第25話 坂本龍馬 5/5

 桂と龍馬は、十代の頃、共に江戸で剣術の修行に励み、二人は見る見るうちに頭角を現し、江戸でも指折りの剣豪と称されるようになった。そして、その二人が、それぞれの道場の代表として対外試合で激突したのは、八年前のことだった。龍馬はその時のことを鮮明に覚えていた。試合が始まり、向かい合った時、桂の身体中から凄まじい覇気が発せられていた。一瞬でも気を抜けば、その瞬間に勝負が決まってしまう、龍馬はそんな思いに駆られ、改めて気合を入れ直し、桂を睨みつけた。しかし、桂は全く動じない。龍馬から先制攻撃を仕掛けたが、簡単に避けられて、その後の反撃に転じるスピードが恐ろしく速い。まるで龍馬の動きを読んでいるかの如く反撃してくる。それに正面から龍馬が打ち込んでも、桂に剣で受け止められ、いくら押し込もうとしても岩のように動かない。何もかもが、桂の方が一枚上手のように思えた。

「やられる」


 龍馬は対外試合で初めて相手に負けるかもしれないという恐怖心を抱いた。そん恐怖心が災いしたのか、龍馬はいつの間にか防戦一方になり、一本目を呆気なく先取されてしまった。三本取られれば負けてしまう。このままの状況では、どんどん自分が追いつめられる。難敵を相手に、二本目を取られれば負けに等しくなる。相手のスタミナを消耗させて、疲れたところを一気に反撃に転じることができるか、そう考えてはみたが、桂の攻撃に対するエネルギーは一向に落ちる様子がない。何か打つ手はないか、龍馬は防戦しながら必死で考えた。そして、桂に自分の呼吸を合わせてみると、しばらくしてあることに気が付いた。龍馬が苦し紛れに攻撃を仕掛けるのだが、桂はそれを避けようとしないのである。試合開始直後に、龍馬から不意に先制攻撃を受けた時に、桂は回避行動を行っただけで、あとはいくら龍馬が打ち込んでも、正面から受け止めようとする。龍馬は思った。この男は逃げる術を知っているのに、あえて逃げることをしないのではないのか。龍馬は正面から打ち込まれ後ずさりしながら、桂の小手を狙う振りをして、右手一本で相手の喉に突きを入れた。龍馬の一瞬のフェイクに惑わされ、自分の剣で龍馬の剣を弾き飛ばす間がなかったが、避ける時間はあった。しかし、桂はそれをせず、あえなく一本を取られた。

「なんで逃げんぜよ」


 龍馬は一本を取ったという喜びよりも、この男の戦い方に対する疑念の方を強く感じた。試合が再開してからは、桂は龍馬のフェイクを警戒したのか、怒涛のような攻撃がほんの少し弱まった。龍馬はその隙を見逃さず、一気に反撃に転じた。しかし、龍馬がいくら押せども桂は後ろに下がらない。龍馬の懇親の一撃も、真正面から受け止めてはそれを弾き返す。龍馬は猛攻している中で、もう一度最初の一本を取った時と同じようにフェイクを使ってみたが、今度は読まれていた。読まれていたのではない。桂はこの瞬間を待ったいたのだった。龍馬は小手を狙った振りをしたが、桂はその防御態勢を全く敷いていない。このまま小手を打ち込めば勝敗は決まるのだが、龍馬の剣は急にその矛先を変えることができず、弱々しく桂の喉へと竹刀の先を向けた。それを待ちか構えていたかのように、桂は自分の剣でそれを弾き、閃光のような一撃を、龍馬の面に叩き込んだ。


 その後は、龍馬は小細工的な攻撃は止めて、真正面からの打ち合いに臨んだ。一進一退の攻防が続き、龍馬が一本を取替えし、同点のまま最終決戦へともつれ込んだ。両者は一歩も引かず激しい打ち合いになったが、やはりここで明暗を分けたのはスタミナだった。並外れた桂のスタミナは底をつくことを知らず、龍馬のスピードがにわかに落ち始めた。このまま持久戦になれば、龍馬の勝機がどんどん薄れていく。意を決した龍馬は、正眼の構えから、桂の面を狙って目にもとまらぬスピードで真正面から踏み込んだ。桂は逃げない。桂もそれに応じて正面から踏み込む。目にも止まらないスピードで二人は交錯した。だれの目にも相打ちに見えたが、軍配は龍馬に上がり、この試合の勝者は龍馬となった。道場内は異様な雰囲気に包まれ、居合わせた剣の達人たちは、彼らの次元を超えた一進一退の激しい一戦を目の当たりにし、かつて見たことがない結末に言葉を失った。


 試合の跡、龍馬は桂のところへ挨拶に行った。頭一つ下げない不愛想な男だった。

「おまん、あん時、逃げようと思えば逃げられたけんど、なんで逃げんかったがぜよ。」

 龍馬は自分が一本目を決めた時の突きのことを徐に聞いた。

「それでは、試合に勝っても自分に勝ったことにはなりません。そんな勝利は望んでおりません。それにあなたの最初の一刀を避けてしまった。後悔しています。全ては私の修行不足の結果です」

 不愛想なこの男は、龍馬の問いにきっぱりと答え、道場を後にした。勝ったとは言え、常に真正面から挑んで来る相手に対して、例え一度とは言え、フェイクを入れて一本を取ってしまった。龍馬にとっては、何とも後味の悪い勝利となった。


 今、自分の目の前にいる男は、あの日の桂小五郎ではない。この男の目は、悲しみに打ちひしがれている。何も言おうとはしないが、池田屋で襲撃された時、この決して逃げない男が逃げたと言うことは、自分の身が斬られるより辛い選択だったのであろう。自分だけが助かりたかった訳ではない、日本の未来のために、断腸の思いで仲間を見捨てたのだと言うことが、龍馬にはよくわかった。人は挫折して強くなる。いや、挫折失くして大成はない、そのことを若くして龍馬は学び知っていた。桂はいつか大きな事を成し遂げると、この時龍馬は確信した。

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