捕らえるぞ」

 隊士の一人が他の三人の隊士に指示を出した。龍馬は新選組の中でも最重要人物として知られたいた。どうせ処刑されるだけの女を追ったところで、何の得にもならない。それより目の前の幕府が最も警戒する要人を捕えて、昇進の足掛かりにしたいと隊士たちは考えた。


「ほー、わしはほがな有名になっちゅうがかえ」

 龍馬はそう言うと、自分の刀の鯉口を切りながら、ゆっくりと川の中から岸へと歩いた。隊士たちは、龍馬を取り囲んだままそれに続く。

「おまんらは、武士道っちゅうもんを学んできちゅうがかえ。大勢でよってたかって戦うように、おまんらの師匠から教えてもらったがかえ。武士の世も、えろー変わってしもうたもんぜよ」

 そう言い終わらないうちに、なんと龍馬の背後にいた隊士が、上段から斬りかかってきた。龍馬は後ろに目があるが如くその一刀を避けた。

「わしは今、武士道の話をしちょったぜよなぁ」

龍馬は呆れたように言った。その隊士は龍馬の右横をすり抜けようとしたが、龍馬の下段からの一刀をまともに腹に喰らい、河原に倒れ込むと悶絶した。

「後ろから斬りかかるっちゃ、おまんはわしの言うたことがわかっちゅうがかえ。まぁ、峰打ちやき、死にゃーせんぜよ。けんど打ち所が悪ぃと、骨が砕けゆうきに注意するがぜよ」

 龍馬は平然と言った。


 新選組は戦闘を行うときは、恒常的に集団で攻撃する戦法を取っていた。しかし、長い日本刀を持っているために、同時に襲い掛かっては、敵に跳ね除けられた刀で見方に怪我を負わしてしまう危険性があるため、同時攻撃とは言え、ほんの少しのタイムラグが生じてしまう。残った三人の隊士も、龍馬に一斉に斬りかかったが、ほんの少しの時間的なずれがあった。龍馬はそれを心得ていた。次々に繰り出されて来る一刀を、タイムラグの間に回避し、自分の刀で跳ね返した。いくら打ち込んでも難なくかわされ、次第に隊士たちは、肩で息をするようになっていった。

「おまんら、もうばてたかえ」

 龍馬はあえて、敵のプライドを傷つけるような言葉を浴びせた。小馬鹿にされた隊士たちは、躍起になって攻撃を繰り出すが。そのたびに体力を奪われていった。そして、龍馬は相手の攻撃の間隔が間延びしてくるタイミング待った。


「もう止めた方がええぜよ。おまんらじゃ、わしを斬れんきに」

「何だとぉ、新選組を侮辱するとは許さん!」

 一人の隊士が、力任せに猛然と斬りかかった。龍馬は初めて相手の攻撃を受け止めた。その隊士は、鍔迫り合いにも持ち込めないまま、簡単に押し戻され、後ろに飛び下がったところを龍馬に追撃されて、脇腹に一刀を食らって悶絶した。残った二人の隊士も同じように斬りかかったが、龍馬の敵ではなかった。次々に倒され悶絶した。

 龍馬の戦いが終わるころには、幾松を乗せた小舟は、はるか下流を漂っていた。龍馬の目にはっきりと見えなかったが、幾松が龍馬に向かって頭を下げているように見えた。

「桂さん、わしにできるのはここまでぜよ。後は自分の力で、道を切り開いとおせ。」

 龍馬は独り言ちると、鴨川を木の葉のように漂う小舟の行方をしばらく眺めていたが、やがて視界から消えて行った。

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